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アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

北の赤べこセンイチを追う~ED751001

2021-01-26 19:00:00 | 鉄道写真(EL)

国鉄時代が終わり、全国的にJRとしての認知が定着し始めた頃、それまでの機関車たちには変化が現れた。JR各社の個性ともとれる外観の塗色の変化だ。試験塗装機などというような機関車も現れ、またJR独自の機関車更新時における塗色が出現したのである。

今ではその更新塗色も、検査時に元の原色へと戻されるという原点回帰現象が現実化している。どこまで元に戻るのかは判らないが、国鉄機が誕生時の塗色に戻ることは、アントンKだけならず、機関車ファンであるば喜ぶべきことだろう。アントンKにとって、一番衝撃が走った塗色は、EF65のP型の更新色、そしてED75の白塗りになった更新色だったように思う。ヘッドマークを掲げてブルトレを颯爽と牽いていた機関車が、あの時から地味な貨物を黙々と牽いて姿を現した衝撃、そして全身白塗り厚化粧で身を固めたお姿には目を覆ってしまった。赤べこと呼ばれたED75にしても、下半身を無意味に白くしてしまい、どこか精彩を欠いたイメージを持ったのも事実なのだ。

掲載写真は、そんな更新工事に侵される前のED751001号機。一時的ではあるが、当時盛岡機関区に所属していたED751001号機を追ったことがある。白塗りになったらお終いだと、肝に命じて集中したのである。上り特急コンテナを重連でけん引、黒磯で折り返し今度は、ワム編成をのんびり牽いてきたED751001号機。アントンKが最も好むお顔付のナナゴ。現存の700番台との違いも明らかだろう。

1993-02-03      5161ㇾ  ED751001          JR東日本/東北本線:白河付近

 


デゴイチの雄叫びを聞け!~D51 498

2021-01-25 19:00:00 | 鉄道写真(SL)

国鉄がJRへと移行されると、磐越西線への訪問はご無沙汰になると思いきや、逆に増えていった。あまり意識もないのだが、撮影データを見返して件数を数えてみると国鉄時代よりも訪問回数だけは多くなっていた。理由は簡単であり、その一つが復活蒸機の運転、そしてJR化後各地に誕生したジョイフル客車の入線が頻繁にあったことに他ならない。

東北地方でも有数の観光地が点在する磐越西線沿線へは、昔から団体列車の運転も多く、ジョイフルトレインのカラフルな客車列車の入線も多かったのだ。すでに晩年を迎えていたED77との組み合わせに東奔西走し、最高のロケーションのもと撮影を楽しんだことが昨日のようだ。ここでは、1990年から開始された蒸機列車の運転の写真を掲載しておく。冬場の蒸機運転は、当時は珍しく多くのSLファンで沿線はあふれ返っていた記憶がある。現在のような「ばんえつ物語号」のような定着した列車にはならなかったが、数年に渡り運転があったのだ。東長原を出発し、一気に25‰の連続勾配を駆け上がるD51498。アントンKも何年間かこの蒸機列車を狙いはしたが、天候に大きく左右され、時には地吹雪で撮影など出来ないこともあったと思い出している。この時も強風の中、デゴイチの煙が竜の舞のごとく、大きく目の前に広がり撮影も思うようにいかなかった。

1991-02-04   9224ㇾ D51498 磐梯会津路号 JR東日本/磐越西線:東長原付近


想い出が溢れる磐越西線~ED77時代

2021-01-23 19:00:09 | 国鉄時代(カラー)

学生時代のちょっとしたきっかけから出向いた福島県裏磐梯。その時乗った郡山からの磐越西線の車窓の素晴らしさに魅了され、その後何度も出向くことになっていった。初めて行った時は、夏休みだったが、四季折々の鉄道を囲む風景の美しさ雄大さは、当時のアントンKには衝撃的だった。特に記憶に残っているのは、秋真っ盛りの季節、ゴールドラインから俯瞰した磐越西線で、オメガカーブの連続で急勾配を進む列車を見た時、夕日が進む列車に反射しゴールドに輝いて、まさに奇跡の瞬間に出会えたことだ。実際そのシーンの撮影は出来なかったが、その後いつまでも脳裏に焼き付いていて、出撃の原動力になったのだ。

