アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

マエストロ井上道義~「俺の第5を聴け!」

2019-06-30 08:00:00 | 音楽/芸術

ネット配信されているマエストロ井上氏とコンマス崔氏とのインタビュー動画を何度も観てからトリフォニーへと向った。もちろん前置きなど考えず、いつも聴いている新日本フィルで、井上道義氏がどんな音楽を作りだすのか、純粋に興味があったのだ。

井上道義氏の演奏会は、幸いにも昔から鑑賞する機会があった。アントンKも経験が浅く、楽曲にも思い入れがまだない頃、メディアで度々拝見していた井上氏の指揮というだけで足を運んだという、何とも不謹慎な理由だった。当然ながら、その当時は第九をはじめ、ベートーヴェンの交響曲を鑑賞したが、どこかどう良かったのか、解らずに過ごしてしまった。彼に関して言えば、近年不幸にも大病を患い、それを自ら克服してから随分演奏も変わったのではないか?もちろんアントンKの何の根拠もない私見だが、闘病後の大フィルにおけるチャイコフスキー、そしてブルックナーは、それまでの井上氏には見られない大きさ、激しさが確認できたと思う。そして彼が最近注目し絶賛されているショスタコーヴィッチの演奏については、まだ未体験だったから、今回なおさら楽しみだった。

「僕は第5は嫌いです」とビデオの中で、そして当日の会場でもお話して下さったが、その理由は、それまで演奏されてきた内容がどれもこれも良くなかったからだという。「今日の演奏を聴かずして第5は語れない」とも話していたから、随分敷居を上げてきたと思う反面、とてつもない自信の塊を見たのである。

こんな前置きがあって鑑賞したショスタコーヴィッチだが、まず第一にやはり本物を聴いたという強烈な印象が残った。この日は、アンコールに至るまで全てショスタコーヴィッチであり、その楽曲の全てに気高い精神性と大きな自信をアントンKは強く感じたのだ。低弦のどっしりとした土台は揺るぐことなく、やはり管楽器の低音部のここぞの主張の激しさ、そして打楽器群の色彩感、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器群の音色の深さは、ショスタコーヴィッチの故郷、ロシアのオケの音色そのものだった。えげつないくらいの音で聴衆に迫った管楽器群は、かつて聴いたスヴェトラーノフやロジェストヴェンスキーを彷彿とさせ、同時に上岡敏之氏の新日本フィルからは対局にあるであろう音色を当の新日本フィルから聴けるなんて思いもしなかったのだ。

      

ロシアのオーケストラを聴くと、そのパワー感やオケの醍醐味を味わえる反面、楽曲に対しては大味に成りがちだが、今回の新日本フィルはこの点少し違っていて、細部の表現に拘りを感じ、いつもは聴こえない響きもまた散見できる。第1楽章の結尾部のVnソロに被さるグリッサンドの響きは良い例で、第3楽章における「祈り」もアントンK自身強く感じられ、脳裏に多々場面が映し出され目頭が熱くなってしまった。井上氏自身話していたことだが、フィナーレ冒頭の立ち上がりは巨大で重厚。その後のアッチェルランドは極少で、重連の巨大蒸機が突進してくる様相。聴いていて高揚している自身がわかったくらい。そして一番感動したのは、プレーヤー達が指揮者井上氏の棒に食らえ付き、集中と発散を繰り返している中でも、各々が自分たちの音楽を楽しみ自信に満ち溢れて演奏している姿だった。Vn1やVn2における激しい音圧と鋭いリズムは、そん所そこらの演奏では絶対に聴けず、何を置いても感動せずにはいられなかった。

こういった指揮者井上氏の意思疎通に多大な尽力を注ぎ、そしてここまでの演奏会を成功に導いたのは、当然ながらコンサートマスターである崔文洙氏の賜物だろう。おそらく、井上氏の拘りを熟知し具体的にオケメンバーに伝達した功績なくして、このような演奏会は成り立たない。そして今回は、プログラムの合間に、井上氏ご自身がマイクを持って舞台袖から現れ、楽曲についての想いを我々聴衆に面白可笑しく投げかけていた。これは音楽、特にクラシック音楽は、敷居の高いものでは決してなく、もっと身近な親しみやすいものということを教示していたのだが、こういった演奏会での演出を含めてコンマス崔氏の采配には頭が下がる想いだ。本当に感謝申し上げたい。

新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 ルビー

ショスタコーヴィッチ  ジャズ組曲第1番

           「黄金時代」組曲 OP22a

                        交響曲第5番 ニ短調 OP47

(アンコール)

            バレエ音楽「ボルト」~荷馬車引きの踊り OP27

指揮   井上 道義

コンマス 崔 文洙

2019年6月29日  すみだトリフォニーホール

 

 


構内でひっそり佇むゴハチの主張

2019-06-29 10:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

東京から北陸方面に向かう場合、昔は米原経由で行くことが多かった。現在では、北陸新幹線がありドアtoドアで気軽に向かえる感覚になった。それより飛行機利用で日帰りも楽々となり、随分近い土地に変わった想いがある。

国鉄時代には、もちろん東海道新幹線で米原まで行き、そこから特急「しらさぎ」に乗り換えて北陸へと向かっていた。この時代、湖西線と違って東側を走る北陸線(湖東線)はローカル線のたたずまいだったことを思い出す。それに乗り換える「しらさぎ」もいつも混んでいて、あまり良い思い出は無い気がする。485系のデッキでしばらく辛抱していたことが多かった。

