アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

国鉄型の窓のそと・・

2017-05-28 12:00:00 | 鉄道写真(EC)

今年山口線は、C571に代わりD51200が運転を開始するらしい。これに合わせて客車も新製して今後運転されるとのことなので、それはそれで今から楽しみで喜ばしいことだ。考えてみれば、今のSL「やまぐち」号は1979年8月1日に運転を開始したが、その試運転から撮影に出向き、初日には篠目の山の中で待ったことがついこの間のように感じてしまう。しかしそれもすでに38年前の出来事になってしまったから、随分と歳月が流れたと思わざるを得ない。当然ながら、C571に代わる蒸気機関車も検討されて、このD51200が抜擢されたのだろう。もともと山口線には、D51が走っていた路線とのことなので、D51の方がよりマッチしているということになるのか。いやいやアントンKには、「やまぐち」号はC571が刷り込まれている。やはり38年間の時空は相当なものなのだ。

先日の関西行の際乗車した奈良線。運転席の後ろから外をボーッと眺めていた。今やどの電車に乗っても、運転席には、液晶モニタの設置が当たり前になっているが、ここには、昔見たものと同じアナログメータが並んでいた。走行音も、ブレーキ音も、乗り心地も懐かしいものばかり。目を閉じれば昭和50年代に遡る。普通の日常にあった103系が、いつの間にか居なくなり、気が付けばこんな地方線でひっそりと暮らしていた。そんなに思い入れがある訳ではないが、乗車するとどこかホッとする感覚。少なくともアントンKには、現代のE233系より似合っているようだ。

2017-05     JR西日本/奈良線にて


井上の集大成~最後の「大ブルックナー展」

2017-05-21 22:00:00 | 音楽/芸術

今月はアントンKにとって演奏会月間となった。前記事に上げたロジェストヴェンスキーの第5番の演奏会から連日ブルックナーが続き、ノット/東京響の第5番、そして井上/大阪フィルの第9番と贅沢を極めた。これ以外にも、高関の第8や、下野竜也の第8など気になる演奏会は目白押しだった。全てを満たすことは当然ながら出来ず、連日のスケジュールをこなしたが、こういった演奏会のハシゴとも言える鑑賞は近年久しぶりのことだ。まあこんなにたくさん贅沢の時間を持てる事に感謝して、大切に時を過ごしたいと考えていたが、終わってしまえば色々と書き留めておきたいことも膨れ上がってきている。

今回でシリーズ化された井上道義/大阪フィルによる「大ブルックナー展」も最終回を迎えた。今回は第9交響曲だったが、これがシリーズ最後に相応しくというか、大変重厚で緊張感に満ちた素晴らしい演奏だった。帰京の新幹線で、ここ数日の演奏会が自然と回想されたが、兵庫まで行って本当に良かったと思った瞬間でもあったのだ。一昨年1月の第8の時には、指揮者井上氏も大病から立ち直ったばかりであり、渾身の指揮振りが甦るが、あれから第4→第7→第1→第5と進み、そして今回の第9に繋がったが、ここまでやると以前にも書いたが、残りの第2や第3、そして第6は聴いてみたかった。まあショスタコのスペシャリストとしての名声のある井上道義だが、ブルックナーについてもまだまだ発展途上にあると考えられるし、いずれまた新しい企画で楽しませて欲しい。

一連を聴いてきて一番印象に残った演奏は、第8番と今回の第9番の演奏だった。初回の第8については以前の記事で確認頂きたいが、第9については、今までの井上/大フィルのブルックナー集大成とでも言うべき演奏だった。ホール全体に緊張感が漂い、オーケストラのメンバーもコンマスの崔文洙を筆頭に気合いの入っていることがひと目でわかった。

第1楽章は、序奏部分から低音がしっかり聴き取れスケールが大きい。かなり第1主題までの道のりが長く感じ、ハーモニーの密度が濃いのだ。テンポでいったら、通常聴かれるものよりかなり遅めの歩みであり、楽譜が手にとるようにわかる。多少の溜めを伴って第1主題の提示がされるが、金管楽器を絶叫させるのではなく、ここではあくまでも弦楽器が聴き取れるバランス。響きが厚くしかも勢いがあり感動する。続く第2主題もかなりゆっくり歩みを進めるから、VcやKbのピッチカットが生きており、あのシューリヒトやヤングの演奏を思い出してしまった。素晴らしい解釈なのだ。そして第3主題では、Hrnの強奏が全体をリードし新鮮な感覚になったが、展開部以降では、さすが大フィルと思える金管楽器群の張りのある演奏が冴え、特にTbについては昔聴いた朝比奈時代を思い起こすくらいのものだったと思う。ポイントで聴こえて欲しい音が明確に主張するから安心なのである。このあたり、師と仰ぐチェリビダッケの影響があることは明白だ。

