まわりで起こっていること

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万年筆を買おうと思い立ち

2017年04月26日 | Weblog

そんな気分でいる。

この間、同友会の広報誌に掲載された文章のまとまり方が見事だったので。

思わず、その御仁にハガキを書いた。

しばらくしたら、返信があり、しかも、封書で。

ご自分の書かれた、いくつかの文章、中学の時のものまであったけれど。

それを送っていただいた。

送って行って、送られて、また送って行って、みたいな具合の。

通信になりそうな気もしたので、いつも眺める、文房具屋さんの万年筆コーナーが思い浮かんだ次第。

LINEやらmessengerやら、世は便利なツールが開発され、瞬時に反応の応酬ができ。

ノンストレス、ではあるけれど、それがまた、ある方々には、ストレスにもなる。

という、まるで、資本主義の発展段階をみているような様相ではある。

そんな世に、万年筆での応酬も、また一興というもので。

回るお寿司屋さんの、タッチパネルでの応酬もそれはそれなりに便利ではあるけれど、この間、下田での。

いきなりの万来の客人方を前にした、おしゃべり親父のパニクった無口の握りも。

これまた、なかなか、味わえないもので。

そうか、万年筆は、あの親父だな。

このところ、目の前のものとどこか別のものとを、似た者同士、と呼ぶのが楽しくて。

例えば、夕べ、テレビで、ケニアでは石を食べる、なんて映像が流れていて。

傍で、妻は、ウェーというような感想を漏らしていたけど、当方は。

たぶん、これ、この列島でも、似たような食し方、あるんじゃないだろうか、と探していた。

昨日は、午前午後と研修で、建築現場の安全のための、あの手この手の講義。

さすがに、午後の食後の時間は、スーッと睡魔がやってきて、一番前だったので、寝るわけにもいかず。

という時間を過ごし。

ところで、日曜日に行った、清見寺、ま、昔は、清見ヶ関とでも呼ばれていたのか。

その名前の由来が、ボランティアガイドさんによれば、天武天皇が、と。

631?年から686年、という人生だったようだから、だいたい、その頃に、つまり。

600年代、半ばくらいか、に清見ヶ関の名前となったわけだ。

近くに、波切不動尊、という小さなお宮さんがあって、そこは、例の、坂上田村麻呂が。

蝦夷を「討伐」した、という戦勝記念で作られた、とも。

それが、801年なんだって。

この150年くらいの間、ってのが、なかなか、この駿河の地の謎を表している、とも言えるね。

その頃ついた地名に、勝間、があって、なんてお話もしていただいたんだけどね。

そうだ、近くを流れる川、今は、波打川、と書いて、はたうちがわ、実は、戦勝記念の旗を打ったので。

旗打川が訛ったものだ、ともいうんだね。

ま、何れにしても、ヒーローを語り継ぐ、ってのが、ある意味、歴史とも言えて。

長嶋茂雄、とか、イチロー、とか、ペレ、マラドーナ、みたいな。

空白の150年、というのが、安倍川にも通じ、というのも、当時のヒーロー、田村麻呂は。

飛鳥、いや、大和からやってくるわけだ。

海路とは聞かないので、陸地を歩いて、あるいは、馬で、と言っても、その頃の馬は小さな馬だよね。

まさに、山あり谷あり川ありの中を、遠いあずまの地へ、彼は、旅立った。

辺境の地へ、だ、物見遊山じゃなくね。

しかも、さばえなす、草木もわんわんと騒ぐ、というくらいの地。

そこが、今でいえば、駿河、という地。

なんてことなどなどに、思いは飛んでいき、ちょうど、清見ヶ関、そう、今でいえば、宗像神社のあるあたり。

そこで、東北の雄、アテルイやモレのような戦士を迎え撃った、ってわけだ。

蝦夷を巡る旅、の時、東北のどこだったか、駿河の地まで攻め込み、なんてコメントが書いてあったな。

その頃の平均年齢が、いくつだったのか、知らないけれど、30とか40歳とかであれば、何世代?

そんな長い時間が、流れたんだよね。

だから、って、ここで強引に結論に持って行くこともないけど、LINEの超高速のレスポンスとともに。

万年筆での応酬、というものの魅力も、味わってみるとするか。

 

 

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