そんな旅の道中、乗り換えの米原駅でのスナップ。荷物列車の仕業に就くEF58112号機。隣のホームにニモレが到着、いよいよ機関区から出区し、SGを上げながら誘導されるシーン。別に狙っていた訳でもなく、偶然にそんなシーンに出会い、シャッターを切ったようだが、こんな一期一会の出会いも、旅の仕方で最近では随分と減ってしまった気がしている。自分よりも情報が先回りして惑わし、旅の本質を見失いがちにする。どこか大事なものを忘れてしまった気がしてならないのだ。

1981-03-23    EF58112 [米]   東海道本線:米原駅


国鉄最期のリバイバル特急「つばめ」

2019-06-28 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

前出に続けて、国鉄時代最後となったリバイバル特急「つばめ」。それまでと大きく変わったのは、見ての通りけん引機関車がEF58からEF65PFに変わったこと。やはりここはEF65でもP型の登場を期待したが叶わなかった。1000番台でも1004号機とは何か意味でもあったのだろうか。初期型は良いにしろ、スノープロウのないPF型はどうも好まないのだ。

これを撮影した1986年は、公私共に節目の年を迎えていて多忙な年だった。もちろん国鉄が解体されることを知り、全国行脚した年でもあったから、限りなく時間が無かったことを思い出している。でも今思い返せば、その一つ一つが有意義であり、希望に輝いていて、多忙でも何の苦にも思わなかったことも事実。若いなりにも行動力は人一倍だったと、今の自分に問いかけている。

撮影行脚で関西地方を廻った時、うまく予定を絡めて撮影したリバイバル列車。この撮影地も今では不可となっただろうか。阪急で最寄り駅からのアプローチだったはずだが、複々線を次々とやってくる列車には、関東にはない華やかさが感じられ、撮影に没頭したことを思い出す。この列車もオシ14を含む14系座席車12両編成だが、出来ることなら再度拝んでみたいものだ。

1986-07-27   9002ㇾ EF651004  特急「つばめ」  東海道本線:高槻-山崎


リバイバル特急の思い出~EF5861「平和」

2019-06-27 20:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

今年も早いもので半分が過ぎようとしている。元号が令和となったが、今ではあまり意識なく普段の生活の流れに埋没してしまっている。雨の季節だが、それも終わると暑い夏がやってきて、台風にシーズンとなる。どうか大きな自然災害など起こらないことを今から祈りたくなる心境だ。安全で平和な世の中であるようにと心から祈りたい。

国鉄時代、夏休みになるとリバイバル特急が東海道線に復活した年があった。確か5~6年は毎年走ったと思うが調べてはいない。「つばめ」「はと」など、東海道線には縁のある名門特急が復活し、初年度はアントンKも仲間内とともに気合を入れて沿線に繰り出たが、年を追うごとに熱が冷めてしまった記憶がある。東京ー大阪間だから、今思えば撮影ポイントには事欠かなかったはずだが、大した画像は残せずちょっと残念な結果となっている。当日の天候にも恵まれなかったこともあるのだろう。あまりこの列車に関しては、良い思い出は残っていないのだ。現代にこんな列車を仕立てようとしたならば、どんなことになるのだろう。客車は、各社12系客車を寄せ集め、けん引機はやはりEF65PFのお出ましか?そんな考えの前に、通ることを拒む会社もありそうだから企画倒れだろうか・・・

とりあえずリバイバル3年目?に運転された特急「平和」号を掲載。ロクナナ手持ち1本勝負のようだが、なぜこの撮影地なのか記憶が飛んでしまっている。長い14系座席車は、まるでブルートレインのようだったが、当時はまだ九州ブルトレも健在であり、さほど心が動かなかったのかもしれない。

1983-07-24  9002ㇾ  EF5861 特急「平和」号   東海道本線:藤沢付近


国境に集う強者たち

2019-06-26 20:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

いつもの川崎界隈では、撮影仲間たちが日々カメラ片手に撮影を勤しんでいるが、その彼等ともすでに7年以上のお付き合いとなった。思えば震災後、ある意味抜け殻状態になっていたアントンKを奮い立たせてくれたのが、彼等なのである。それはアントンKにとっては鉄道撮影の原点回帰であり、また趣味人としての深さ大きさが再認識できた瞬間でもあったのだ。生まれも育ちも年齢すら違う彼等から学んだことが、今までどれだけあったか・・きっとこれからも、日ごろの他愛のない交流が人生の糧となっていくのだろう。

そんな撮影仲間に最近学生さんが加わり、我々を盛り上げてくれている。電機を追っているのは共通だが、どうやらH級の電機がお気に入りの様子で、ブルーサンダー(EH200)には目が無いようだ。当然このEH200が走行する線区には出没しているようで、つい先日も上越線に毎週通っていたらしい。こういう話を聞かされると、やはりどんな場合でも刺激は受けるもので、自分でもEH200を見直してみたくなってくるというもの。彼らとともに新たなシーンを一緒に見たくなるというものだ。今まで生きてきた時代は違っても、これからの時代、同じ時を過ごし同じ共感が味わえたらどんなに幸せだろうか。

時代は随分違っても、アントンKも上越国境はよく通ったもの。そんな記録から1枚掲載してみる。重連で三国峠を越えて水上に到着。役目を終えたEF16が切り離され帰区していくシーン。まさかここまで蒸機が運転されるとは、夢にも思わなかった。

1978-11-03    EF1621           上越線:水上にて