アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

碓氷を越えた列車たち

2017-09-30 22:00:00 | 鉄道写真(EL)

今年は何かと節目の年にあたり、碓氷峠(横川-軽井沢間)廃止もちょうど20年にあたる。経ってしまえばあっという間に感じるが、実は20年間は相当に長い時間だ。鉄道の変化と同じように、世の中もこの20年には大きく変わっていった。もちろん個人的にもそうである。そしてこの先の20年を思うと、なかなか具体的には思い描けないが、案外また短く感じてしまうのだろうと思っている。そして自分の人生も思いのほか短く感じるものなのかもしれない。そう思うとどこか寂しさやはかなさを感じずにはいられない。

碓氷が廃止になった年、平成9年(1997年)は、長野オリンピック開催の年であり、これに合わせた形で、長野まで新幹線が通った年だった。当時、ここに新幹線はいらないと思っていたアントンKだが、時間が経ってしまえば、そのまま定着して当たり前のような光景が目の前に広がっている。それまで避暑のための軽井沢への旅行客は、今やショッピングモールへの買い物客へと変貌し、この土地には似合わない買い物袋を持った若者たちで溢れている。峠を越えるたびに楽しみにしていた、おぎのやさんの「峠の釜めし」は、ロクサンのブロアを聞きながらほお張ることが正しい食べ方と自負していたが、今や釜めしは、高速のSAで買うものらしい。

こうしたほんの小さな思い出は、やがて自分の中でも忘れていくことなのだろう。しかし世の中圧倒的に便利になったが、人間の五感を刺激するような情緒が希薄になってしまったと思わざるを得ないのだ。

そんな碓氷峠の写真の中から、営業最終日の記録を掲載しておく。

1997年9月30日。この日をもって横川-軽井沢間は廃止され、信越本線も分断されてしまうことになる。平日だったため、休暇こそ取らなかったものの、朝から群馬に来て一仕事終え、そそくさと山へ入った。それなりにファンの姿はあったが、どこか無言の圧力に包まれていたことを思い出す。最終日も相変わらずロクサンのブロア音が山をコダマしているが、明日からこれが聞こえないと考えると寂しさが込み上げてきた。当たり前の光景が、ある日を境に消えてしまうことは、生物の死と直結している。当時はそんなふうに思っていたのだ。

1997-09-30   3010M  EF6325+24 あさま  旧熊ノ平信号所付近にて

 


撮り鉄達のささやき

2017-09-28 19:00:00 | 日記

「撮るものがなくなった!」・・・

近年線路端でよく耳にする捨て台詞がこれだ。

年々撮りたい車両達が消えていき、撮影対象が無いことを嘆く同志の方々は多い。おそらくその撮影対象は、国鉄型と呼ばれる車両たちのことだと思われる。国鉄が民営化されて今年で30年。現存する当時の車両達を見回しても、いよいよ引退が迫っていることは容易に想像できてしまうのである。確かに古い車両達は、自分たちが生きてきた同じ長い時間、慣れ親しんでいる車両が多く、撮影者側にも思い入れは尽きないだろう。逆に最近の車両達には、まだ歴史が浅く、これから我々が見たり乗車したりして親しみが湧いてくる可能性が無いわけではないが、単純に現代の最新鋭の車両達は、デザインが画一化され合理化されてなぜか同じに見えてしまう。これは見る人々によって相違することだが、少なくとも中年真っただ中のアントンKにはそう見える。趣味として語るには、洗練しすぎているのだ。個人的には、もっと武骨さや独自の主張のようなハッとするくらいの個性のある車輛が望みだが、それは現代社会においては叶わぬ夢だろう。

アントンKも今の風潮と同じように、近年撮影対象が減少したと感じることが多くなった。しかし、長年鉄道写真の基礎を記録写真として位置付けてきたのだが、ある時写真を記録だけに留めておくことは、もったいないことに気が付いたのである。自分の目の前の光景で動いた感情をどうにかして画像の中へ写せないだろうかと考えることが多くなったのだ。目に見えない感情を画像に取り込むなんて不可能だが、写真を見る側の感情によって、それは可能かもを思えるようになった。最も大切なことは、自分の中に沸き起こる感情があるのかないのかということであり、その感情に気づく心をいつも持ち合わせていられるかということ。同じ光景でも、心に余裕やゆとりがなく、それに気づきもしないことを恐れるのである。どこか音楽鑑賞に類似している部分を写真の中に見つけたような気がしているのだ。このことは、いずれ音楽鑑賞とともに掘り下げておきたい。人の感情を動かすような写真は、まだまだ撮影できていないが、これらを念頭に今後もカメラを向けていきたい。

掲載写真は、昭和の時代から運転されていた寝台特急「あけぼの」。運転末期の臨時スジに格下げされた頃のものだ。「ヒガジュウカーブ」と呼ばれる東十条付近の線路沿いの道は、「あけぼの」の通過時間が近づくと、カメラの放列が出来上がる。そこには、年代を越えた同志の撮影したいという殺気だった感情が蔓延していた。そんな撮り鉄たちをバックに、我らがスターEF64「あけぼの」が颯爽と駆け抜けていった。

2014-08-17  9022ㇾ  あけぼの


ロクマル~輝かしき時

2017-09-27 10:00:00 | 鉄道写真(EL)

