アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

今なお現役!EF65PF栄光の歴史

2021-06-30 16:00:00 | 10年前の足あと

いまだ最後の活躍とばかり、日夜黙々と運用を熟しているEF65PF型電機。現在では、国鉄時代とは異なり会社によって状況も様々違ってしまった。

アントンKには、現存するEF65PFの中でも、元東京機関区だった機番たちには、他機とは少し違う栄光の歴史を感じてしまう。特に綺麗に整備され大切にされているだろう、現田端区の65PFの姿を久しぶりに見た時には、かつてブルトレの先頭に立ち、連続運用を熟していた時代が彷彿と蘇ってしまうのだ。この春の改正で、その田端区のEF65PFたちにも余剰という波が押し寄せていると聞く。末永い活躍を期待したいところだ。

昔山陽本線山口県下で撮影した、東海道ブルトレを掲載しておく。朝霧が時間とともに晴れてきて、視界が開けてきたところに突き進んできた特急「みずほ」。この1105号機も現在でも元気で活躍しているのだろうか?たとえ地味な工臨仕業でも、我々ファンの前に姿を見せてくれることで、かつての栄光の姿がまた脳裏に湧き上がってくるのである。

1981-03-20   5ㇾ  EF651105    みずほ  山陽本線:小野田-厚狭


583系で走った特急「ひばり」

2021-06-29 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

ブルートレインに混じって大活躍した581・583系特急寝台電車。この電車の特徴の一つは、昼夜問わず運用に就き、車輛効率化を図った形式ではなかったか。アントンKは、夜行では「ゆうづる」「はくつる」に何度か乗車しその寝心地を味わった。仲間内からは当時、モハネのパンタ下の寝台が2段式で、普通のB寝台車より広くて使い心地が良いとアドバイスを受け、そこを狙って指定券を取った記憶がある。客車寝台とは違い、線路に対して平行に横になるが、とても快適でぐっすり寝られたことを思い出す。反面、日中の特急に使用する場合は、天井が高く開放的ではあったものの、座席が動かないためか、長時間の移動では身体が痛くなったことを思い出す。

いずれにせよ、この583系電車は、最後までファンには人気があり、かくゆうアントンKも大好きな電車だった。大きな車体は、屋根の高さも相まって重厚で、二つ折りのドアがカッコよく好きだった。撮影も好んでしていたが、正面に表示する愛称マークが、全体的には小さめなため、顔を大きく撮って列車名を綺麗に見せることに苦労した想いが湧き上がる。当時は、まだ機材も貧弱だから仕方がないが、どう写せばゴッパーサンらしく撮れるか悩んだものだった。

ここでは、うんと初期の定期で特急「ひばり」の運用に就いていた時代のものを掲載しておく。583系は、特急「はつかり」や「みちのく」運用が日中運用で、「ひばり」では当時珍しかったと記憶している。

1978-08-17  1007M   特急「ひばり4号」Tnc583-2  東北本線:白岡付近

 


東海道を往くデッキ付き電機~EF15

2021-06-28 19:00:00 | 国鉄時代(カラー)

1970年代まで遡ると、東海道線にだってデッキ付きの電気機関車が元気に活躍している時代だった。もっとも当時を思い返すと、東海道線には、EF65P型の牽くブルトレが健在で、おおよそスター街道の趣が漂っていた。当時は、東海道ブルトレのみにしか、ヘッドマーク装着はされず、東北上信越線にあった優等列車たちは、数はあれど今一つ華が無かったことも事実だったように思う。

掲載写真は、夕方の荷物列車からブルトレまでを狙いに保土ヶ谷沿線に出向いた時のもの。貨物列車の設定も、現状以上に多かったように思える。EF60・65・66はもちろん、新鶴見区のEF13・15等も撮影出来て、時間によりEH10まで捕らえることができた。

現在の横須賀線を走り、保土ヶ谷の大カーブを唸りながら通過していくEF15の解結貨物列車。もっとも大人しい後期のEF15が登場したが、今こうして改めると、凛々しく頼もしい機関車だったように思えるのだ。