掲載画像は、そんな雄大な連続勾配の続く中、ポツンと佇んでいた更科信号所で交換をする当時の主力列車たち。まだ普通列車で客車列車が残存していた時代で、すでに50系客車に代わっているようだが、主であるED77がゆっくり運転停車。そこへ455系の快速電車が通り過ぎていった。まだこの線区にD51が走るなんて夢にも思わなかった時代。秋の磐西は特に好きだった。

1985-11-04        ED7714         磐越西線:更科信号所


ダイヤ改正に伴う転配列車~EF58

2021-01-22 16:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

前出しの記事と同時期、ダイヤ改正前後に盛んに運転されていた転配列車の撮影に出ている。今回はそんな中から掲載してみる。

1台でも多く、EF58を撮影しようと躍起になっていたこの時期、定期列車以外の団体列車や今回話題にするような回送列車は、ほとんどがEF58けん引の時代だったから、線路端に出ない手はなかったのだ。まずは朝から上京するブルートレインを撮影し、そのまま居座って、東海道線を東西に行き来する列車たちを狙っているようだ。ようだと書くのは、この辺の記憶が曖昧になり、フィルムのコマ番号からの推測になるからだ。ただなぜこの撮影地なのか、今では見当がつかなくなってしまった。鉄道移動で、さほど遠くもなくお金もかからないこの保土ヶ谷付近なら無難と考えたのか。

掲載写真は、それまで東北線等で使用していた20系客車の転属配給列車で、一路西を目指して快走してきた。宮原区のEF58にけん引され、一見急行「銀河」と見間違えそうだが、最後部を見ると一目瞭然、何とナハネフ22が重連で連結されていた。確かこの改正から、全国の列車表示幕に絵柄が加わったと記憶しているが、坊主のナハネフ22をこうして見るとどこか悲しそう。新天地での活躍を願わずにはいられなかったろう。

1978-10-01  回8103ㇾ  EF58140  20系 ナハネフ22 23  東海道本線:保土ヶ谷付近

 


昭和は足で稼ぐ時代~EF58

2021-01-21 17:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

毎月局報を見て、機関車運用を把握しても、実際何番の機関車が使用されるのかは、その時にならないと判らなかった。形式までは判っても、当時ゴハチを狙っていた時代は、機番潰しに専念していたところがあったから、自分にとってお初の機番が上京するとなると、このチャンスを逃がす訳にはいかないと仲間内で躍起になっていたことを思い出す。この時点ではロクイチや、宮原のゴハチはまだ撮影のチャンスはいくらでもあった。まずは滅多に上ってこない下関や広島のカマにいつも注視していた記憶がある。大概は、創臨と呼ばれる宗教臨での上京パターンが多かったが、関東には日暮れ後やってきて、翌日は早朝下るという撮影するのには、大変厳しいスジだった。当時は早朝下る列車をターゲットとして計画を立てたことが多かったが、機番によって当然ながら行動パターンや撮影地も変わり、お初となれば、機番が分かるように大きく撮影したいと考えていたと思う。このような状況だから、一刻も早く機番を認知したいという欲求から、前日上ってくる列車を目視して、機番確認を行うことが次第に増えていったことも懐かしく思い出せる。現在のように、運用に就いた時点で、すぐに機関車の機番まで把握できる時代ではないのだ。あの時代に今のような情報量があったら、どんなに楽が出来た事だろう、なんて意味のないことを考えてしまう。人は何でも楽な方へ心地よい方へ向かい、それが当たり前になり、後戻りが出来なくなる。令和の時代に考えることではないのか。

目視確認をしていく中で、どうせならカメラ持参でシャッターを切ろうと思い出したのは、しばらく経ってからのこと。1分でも停車があればバルブでもしたことだろうが、ほとんど停車することなく、徐行でホームから離れていった記憶がある。暗闇の中から、ゴハチ一灯のライトが近づいてくると、さあ来い何番だ!と気合が入ったもの。この時は仲間内で人気だった69号機がホームに滑り込んできた。

1978-11-17  6348ㇾ  EF58 69  12系      東海道本線:横浜駅