アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

異彩を放った国鉄電機~EF55

2023-05-31 09:00:00 | 鉄道写真(EL)
久しぶりに泊りがけで鉄道撮影に出向いてきた。
近年では、ほとんど単独で出かけることが多くなっていたが、今回は4人で動くという、まるで昔よく味わった異空間体験を写真撮影を通じて感じてきたのだ。主たる目的は、運転終了が迫った釜石線の蒸機だったが、僕らはそれだけでは済まされない。東北線を走るEH500のパワーも感じてきたし、風光明媚な岩手開発鉄道の専用列車にも展開できた。そして思いがけず、中山峠のけんちんうどんにもあり付けるというボーナスまで頂き、満足のいく旅だったと振り返っている。
メインの釜石線撮影は、撮影者が多いことは初めから承知していたから、今回初めて撮影する同行者の希望に沿って廻るつもりだったのだが、結局線路端に出ると、スイッチが入ってしまったアントンK、自分本位になってしまったことを少し反省している。まぁ、この2日間、同じ時を共有でき有意義な時間を過ごせたことが何より良かったと・・・
 何かと話題に上るEF55の画像を掲載しておく。今では博物館に入っている同機だが、JR化後復活を果たし、一時はよく上越線の臨時列車を牽いて蒸機や他の電機とともに活躍していた。こういった正面から撮影すると、いかにも個性的に映り、賛否が分かれるだろうが、現役時代3台しか製造されなかった希少性の高い電機だったことには違いない。晩年は、顔にヘッドマークステーが取り付けられてしまい、さらに?となったが、これはそうなる前の時代の写真。12系客車が妙に懐かしく感じてしまう。
1993-08-28       9740          EF55 1              上越線:上牧にて
 

ありふれた日常こそ心の糧

2023-05-22 09:00:00 | 鉄道写真(EL)
川崎界隈でクリーンライナーを仕留めた後、信号所まで急いで向かう。この列車、十数分の停車があり、アントンKは再び見送りたいためだ。
この日は、11番線に臨貨が停車中、その脇を静々と入線してきたEF65PF型。ほどなくして本線から特急「湘南」のE257系が近づいてくる。それとほぼ同じく機関区の裏手側から金太郎(EH500)の単機がこちらへと向かってくるのだ。東海道線の貨物列車をここから継承する機関車で、しばらく単機で待機する。それとほぼ同時に逆側から海コンを引き連れ4072ㇾが入線してくる。これもEF65PF型。そしてクリーンライナーの発車時刻が近づくと、3086ㇾ(EF66)の登場となる。こんな一度に機関車を見られるポイントなんて今ほかにあるのかな?などと考えながら、この日のラストショットを狙うのだった。
こんな朝練を今まで数十数百してきたが、ここ最近はご無沙汰状態になり、画像をみると懐かしさえ感じてしまう今日この頃。しかし、朝の数十分のつかの間の時間こそ、アントンKにとっては心の糧となり、そしてその日の活力の源だったのだと、今さらながら思い返しているのである。そして復活の時は、刻一刻と迫っていると信じたい。
2022-06        新鶴見信号所 朝のご挨拶

早朝の更科を往くED77

2023-05-18 07:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)
磐越西線を走るED77の撮影には、外すことが出来なかった朝夕設定の普通客車列車。80年代からこの線区の魅力に取付かれたアントンKだったが、再三出向いたのは、非電化区間よりもむしろ喜多方までの電化区間の方。行程として、東北線や磐越東線も絡めて撮影することが多かった。もちろんメインターゲットは、この線区のために開発配置されていたED77で、客レや貨物、そして団体列車の雄姿をおさめたくて何度となく出向いたものだった。
 民営化を前にして、専用機ED77は引退していったが、朝夕の客レはかろうじて残存してED75へと引き継がれたのである。それまでに線路規格が強化されたのだろうが、やはりアントンKにとって磐西でナナゴーを見る違和感は、ここをD51が走ってくる以上に衝撃的だったのである。
掲載写真は、朝もやの中更科へと下り込むED77牽引の50系普通列車。まだ磐越道もなく、オメガカーブを前に列車を待つ朝のひと時は、何物にも代えがたく、集中できた時間だった。
1992-06-12         1221列車 ED77 12           磐越西線:更科信号所付近