続く第2楽章は、かなり遅めのテンポで開始され、冒頭からの木管楽器による不響和音がホールに響き渡り、ここに弦楽器のピッチカートが被さってくる。ここのピッチカートには芯があり、指揮者の意思が反映されているのか、とても雄弁であり、これから何が始まるのかという不気味さと恐怖が襲いかかってきた。全奏になってからは、まるで悪魔の踊りだ。特にティンパニの強奏は強烈でオケ全体を引っ張り、また全身全霊で奏する弦楽器たちがそれに反応している。そして最後ついにTbが悪魔の叫びを轟かすのであった。

そしてアダージョ楽章は、前の2楽章より逆に速めなテンポで開始されたが、冒頭の第1Vnの何と言う気持ちのこめられた音色なのだろうか。ここの数小節を聴いただけでも価値があると思わせるくらいの表情だったことをまず書かずにはいられない。音程が8度も飛び苦悩と解脱を現わしたと言われる主題だが、そこには、どこか込められた願いのような浄化された気持ちが感じられる。このあとのTpも厳かに響き、続くワグナーチューバの深い音色に留めを射された感覚になる。しかし何と言ってもアントンKが最も好む楽譜Lからのパッセージには心が動かされた。大フィルの強烈な低音に支えられ、この世で最も美しい和音となって目の前に現れたからである。そしてQから始まる不響和音では、もうこの世の終わりとでも思わんばかりの最強音が続き、そのあとの圧倒的に長いフェルマータの後、遠くの方から、彼岸に満ちた明るい光が差しているように感じたのだ。こんな体験は長年聴いていても初めてであり、指揮者、演奏者、そして聴衆の一体感から生まれたものだと確信した。そしてXから始まるのVnの清らかな動きにはただただ泣けた。ヴァントの日本最終公演の時もここの箇所はそうだったが、ずっと聴いていたい!そんな気持ちになったのである。

こんな演奏会だったからか、前日聴いたノットの第5は正直消し飛んでしまっている。もちろん、改訂版直後の演奏ということもあり、聴いていてやはり原典版の方が・・・とは思ったが、あまりにも想定内の演奏で、個人的には面白みに欠け印象に残らないものとなったようである。これももう少し日程に間があれば、印象も違ったのかもしれない。一つ一つ大事に聴いているつもりだが、やはり好き嫌いが鑑賞に出てしまうものなのか。

●2017年5月20日 東京交響楽団第650回定期演奏会

モーツァルト ピアノ協奏曲第6番 変ロ長調 K238

ブルックナー 交響曲第5番 変ロ長調

指揮 ジョナサン・ノット

ピアノ  小曽根 真

アンコール 

レクオーナ  スペイン組曲「アンダルシア」~ヒタネリアス

ミューザ川崎シンフォニーホール

 

●2017年5月21日 「大ブルックナー展」最終回

ショーソン 詩曲  OP25

マスネ  タイスの瞑想曲

ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調

指揮 井上 道義

大阪フィルハーモニー交響楽団

コンサートマスター  崔 文洙

ヴァイオリン  前橋 汀子

兵庫県立文化センター KOBELCO大ホール

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                           


「ブルックナーは、爆発だ!」

2017-05-20 10:00:00 | 音楽/芸術

 怖いもの見たさ(聴きたさか?)で行ってきた。

仕事を終え池袋の芸劇へと急ぐ。

長いエスカレーターを上ると、指揮棒を振りかざしてロジェストヴェンスキーがこちらを睨んでいる。

「おう、お前も来たのか!」と言っているようで、ちょっとゾクッとしてしまう。

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「ブルックナーは、爆発だ!」

何という恐ろしいクレジットだろうか・・・

このポスターにあるロジェスヴェンスキーに睨まれて数カ月が過ぎ、ようやくこの日がやってきた。そう、ブルックナーの第5、それもシャルク改訂版の演奏会である。思えば、この5月19日という日は、スクロヴァチャフスキがブルックナーの第5のみを振りに来日する予定だった日程だ。昨年1月の第8に続き、今年は第5の演奏と、楽しみに待っていた矢先での訃報、悲報であった。しかしその後、演目の変更はせず、読響が招聘した指揮者は、なんと今やロシアの重神であるゲンナジー・ロジェストヴェンスキーだったのだ。さらに同時に発表されたのは、第5番でもシャルク改訂版で演奏するということだった。

