アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

E3系銀つばラストラン

2016-10-30 22:00:00 | 鉄道写真(EC)

先月庄内へ旅した際乗車した山形新幹線。普段、新幹線は趣味の対象外であり、もっぱら移動手段としてしか見ていなかったが、久々に乗ったE3型新幹線が気に入り、見直していた矢先に、このE3系の旧塗装車がラストランという話が舞い込んできた。そこで週末に色々絡めながら東北を廻ってきた。

山形新幹線「つばさ」と言えば、福島から奥羽線へ入り板谷峠を越える訳だが、先月乗った際、変わり果てた窓越しの風景に言葉を失ってしまった。もちろん連続して存在していたスイッチバック施設はなくなり、本線上に仮設のようなホームが出来たことぐらいは聞いていたが、今回実際現実を目のあたりにしてしまうとやはり衝撃は大きい。

峠に入る前に庭坂に寄り、かつて「あけぼの」を撮影した築堤にも行ってみた。うる覚えになった記憶をたどりながら、線路端に立ち新幹線を撮る。山すそに沿って下りてくる新幹線を見て、一気に記憶が甦る気がした。スケールの大きい景色は昔と変わらず、E3系新幹線がスイスイと行き来していたが、あの時まさかここに新幹線が走るとは夢にも思わなかったし、こうして現実を付きつけられると、何だか感慨にふけってしまう。

今回のメイン列車は、やはりかつてよく行った板谷のスノージェットに行ってみた。もともとスイッチバックだった板谷駅だが、話に聞いていたようなホームが何とスノージェットの中に・・調べればここに停車する列車は日に数本という有様だった。もうかつてのような賑わいは無くなっていた。

2016-10-29     9236M    E3系シルバー塗装車    山形新幹線/板谷付近

 


カリスマ演奏家の魅力とは

2016-10-29 10:00:00 | 音楽/芸術

最近発売された専門誌に、カリスマ演奏家の魅力をまとめた特集があったので目を通している。そもそもカリスマと呼ばれる演奏家は、アントンKにとっては、天にも届くとても近寄りがたい存在との認識だった。その演奏家が、もうこの世にいないのなら、残されたエピソードを読んだり、聞いたり、またレコードから出てくる音楽で想像できた。この想像がカリスマ性を生むのだと思っていた。ずっと語り継がれているフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュをはじめ、前世期の巨匠たちがこの現代にもし甦ったら、同じようなカリスマでいられたのだろうかと考えてしまった。

アントンKが今この特集を読んで感じたことは、カリスマとは自ら発するのではなく、世間や時代がカリスマを生み出すということか。だから、カリスマとはある意味ま逆な現代社会では、もうカリスマ演奏家など出てこないと思われる。現代では、もっと身近な自分たちと変わらないことが好まれるから・・・大衆から距離を置き、威厳があるような人間は社会から相手にされないようである。みんな同じが好まれる時代。音楽においても、また写真においても、みんな同じ。この無個性な時代、何とかならないだろうかと思うのだが・・・

最近聴いた、ピアニストのアファナシエフ。彼もカリスマ演奏家の中に上がっていたが、確かに演奏は超がつくほど個性的だったが、一度舞台を降りると、随分愛想のよい紳士に映った。カリスマといった近寄りがたさはなかったのだ。朝比奈隆も同様。自ら舞台の上では役者だと語っていたが、普段は親しみやすい親父といった雰囲気だった。

アントンKにとっての今まで体験したカリスマ演奏家は、セルジュ・チェリビダッケのいう指揮者だろう。ビデオでも多くの映像が残されているから、その風貌や指揮振りは見ることができるが、自分が実際感じたようには中々残されていない。今でも忘れられないことは、チェリビダッケが舞台に登場した途端に、こちら側、つまり客席側の空気が変わったように感じることだ。ピンと張り詰めるというのか、冷たく透き通るというのか、拍手で沸くホールに独特の色目が加わる。そして、演奏が始まるが、最初の音が出るまでが長いこと長いこと。先ほどの空気が、ホール全体に行きわたるまで、指揮者チェリビダッケは、ジッとして動かない。ホールでの咳や雑音が無くなるまで待っていると思っていたが、実はそうではないようだ。全く無音になり、耳がツーンとしてきた時、タクトを下ろすのだった。今思えば、この数分、数十秒の間に、アントンKは極度に集中して冷静に音楽に身を置くことができた訳だが、同時にこの時点でチェリビダッケの魔力に吸い寄せられてしまったのだろう。つまり、チェリビダッケ自身が、指揮台で音楽に集中している気がホールに伝わってきたと理解できるのだ。こんなだから、演奏時間の長いブルックナーも一瞬の出来事に感じてしまう。まさに音楽とは空間芸術ということを思い知らされたのだった。今聴いていた音楽をまたすぐにでも聴きたくなる衝動に何度もかられたものだ。チェリビダッケの演奏には、そんな魔法がかかっていた。こんな些細な出来事が語り継がれていくこと、それがカリスマ演奏家なのかなと、今では自分の中では変に納得している。