遠くに霞むゼロロクの記憶~EF66 0番代

2023-05-17 19:00:00 | 鉄道写真(EL)
お若い鉄道ファンに、絶大な人気を誇っていたEF66 27も運用を離脱してからずいぶん時間が経った。今の時代、SNSで吹田の片隅でひっそりと佇んでる、その姿をも簡単に見ることができるのだから、便利になったものだ。
EF66でも後継の100番代と比較したら、スタイルは似て非なるもの。サメと呼ばれている100番代はシャープな井手達が無くなり、少し太らせたような温和なスタイルに変った。それに登場来貫いている明るい白っちゃけた塗色は、貨物機特有の汚れが目立ち、撮影するファンにとっては、やはりマイナス要因となる。だからなのか分らないが、ロクロクでも100番代は未だに人気がないようで、現状数を減らしつつある中でも、さほど話題にならない電気機関車と言えるだろうか。
アントンKがゼロロクを語る上で外せないのは、1985年から始まったブルトレ牽引の事実だろう。鉄チャン駆け出しの時代から、EF66は貨物用、それも特急貨物フレートライナー用として認知してきたことが崩れ始めた時期だった。EF58が飯田線に入線したり、EF15が青梅線、あと磐越西線にED75が平然と入ってきたりと、それまで禁句とされてきたことが現実のものとなり、ある意味衝撃を受けたのだ。今思えば、すでにあの頃から何でもアリの没個性時代が始まっていたと、今さらながら納得してしまう。
 国鉄からJR時代になり、ゼロロクでも更新工事を施行された機体が数多く存在していた。掲載写真は、その更新改造されたゼロロクの38号機。ちょうど100番代のような白っぽい塗装になり、あまり良い印象がなかった。頭に無造作に大きな箱をつけ、飾り帯すら外されて、見た目よりも扱いやすさが勝り、どこか悲しげに走り去るゼロロクをいつも感じていた。そんな想いも、こんな古い画像を眺めていると気持ちが蘇ってきてとても懐かしくなるのである

2002-02-24         EF66 38        東海道貨物線:新鶴見付近


写真で振り返る「竹倉」の変遷~EF65

2023-05-10 10:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)
画像整理を進めていく中で思いついたものを掲載。
かつて、富士山バックに東海道ブルトレを撮影する場合、真っ先に思いつくポイントは、三島-函南にある「竹倉」付近だった。諸先輩方がこの地の写真を雑誌に掲載し、当時はアントンKにとっても憧れの地となっていたことを再認識している。行こうと思い初電で向かっても、上ってくるブルトレには時間的に間に合わず難易度の高い撮影地だった。結局、友人の車で初めて出向いたのは、1979年の冬で、ブルトレ牽引機のEF65PFが定着してきた頃だったが、当時はゴハチ主体で行動を共にしていたため、上京してくるブルトレ全ては撮影出来なかったことが苦い思い出として蘇ってくるのだ。何しろ、ゴハチの急行「銀河」の続行で、荷32ー「あさかぜ」ー「富士」ー「はやぶさ」ー「みずほ」ー「さくら」と続き、その間に背景の富士山の状況も刻一刻と変化するから、それに応じて計画を変更せざるを得なかった。あれだけ綺麗に姿を見せていた富士も、気温の上昇とともに霞んできたり、雲が沸いたりして中々思い通りには撮れなかったのだ。今にして思えば、自分の求める写真にとっていかに、太陽、光が大切なのか思い知らされた時期でもあり、友人達の苦言がその肥やしになっていることが今更ながら理解できる。
 夜行列車の合間にやってきたEF65一般形の貨物列車。ここにある全てのものが現存していないと思うとやはり悲しくなる。機関車もさることながら、アントンKにとっては、この地の木製ポールが印象深い。この後、しばらくして木製からコンクリートの真新しい架線柱に取り換えられてしまうが、やはり写真にした時の趣が、まるで変ってしまったことに気づかされたのだった。無くなってから気づくことはよくある話だが、常に今を大事に生きたいと、こんな些細な昔話からも感じている。
1979-03-25      3460レ     EF65 67       東海道本線:三島-函南