昔は、春と秋に運転されていた御召列車。アントンKも今まで何回か撮影の機会を得ることができたが、当時は鉄道撮影をひとくくりにすると、御召列車撮影は最上位の撮影に思えていた。もちろん今でも御召列車の撮影は興奮を覚えるが、時代の流れなのか、自分が歳を食ったからなのか、当時ほどの心境になれないのではないかと少しだけ冷めた目になっている。もっとも御召列車自体も、当時の第1号編成を使用し、EF5861をはじめ御召装備を施した機関車がけん引するのなら、また話は変わってくるのだと思う。それが叶わなくなった現在、なかなか昔のような気持ちでファインダーを覗けないというのが事実だ。

79年5月、岡多線御召。現在も相変わらず交流が続いている友人たちとの初めての撮影旅行が、この岡多線御召列車だった。当時はまだ駆け出しのアントンK、この友人たちに多くの影響を受け、鉄道写真の奥深さ、素晴らしさを教わった訳だ。色々記憶をたどると懐かしい場面が思い出されるが、あの当時の初々しい気持ちを今でも忘れないでいたいと今改めて思っている。

生まれて初めての御召列車の撮影。この時の御召列車は、予備機EF5860とのプッシュプル運転もあり、今にして思えば前代未聞、盛りだくさんな内容だった。ここでは単機で浜松区へ帰区するEF5860のサイドビューを載せておく。今までは荷物列車等の定期列車を何度か撮影していた60号機だが、目の前に現れた60号機は全く別物。美しく磨きだされていてため息が出るほど。銀帯も誇らしげに輝き、どこか英雄を思わせる。ご承知のようにこの60号機は、その後目立つことなくフェードアウトしたことを考えると、この時が生涯一番輝いていた時だったのだろう。

1979-05-26    単9004 EF5860   東海道本線:三ヶ根-幸田にて

 


秋色をさがして

2017-09-24 22:00:00 | 鉄道写真(私鉄)

東京も少しずつ秋めいてきた今日この頃。秋を感じに出かけてきた。と言えば聞こえが良いが、実は買い物ついでのカメラハイクである。フィルム時代に比べて、世の中撮影することが日常化し、とても身近に気軽に何にでもカメラを向ける人たちを多く見かけるようになった。カメラが好きなアントンKにとっては、大変喜ばしいことに思えていたが、反対にむやみやたらにカメラを構えていると、盗撮等の犯罪行為に間違われないとも限らない。昔とは違い、カメラ人口が増大した半面、撮影常識もそれにつれて厳しく難しい局面が増えているように思えてならない。とにかく今の時代にマッチした良識で趣味を楽しみたいものだ。

掲載写真は、彼岸花の咲く里山を行くトロッコ列車。アングルを考慮する時間がなく、何とも中途半端な画角となってしまった。天気予報が外れ、落胆した心の窓を覗かれたような・・

2017-09 小湊鐡道:養老渓谷付近

 


官能的な響きから見えたもの

2017-09-23 20:00:00 | 音楽/芸術

今年の演奏会の中心にアントンKが置いている新日本フィルハーモニー交響楽団。定期演奏会トパーズというシリーズに大好きなヴァイオリニストの崔文洙氏が出演とのことで、急遽予定を変更しトリフォニーまで行ってきた。

ここのところ、アントンKの中では、新日本フィル=上岡敏之という方程式ができ上がっており、音楽監督でもある上岡氏と崔文洙氏を中心とした新日本フィルとの駆け引きとでもいうか、心の葛藤と、新たな創造が面白くていつも会場に足を運んでいるのだが、今回は海外から招へいした指揮者ジークハルト氏で、スクリャービンを聴く。第4交響曲だから、以前からアントンKでも知っている楽曲だったが、実際の演奏会となると、おそらく初体験になる。「法悦の詩」と題名のついた交響曲だが、なかなか演奏会では取り上げにくい楽曲だろうか。それはオーケストラの編成が大きく、その割には単楽章で演奏時間も20分と短い部類。果たしてどのような響きが生まれるのか楽しみだった。

こうして今聴き終えてみて、頭の中に一番印象に残ることは、いつも聴いている新日本フィルの音色とは違って聴こえたこと。この楽曲を聴きこんではいないため、具体的にポイントでは指摘できないが、オーケストラの各声部がストレートで直接的だったように思う。よく考えてみれば、それは至極当然のことであり、オーケストラが同じでも指揮者が変われば、奏でる音色も変化するという典型であったのだろう。最初の5分でそのことに気づいてしまうアントンKも、かなり上岡氏にいい意味で毒されてきた証拠。逆に言えば、演奏者達はどこまで器用に演奏できるのだろうと驚嘆したのであった。

昔、朝比奈隆が現役の時代、やはり朝比奈の音と呼ばれることが多々あった。重低音に重きを置き、どっしりとしたテンポで演奏される印象は、ベートーヴェンにしろ、ブルックナーにしろびくともしない巨大な建造物のように感じたものだ。演奏による独自性こそ、アントンKが最も重要視するポイントなのだが、今回の演奏を聴いてそのことを再認識させられた思いがしている。

音楽監督である上岡氏が、新日本フィルとともに今後どのような独自性の高い音楽を創っていくのか大変興味がわくところだが、時代に流されることなく信じた道を進んで欲しい。そこには終着駅などないのだろうけど・・・

第578回定期演奏会 トパーズ

シューマン 序曲「メッシーナの花嫁」OP100

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 OP64

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲

スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」 OP54

マルティン・ジークハルト 指揮

新日本フィルハーモニー交響楽団

竹澤 恭子(Vn)

崔 文洙(コンマス)

2017-09-23    すみだトリフォニーホール