そんな気分でいる。
この間、同友会の広報誌に掲載された文章のまとまり方が見事だったので。
思わず、その御仁にハガキを書いた。
しばらくしたら、返信があり、しかも、封書で。
ご自分の書かれた、いくつかの文章、中学の時のものまであったけれど。
それを送っていただいた。
送って行って、送られて、また送って行って、みたいな具合の。
通信になりそうな気もしたので、いつも眺める、文房具屋さんの万年筆コーナーが思い浮かんだ次第。
LINEやらmessengerやら、世は便利なツールが開発され、瞬時に反応の応酬ができ。
ノンストレス、ではあるけれど、それがまた、ある方々には、ストレスにもなる。
という、まるで、資本主義の発展段階をみているような様相ではある。
そんな世に、万年筆での応酬も、また一興というもので。
回るお寿司屋さんの、タッチパネルでの応酬もそれはそれなりに便利ではあるけれど、この間、下田での。
いきなりの万来の客人方を前にした、おしゃべり親父のパニクった無口の握りも。
これまた、なかなか、味わえないもので。
そうか、万年筆は、あの親父だな。
このところ、目の前のものとどこか別のものとを、似た者同士、と呼ぶのが楽しくて。
例えば、夕べ、テレビで、ケニアでは石を食べる、なんて映像が流れていて。
傍で、妻は、ウェーというような感想を漏らしていたけど、当方は。
たぶん、これ、この列島でも、似たような食し方、あるんじゃないだろうか、と探していた。
昨日は、午前午後と研修で、建築現場の安全のための、あの手この手の講義。
さすがに、午後の食後の時間は、スーッと睡魔がやってきて、一番前だったので、寝るわけにもいかず。
という時間を過ごし。
ところで、日曜日に行った、清見寺、ま、昔は、清見ヶ関とでも呼ばれていたのか。
その名前の由来が、ボランティアガイドさんによれば、天武天皇が、と。
631?年から686年、という人生だったようだから、だいたい、その頃に、つまり。
600年代、半ばくらいか、に清見ヶ関の名前となったわけだ。
近くに、波切不動尊、という小さなお宮さんがあって、そこは、例の、坂上田村麻呂が。
蝦夷を「討伐」した、という戦勝記念で作られた、とも。
それが、801年なんだって。
この150年くらいの間、ってのが、なかなか、この駿河の地の謎を表している、とも言えるね。
その頃ついた地名に、勝間、があって、なんてお話もしていただいたんだけどね。
そうだ、近くを流れる川、今は、波打川、と書いて、はたうちがわ、実は、戦勝記念の旗を打ったので。
旗打川が訛ったものだ、ともいうんだね。
ま、何れにしても、ヒーローを語り継ぐ、ってのが、ある意味、歴史とも言えて。
長嶋茂雄、とか、イチロー、とか、ペレ、マラドーナ、みたいな。
空白の150年、というのが、安倍川にも通じ、というのも、当時のヒーロー、田村麻呂は。
飛鳥、いや、大和からやってくるわけだ。
海路とは聞かないので、陸地を歩いて、あるいは、馬で、と言っても、その頃の馬は小さな馬だよね。
まさに、山あり谷あり川ありの中を、遠いあずまの地へ、彼は、旅立った。
辺境の地へ、だ、物見遊山じゃなくね。
しかも、さばえなす、草木もわんわんと騒ぐ、というくらいの地。
そこが、今でいえば、駿河、という地。
なんてことなどなどに、思いは飛んでいき、ちょうど、清見ヶ関、そう、今でいえば、宗像神社のあるあたり。
そこで、東北の雄、アテルイやモレのような戦士を迎え撃った、ってわけだ。
蝦夷を巡る旅、の時、東北のどこだったか、駿河の地まで攻め込み、なんてコメントが書いてあったな。
その頃の平均年齢が、いくつだったのか、知らないけれど、30とか40歳とかであれば、何世代?
そんな長い時間が、流れたんだよね。
だから、って、ここで強引に結論に持って行くこともないけど、LINEの超高速のレスポンスとともに。
万年筆での応酬、というものの魅力も、味わってみるとするか。
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