もちろんロジェストヴェンスキーのブルックナーとなれば、過去の録音で交響曲の全集もあるので、アントンKも演奏内容を知らない訳ではない。この録音でも第5は改訂版での演奏だったし、その他の楽曲でも色々な版での演奏となっていた。しかし問題なのは、楽譜の事よりも、やはりオーケストラの鳴らし方が独特であり、とても深遠なブルックナーの世界ではない印象だったのである。指揮者自国のソビエト文化省交響楽団(現:ロシア国立交響楽団)の圧倒的な金管楽器群の金属音に辟易したのである。かなり昔の録音だからか、思いのほか解像度がなくぼやけた印象のレコードだったので、すでに闇に葬ってしまったが、アントンKの中では、かなり遠いところにあるブルックナー演奏だったのだ。

前置きが長くなったが、アントンK同様、怖いもの見たさの聴衆の多いこと多いこと。久々に1階の両端から3階席の先端までビシッと聴衆で埋め尽くされた光景に出会った。指揮台は無く(一応あるが、舞台とツライチの高さのもの。手すりと椅子有り)、その変わり、あまり見たことのないくらいの高さのひな壇が設置されており、最後部にシャルク改訂版の象徴とも言うべきバンダ(ホルン4・トランペット3・トロンボーン3・チューバ1)が並ぶ。

そして肝心の演奏はというと、思いのほか聴きやすく感じて非常に楽しめた印象を持った。もっともこれは、アントンKもこの日だけは、斜めに構えて演奏を聴いているので、演奏会自体を楽しめた訳で、純粋なブルックナー演奏からはやはり遠いものの、各楽章での時より見せる素朴な音色や、壮大なハーモニーにホッとする場面も多かった。これはロジェストヴェンスキーも御歳85歳の巨匠であることと関係しているのではないか。かつて聴いた実演での印象は、オーケストラの各声部を積み重ねていき、色彩感の強いきらびやかな音色が特徴だったが、今回の演奏では強引な響きは皆無で、思いのほか和音の内声部が聴こえ驚嘆した。これはかなりテンポを押さえ、一歩ずつ踏みしめるような足取りで進行したからかもしれない。特に印象に残っているのは、第1楽章の第二主題で、一気にブレーキをかけて遅くなり、弦楽器のピッチカートが、まるでハープの響きのようなニュアンスをもって進行して、ここでの響きの作り方など、指揮者ロジェストヴェンスキーならではと深く感じた箇所だった。

改訂版での演奏は、やはり一般的な原典版のそれからすると違和感は相当ある。各楽章に渡って改訂されているが、原曲も時より姿を現してくる。弦楽器や木管楽器で奏されるテーマにホルンが被さる場面が多く、ティンパニが必要以上にリズムを刻み、この点ではショスタコーヴィッチを彷彿とさせる。そして問題の第4楽章のコーダは、この版での最大の見せ場だろう。コーダに入る手前で、第1楽章のテーマが帰ってくる辺りから、いきなりカットされてコーダに雪崩れ込む印象だが、例のバンダは、コーダからではなく、コーダ中盤のコラール主題から活躍が始まる。今回は、11人全員起立してマーラー演奏のようにしていたが、ここまで譜面に記載があるのだろうか。ロジェストヴェンスキーの演出なのかわからないが、第1楽章コーダのホルンのベルアップとともに、指揮者の指示のような気がしている。

比較的お若い聴衆の方々は、やはりこのバンダが加わった終結部の分厚い和音や音厚に感激したとの意見が多いようだったが、ここだけ捕らえれば、朝比奈隆やヨッフムの第5の方が圧倒的に迫力がある。ヨッフムの助言から、朝比奈隆もこの第5の演奏の際には、最後のコーダ専用のバンダを置いていたのだ。しかもこのバンダは、第4楽章の中間部からすでに慣らし運転が始まり、コーダへ突入後一気に音楽が大きくなったのである。アントンKがブルックナーの音楽に本当の意味で興味を持ったのが、この朝比奈の第5(1978年3月の新日本フィル定期/東京文化会館)がきっかけであり、今でもこの日の演奏のことは忘れられないでいる。今まで聴いてきた第5とは、まるで異なり、その衝撃で終演後も座席から立てなくなったことを・・・

