ネット配信されているマエストロ井上氏とコンマス崔氏とのインタビュー動画を何度も観てからトリフォニーへと向った。もちろん前置きなど考えず、いつも聴いている新日本フィルで、井上道義氏がどんな音楽を作りだすのか、純粋に興味があったのだ。
井上道義氏の演奏会は、幸いにも昔から鑑賞する機会があった。アントンKも経験が浅く、楽曲にも思い入れがまだない頃、メディアで度々拝見していた井上氏の指揮というだけで足を運んだという、何とも不謹慎な理由だった。当然ながら、その当時は第九をはじめ、ベートーヴェンの交響曲を鑑賞したが、どこかどう良かったのか、解らずに過ごしてしまった。彼に関して言えば、近年不幸にも大病を患い、それを自ら克服してから随分演奏も変わったのではないか?もちろんアントンKの何の根拠もない私見だが、闘病後の大フィルにおけるチャイコフスキー、そしてブルックナーは、それまでの井上氏には見られない大きさ、激しさが確認できたと思う。そして彼が最近注目し絶賛されているショスタコーヴィッチの演奏については、まだ未体験だったから、今回なおさら楽しみだった。
「僕は第5は嫌いです」とビデオの中で、そして当日の会場でもお話して下さったが、その理由は、それまで演奏されてきた内容がどれもこれも良くなかったからだという。「今日の演奏を聴かずして第5は語れない」とも話していたから、随分敷居を上げてきたと思う反面、とてつもない自信の塊を見たのである。
こんな前置きがあって鑑賞したショスタコーヴィッチだが、まず第一にやはり本物を聴いたという強烈な印象が残った。この日は、アンコールに至るまで全てショスタコーヴィッチであり、その楽曲の全てに気高い精神性と大きな自信をアントンKは強く感じたのだ。低弦のどっしりとした土台は揺るぐことなく、やはり管楽器の低音部のここぞの主張の激しさ、そして打楽器群の色彩感、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器群の音色の深さは、ショスタコーヴィッチの故郷、ロシアのオケの音色そのものだった。えげつないくらいの音で聴衆に迫った管楽器群は、かつて聴いたスヴェトラーノフやロジェストヴェンスキーを彷彿とさせ、同時に上岡敏之氏の新日本フィルからは対局にあるであろう音色を当の新日本フィルから聴けるなんて思いもしなかったのだ。
ロシアのオーケストラを聴くと、そのパワー感やオケの醍醐味を味わえる反面、楽曲に対しては大味に成りがちだが、今回の新日本フィルはこの点少し違っていて、細部の表現に拘りを感じ、いつもは聴こえない響きもまた散見できる。第1楽章の結尾部のVnソロに被さるグリッサンドの響きは良い例で、第3楽章における「祈り」もアントンK自身強く感じられ、脳裏に多々場面が映し出され目頭が熱くなってしまった。井上氏自身話していたことだが、フィナーレ冒頭の立ち上がりは巨大で重厚。その後のアッチェルランドは極少で、重連の巨大蒸機が突進してくる様相。聴いていて高揚している自身がわかったくらい。そして一番感動したのは、プレーヤー達が指揮者井上氏の棒に食らえ付き、集中と発散を繰り返している中でも、各々が自分たちの音楽を楽しみ自信に満ち溢れて演奏している姿だった。Vn1やVn2における激しい音圧と鋭いリズムは、そん所そこらの演奏では絶対に聴けず、何を置いても感動せずにはいられなかった。
こういった指揮者井上氏の意思疎通に多大な尽力を注ぎ、そしてここまでの演奏会を成功に導いたのは、当然ながらコンサートマスターである崔文洙氏の賜物だろう。おそらく、井上氏の拘りを熟知し具体的にオケメンバーに伝達した功績なくして、このような演奏会は成り立たない。そして今回は、プログラムの合間に、井上氏ご自身がマイクを持って舞台袖から現れ、楽曲についての想いを我々聴衆に面白可笑しく投げかけていた。これは音楽、特にクラシック音楽は、敷居の高いものでは決してなく、もっと身近な親しみやすいものということを教示していたのだが、こういった演奏会での演出を含めてコンマス崔氏の采配には頭が下がる想いだ。本当に感謝申し上げたい。
新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 ルビー
ショスタコーヴィッチ ジャズ組曲第1番
「黄金時代」組曲 OP22a
交響曲第5番 ニ短調 OP47
(アンコール)
バレエ音楽「ボルト」~荷馬車引きの踊り OP27
指揮 井上 道義
コンマス 崔 文洙
2019年6月29日 すみだトリフォニーホール