1976-02-25   1977ㇾ          EF15126  東海道貨物線:保土ヶ谷付近


青梅沿線の散歩道~ED16

2021-06-27 13:00:00 | 国鉄時代(カラー)

かれこれ20年近く踏み入れていないのではないだろうか・・・東京奥多摩地区にある青梅線だ。現在では、E233系電車が奥多摩まで走り、列車本数も増えて近代化の一途だろう。

アントンKが最初に青梅線を訪ねたのは、1975年春のこと。鉄道写真駆け出しのアントンKを引き連れ同行してくれたのは、SL時代から撮影経験のある同級生だった。丸一日撮影を楽しんだ中でも、印象的な出来事はまだ多く脳裏に刻まれている。独自性などカケラもない当時のアントンKだから、当然同行者には影響を受けやすくもあり、多くの刺激をもらったのだ。今でも一番印象に残っているのは、カラーネガより白黒で撮影すべきという考え方だった。カラーポジはまだ使ったことのないアントンKだったから、ネガカラーフィルムを主体に撮影していたが、彼曰く、将来的には白黒で残しておいた方が保存が有利ということだった。そんな話から、次第に白黒フィルム主体になっていったが、デジタル主体の現代には、考えられない事柄になってしまったようだ。経年劣化は、フィルムを選ばず保存状態で変わるし、避けられないことのようだから、いかに当時の姿を留めさせるかが問題のようで、一刻も早くデータ化する意味はまさにそこにある。当時、将来デジタルカメラが主体となることなんて夢のまた夢だったから、これも仕方がない事。自分なりに精一杯楽しんでこれたのかが重要に思える昨今なのである。

早めの電車で、沢井、軍畑府付近で下車、上り貨物列車を撮影してから、古里に向かうのがお決まりのコース。掲載写真は、沢井付近で撮影したED16の貨物列車。今にして思えば、貨物列車の本数が多く、結構忙しく動き回った想いが蘇ってくる。ED16が去り、貨物列車そのものも1998年に消えてしまい、撮影対象から外れてしまった青梅線沿線。時間を見つけて当時を偲ぶのもわるくない行程に思える。

1978-02-21   5291ㇾ  ED1610           青梅線:沢井-御嶽

 


国境を越えたデッキ付き電機の印象~EF16

2021-06-25 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

アントンKが初めて上越国境を越えたのは、1975年と自分の鉄道写真史の中ではかなり早い方だった。それは、当時まだ活躍していた181系「とき」の雄姿に憧れ、そして峠の主たるEF16の存在、ゴハチとの重連走行など、走っている列車たち全てが魅力的に見えていたからだが、よく思い返してみると、上越線という谷川を越える線形の素晴らしさ、雄大さにまずは衝撃を受けたからに他ならないのだ。本格的に車輛にカメラを向ける前に、当時はよく列車に乗って新潟まで行っていたことを思い出している。ご存知のように、単線ループとなり、上下線が大きく離れ、長いトンネルの中で、さらにモーター音が高鳴ってくると、興奮を覚えたものだった。特に釣り掛け式の70系は、夢に出てきそうな快音で、文字通り病みつきになったもの。中央線の71系とともに、よく時間を作って乗りに行っていたことに最近気が付いた。乗るだけだったから、当時のメモも残さず記憶の彼方へと消えていた体験だったのである。

今回は、そんな思い出残る上越線のスナップから1枚。当時の友人と2人普通電車を乗り継いで中里のホームに降り立った。徒歩で数分のところに、上下線がセパレートしてループを描くポイントがあり、しばし撮影を楽しんだもの。残された画像はどれもお粗末なものばかりだが、当時の画像をこうしてデータ化でもしない限り、あの時の体験談など闇の中だったに違いない。自分自身の備忘録としては、こんな場面でも役立つのか・・

EF16が先頭に立ち、EF15と重連でカーブした橋梁を一気に下りてきた貨物列車。当時の貨物列車は、黒っぽい地味なイメージが一般的。そう思うと、現代の貨物列車は、随分カラフルで被写体映えする列車になったものだ。

1976-02-22   1773ㇾ      EF1627+EF1553   上越線:越後中里付近