いずれにせよ、アントンKにとっても、おそらく聴きに来られた大多数の聴衆のほとんどが、シャルク改訂版の実演奏初体験だったはず。当然賛否は大きく分かれるだろうが、自分としては、ブルックナー演奏としては採らないものの、大変楽しめた演奏会だったと言えるだろう。プログラムで解説されている金子建志氏によれば、カット無しの改訂版全曲演奏は実に40年振りだとか。これだけでも非常に貴重な体験だったし、何と言っても読響の献身的な素晴らしい演奏があればこその内容だったと感謝申し上げたい。

ロビーでは音楽評論家であるT氏のお姿や、若手指揮者である富平恭平氏もお見かけし、全国のブルックナーファンがここに集結していることが容易に想像できたが、一方でいったい音楽に何を求めているのだろうと深く考えさせられてしまった。

このロビーの片隅に設置されたスクロヴァチャフスキの遺品を見ながら、そんな事を想ったのである。

第568回 読売日本交響楽団 定期演奏会

ブルックナー 交響曲第5番 変ロ長調 (シャルク改訂版)

指揮 ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー

コンサートマスター  長原 幸太

2017年5月19日  東京芸術劇場コンサートホール


演奏からみた楽譜考察

2017-05-17 10:00:00 | 音楽/芸術

ブルックナーの交響曲の場合、同じ楽曲に複数の楽譜が存在し、指揮者によってどれを使用して演奏するかが決まる。先日聴いた第8番は1887年第一稿、つまり初稿と言われる楽譜で演奏され話題を呼んだ。この第一稿は、滅多に実演されず、日本では今回おそらくインバルが都響を振った80年代以来の演奏だったのではないだろうか。第8については、版によって大きく異なり、その印象まで変わってしまうので、版の問題も重要なポイントとなるのだ。

そのほかの交響曲にも複数の譜面があり、作曲者自身で改訂した譜面や、弟子たちが改譜した版など多岐に渡るため、ただでさえ「ブルックナーは長い!」と敬遠されてしまうのに、さらに楽曲を複雑にしてしまい輪をかけて嫌われる要因になっているのではと思える。

その昔、朝比奈隆がドイツでブルックナーの第9番を振る際、かのフルトヴェングラーから「振るならオリジナルで!」と教示されたのは有名な語り草。その当時、まだ第9番は、弟子たちが関わった改訂版が主流だった時代だから、どの楽譜で演奏するのかは大問題だったはず。原典版で演奏したくても、譜面がそう簡単に手に入ったとも考えにくい。

こんな背景を今さら考えてみると、現代ではブルックナーの譜面も整理が進み、原典版、ノヴァーク版、ハース版、改訂版まで容易に手に入るらしい。こんな恵まれた時代だからこそアントンKは、今こそ色々な楽譜を使って演奏をすればいいのではないかと思ってしまう。かつて朝比奈隆は、第3交響曲は、エーザー版という版を使用していたが、晩年は最も一般的な第三稿に落ち着いていた。世界初録音で名をはせたエリアフ・インバルは、近年第4交響曲を初稿ではなく、第二稿ノヴァーク版でレコーディングしている。このように、その時代で使う版も変わるし、何が何でも原典版に拘ることもないような気が今はしている。先日の児玉宏の第8の初稿も素晴らしかった。まさにブルックナーの世界だったし、聴く前には初稿ということが前面に出てきてしまうが、実際演奏に浸れば初稿意識など消えていき、まだ見たこともないブルックナーの森の中へと入ることができるのだ。要するにどの譜面を使っても、演奏内容によってどうにでもなるという証拠だったように思う。アントンKも最初は、初稿ということで聴き入ったのであるが、そのうち響きにのみ込まれてしまい、譜面のことなど二の次になっていたのだから・・・

音楽は同じ演奏でも聴き手によって感じ方がそれぞれ違う。自分の心のより所でいかようにでも変わってしまうし、もっと言えば今日と明日の間でも感じ方は変化してしまう。それは自分の体調にも影響するデリケートな世界だ。クラシック音楽は演奏者や指揮者によっての新しい発見が魅力の一つだが、そう考えると楽譜の問題など小さな問題かなと思えてしまうのだ。

 

 


