昨日、ふとしたことで、うつ病の話になり。
まわりでも何人か、そんな話を聞いているのだけど。
個々の話には、さまざまな由縁があるんだろうから、迂闊には結論づけられない。
んだろうな。
のだけれど、若かりし頃読んだ、吉本隆明、共同幻想と自己幻想、だったか。
その二つは、逆立ちの関係、と言っていたな。
共同幻想、というのは、社会などの集団の持っている、考え方、感じ方、価値観などなど。
それによって、みんなで個人を守り、というようなものでもあるんだけど。
しかし、そんな、もともとは、共同で力を合わせてはたらき、ということが。
かえって、個人を縛り付け、がんじがらめにし、というような話で。
ふと、今朝、昨日聞いたうつ病のことを思い浮かべたら、吉本隆明の逆立ち、ってのが、浮かんだ次第で。
よかれと思っての営為が、知らぬ間に、お互いを縛り付け、身動きならぬように、というわけだ。
このところの、さまざまなキャンペーン、というのか、同調圧力とでもいうか。
そんなものを眺めていると、うつ病の発症に限らず、鬱陶しい世間でもあるな。
はともかく、くだんの相方とは、組織としてはチャレンジしがいのあるテーマ、というのか、課題、というのか。
そんなことになるね、と話したんだった。
わが社も、ずっと前から、病気をしない会社、というフレーズから始まって、今では、病気の治る会社。
なんての、目指しているからね。
大言壮語、ある場合には大事だな。
「しっかりしなきゃ」オーラ、をね、いかに、消し去るか、あるいは、同じことに違った意味、意義を持たせられるか。
って感じかな。
メンタルの深い部分の話にも飛んでいき、わが瞑想の領域とも絡むはずなんだな。
もっと言えば、生命そのもの、あるいは、地球だったり、ね。
生命誕生、そして、日々の営為、みたいなデッカイ話にもなる、けど、実は、ごく些細な話でもあるんだな。
単に生きて死んでいく、むしろ、生きてあるだけ、というか。
そもそも、誰一人、死というものを体験したことがないからね、あれが死だ、というような。
伝聞でしか死を味わえない、あるいは、幻想でしか、ね。
体験、体感できるのは、今でしょ!、イマココしかないでしょ、ってわけだ。
もっとも、眠りに入り込む瞬間を、死、とも言えるかも、だけど、どうなんだろう。
いやいや、テーマは、「しっかりしなきゃ」病を強いる社会の共同幻想だったな。
目くそ鼻くそ、50歩100歩、十人十色、あと何かな、イマル、生きてるだけで丸儲け、とかさ。
どうにでも、解釈のしようがあるんだけどね。
真面目で、聞き分けのいい子は、どうしてもさ、体制順応型にならざるを得ず。
で、しかも、学校や社会の仕組みを、雛鳥の雌雄の選別みたいなものとして捉えちゃうとね。
放り投げられるように、はい、メス、はい、オス、みたいな。
さて、そろそろお時間です、骨、行きます。
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