 


さぁ来い!「あさかぜ」

2016-10-26 10:00:00 | 鉄道写真(EL)

秋が深まってきた。これからの季節は陽の光が恋しい季節。撮影時にもお天道さまのお力が欲しいのだ。朝の光も写欲をそそるが、夕方の光を思い通りに捕らえた時、撮影冥利に尽きる。今年はそんな光景に出会えるだろうか・・・

カラーポジを探していると、思い出のあるコマが出てきたので掲載したい。

今や自分の中でも懐かしさの募る寝台特急「あさかぜ4号」。九州ブルトレのトップを切って上京してくる伝統列車だ。トップと言っても、早朝グループの第一弾ではなく、関東では一年中撮影時間帯の第二弾の先頭列車だ。この10列車と前後して上ってくる急行「銀河」の104列車(晩年は102列車)が最も良い光線状態で上ってきていたことを思い出していた。

この写真ですぐに思い出すのは、ここで撮影した畏友のロクイチの写真に魅せられ、当時自分も真似してみようと撮影したものということ。もっとも見せられた写真は、ちょっと考えにくい角度で撮影されていて、ロクイチの大窓が強調されたかつて見たことのないものだった。それからすると、随分と大人しいアントンKのこの写真。当時はこれでも精一杯の撮影だったなと、今さらながら思い出している。まだうまく使いこなせないロクナナ400mmに四苦八苦して撮影し、たまたまピントがきたコマだった。とにかくこのレンズ、接近戦は非常に難しい印象だった。枕木2~3本の距離の差が画像に現れる。そんな印象を受けた。その代わり、ぴったり決まった時の画像は、ポジを舐め回したくなるくらい素晴らしく、達成感を得られたものだ。デジタルカメラでは味わえないドキドキ感。もう忘れつつあるこの爽快感は、今にして思えば貴重な体験だったかもしれない。

1991-01-30  10レ EF6648  あさかぜ4号   PENTAX  67    400mmにて撮影


鬼才!アファナシエフを聴く

2016-10-23 22:00:00 | 音楽/芸術

今週末は、アファナシエフを聴きに紀尾井ホールに行ってきた。

アントンKがアファナシエフを知ったのは、10年以上前まで遡る。最初は、専門誌か何かで名前を知り、当時から超のつく個性派との触れ込みに、CDを買いあさり、そして演奏会にも何度か足を運んだ。確かにCD録音でも、聴いたことのない雰囲気を醸し出しており、独特の世界観が広がっている。そしてリサイタルでは、それが現実となり初めは、戸惑いがあった。

演奏会は、定刻には始まらず、舞台にはふて腐れて(そう見えるような顔つきで)入ってきて、ろくにお辞儀もせずに、いきなりピアノに向かい、呼吸も整えずにいきなり弾き出してしまう。演奏が終わると、あまり客席の方は見ようともせず、ニコリともせずに、ズボンのポケットに手を入れながらそでに引っ込んでしまった。こんな振る舞いにアントンKは唖然と最初はしたもの。今回も同じようなステージマナーだったが、やはり年齢とともにだろうか、だいぶその振る舞いも昔ほど過激ではなくなったように見受けられた。

しかし演奏の方は、相変わらずの内容で超個性的、圧倒的世界感満載の解釈であり、判っていながら度肝を抜かれた感覚だった。

ピアニストでポゴレリチという天才肌がいるが、ある意味実演から醸し出される色合いは似ているかもしれない。音楽そのものはまるで違うが、ピアノの音色から感じる世界感というのだろうか、聴こえる物以外の後味が近いと感じた。後半のショパンは、正統派の演奏からすれば随分遠いところのものだろうが、音の緩急や強弱の幅は必要以上であり、しかもその音色の美しさは言葉では語れない。アントンKが楽しみにしていたのは、むしろ前半のベートーヴェンの「熱情」ソナタの方だった。極端に遅く開始されたと思いきや、突然の急加速。完全に心の叫びが音符となって我々に届いていた。それにしても今回一番驚嘆したことは、アファナシエフのピアノの響かせ方。透き通るようなピアニッシモの時はもちろん、感情丸出しのフォルテッシモの時にも、決して耳障りではなかったことだった。