やはり本物!児玉のブルックナー

2017-05-14 05:00:00 | 音楽/芸術

一昨年に聴いた児玉宏のブルックナーが忘れられず、いつかはまた聴いてみたいと思い続けてきたが、今回再び鑑賞する機会を得た。前回の演奏会の記事は2015年10月に有るから見て頂くと有難いが、今回は神奈川フィルに客演という形で第8番、それも第一稿を使用するという。これを聴かずして何を聴くかと思われる内容である。

現代は、本当に何においても恵まれた時代になったものだ。インターネットで何でも探せてしまうし、ブルックナーの楽譜の問題も、あらゆる版が手に入る時代となった。アントンKがブルックナーを聴き始めた1970年代中ごろは、今ほどブルックナーの実演などなく、まして第8番第一稿なんぞ世界中みても演奏の実績は無かった時代だ。こんな時代に、忘れもしない、当時のNHK-FMの番組で、ブルックナー第8番のライブ放送があり、この時の解説者金子建志氏が、放送にちなんで、この第8交響曲について細かく解説された。その中で、実は第1楽章には、こんな壮大なコーダが付いていたと、この部分をオルガンで弾いて見せたのだった。このほかにも、相違するポイントを実際のオルガンを使って示したため、大変わかりやすかった思い出がある。そしてその後、現在ではマーラー指揮者の第一人者であるエリアフ・インバルが、フランクフルト放送交響楽団でこのブルックナー第8番第一稿を世界初演としてレコーディングし我々ファンを衝撃のルツボに落としたのであった。

話がそれてしまったが、現在では、この第8番初稿もCD録音の種類を簡単に選べて演奏そのものは聴ける時代。アントンKもご多分に漏れずほとんど所有しているが、こと実演となるとまだレアな楽曲ということになる訳だ。

さて今回の第8の演奏だが、やはり児玉宏は本物のブルックナー指揮者であった。奇手を狙わずそこに書いてある楽譜を素直に音に変えて我々に示し、ちょうど朝比奈隆が70年代後半から80年代にかけて次々とブルックナーの演奏を行っていた頃の響きとでも言ったらいいだろうか。響き自体は粗削りだが、非常に素朴であり、一気にアントンKの中にはブルックナーが宿ってしまったのだ。

第1楽章の出の弦楽器の響きからしてすぐにブルックナーを感じずにはいられず、同時にこれから何かとんでもない演奏が始まるという予感ができた。この楽章こそ、まだオケ自体不安定な音色もあったが、第2~第3楽章へと進むにつれてますます良くなり、大きな音楽が目の前に現れてきた。全体の印象では、弦楽器群の熱演もさることながら、管楽器の主張はポイントで際立ち、トゥッティの個所でも、バランスを崩さずに欲しい旋律のエッジが見えており感動的。特にスケルツォのトリオは、どこか郷愁ただよう心のこもった音楽が展開され、今までにない感動をもたらした。これはおそらくCD録音ではわからないし、何も伝わらず通り過ぎるだろうが、指揮者、演奏者それに聴衆との間に生まれた奇跡なのだろう。そして圧巻だったのは、フィナーレだった。冒頭の導入部から、腰の据わったメリハリの利いた弦楽器の上に管楽器群が主題を提示する。全てが見渡せるテンポといったらいいか、バランスを崩すことなく進む提示部から展開部への進行は今回の演奏の白眉だった。強烈なテインパニは、要所要所で効果があり聴衆を圧倒する。音楽がとても大きいのだ。広がるのである。頂点へと向かう上り坂では絶妙な溜めが入りブレーキを踏む。情熱的なポイントではオケをあおり突進していく。聴きながら、昔聴いたマタチッチを思い出したポイントだ。

本番前のプレトークで児玉宏は、第8でも一般的な第二稿と今日演奏する第一稿とは別の音楽だと語っていたが、確かに聴き終わった印象は異なり、今日の演奏は第二稿より楽譜が長いはずなのに短く感じてしまった。しかし今のアントンKには、正直譜面云々は関係ない。児玉宏というブルックナー指揮者の存在そのものに感謝したい気持ちだ。ミュンヘン在住であり、多忙を極めているようなので、そう簡単に次の機会は訪れないだろうが、アントンKの中で今後ますます注目して行きたい指揮者の誕生である。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第329回定期演奏会

ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調(1887年第一稿)

指揮 児玉 宏

2017年5月13日 横浜  みなとみらいホール