一時期は、オーケストラも指揮をして、その個性的な演奏を披露していたアファナシエフだが、最近は随分とご無沙汰になってしまった。将来彼の指揮する管弦楽も合わせて聴いてみたいところ。ピアニストに留まらず、医者でも哲学者でもある彼のことだから、どんな展開が待っているのか楽しみに待ちたいと思う。

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル

「熱情とマズルカ」

2016-10-22   東京:紀尾井ホール


ヴァイオリニスト「崔文洙」に感激!

2016-10-22 10:00:00 | 音楽/芸術

前回の記事にて、上岡敏之=新日本フィルによるベートーヴェン・チクルスの凄まじさはお伝えした通りだが、この凄まじさを牽引していたのが、紛れもない今回お伝えするヴァイオリニストの崔文洙(チェ・ムンス)である。

崔文洙と名前だけ聞くと、外国人に感じるが実は日本人であり、現在は新日本フィルのコンサートマスターに就任している。この事実はアントンKは最近まで知らず、かなり意表を突かれてしまった感がある。この崔文洙との最初の出会いは、忘れもしない昨年の大フィルのコンサートの時であった。神戸で行われた大ブルックナー展第1回の演奏会の時、大フィルにとてつもないコンマスが入っていると思ったのだ。それがまさしく崔文洙であった。今にして思えば、指揮者の井上道義氏がおそらく連れて来たのかもしれないが、とにかくその時の崔文洙の印象は強烈だった。確かこのブログにも当時の印象を書き留めてあるはずだが、それ以来、心のどこかで彼のことは意識していたのである。今回、その崔文洙がソリストを務め、それも大好きなベートーヴェンのコンチェルトだという事を知り、居てもたってもいられなくなった訳だ。

アントンKにとって、今回のベートーヴェンチクルス、3曲どれも素晴らしいと感じたが、中でもヴァイオリン協奏曲は、今まで味わったことのない感動を得られた。実演では数えるほどしか聴いたことがなく、その大半がCD録音での鑑賞だったこのコンチェルトだが、おそらく今まで聴いた全てのうちでベストの演奏に入るのではないだろうか。少なくともアントンKの好みで直球ど真ん中を食らった気持である。

どの楽章も印象的だったが、やはり第1楽章は語らずにはいられない。指揮者上岡の解釈は、今回の3曲とも全曲高速進行と思いきや、実はこのコンチェルトでは、その逆に普段聴く演奏よりもじっくり演奏されていた。あとでわかったことだが、これには多分にソリストの崔文洙の解釈が作用してのことだろう。とにかく崔文洙の音色は、暖かく、しかし分厚く、そして何より叙情的で優しいのだ。その音色が聴衆一人一人に語りかけてくる訳だから、どっぷりとホールに浸かっているアントンKにはたまらなかった。崔文洙の奏でる語りのようなヴァイオリンの音色が、心の奥すみまで入ってきて慰めの音楽を聴かせるのである。何度目頭を押さえたか知れないが、ここまで気持ちのこもったヴァイオリンをアントンKは聴いたことがない。後半のカデンツァからコーダにかけての展開は、極端にテンポを落とし、かつ最弱音で演奏され、上岡敏之とのアイコンタクトを何度も繰り返しながら、コーダへと上り詰めて行ったが、このあたりが絶品だったと断言しておく。第2楽章においても、中間部で最弱音が多用され緊張感を仰ぐが、崔文洙の丁寧で暖かい音色がいつまでも耳に残る。

鳴りやまない拍手に応えて、崔文洙はバッハの無伴奏ソナタ第1番からアダージョを演奏。ここでもたっぷりと鳴らし、深く気持ちを込めた演奏であった。この日の演奏会、上岡敏之の息を飲む情熱的なベートーヴェンにも感激だが、それとは対照的に聴こえたこのコンチェルトは、暖かく心の琴線に触れる名演であったと思っている。

演奏会のチケットを買って聴きに行くようになってから、40年以上の歳月が流れたが、その中身はいつも朝比奈隆を代表したオーケストラ音楽がメインディッシュだった。リサイタルでは、やはり一番身近だったピアノリサイタルが一番多いが、今回の崔文洙との出会いで、今までとは違ったスタンスになりそうな予感がしている。