不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島小学校の今昔

2018-06-15 06:40:31 | Weblog
                             分類:観                          鹿島町を見て歩こう (100)        
                    いわき市立鹿島小学校
                    いわき市鹿島町走熊字中島1 
                    ☎ 0246-29-2052

                                      
   現在の校舎は尋常小学校が3校統合して移転した場所                     鹿島小学校が久保、矢田、蔵持の尋常小学校の統合により、現在の地に移転したのは昭和10年(1935)5月10日になっています。                                                    11,500平方メートルの校庭面積に予算1万1、900円で、木造平屋建て瓦葺きの校舎(坪数260坪・860平方メートル)ができました=写真下。                                       しかし、経費の節約のために矢田、蔵持両校の解体材料が多く使用されたようです。                                                         
       《昭和20年代の校舎で校門前は田圃。左端にあるのは奉安殿》
                 
 古老の話によれば、登校時の朝、校門内に入る時には必ず左の奉安殿に向かって一礼しないと、先生からきついお咎(とが)めがあったそうです。                                                      この奉安殿は戦前の日本に於いて、天皇と皇后の御真影と教育勅語を納めていた建物で、小学校の奉安殿建設は昭和10年頃から全国で活発化していったものです。            
 昭和23年(1948)4月に同、校庭内に新制中学の「鹿島中学校」が併設されましたが、昭和44年(1969)に小名浜1中、平三中に統合されたため、21年の歴史を以って幕を閉じました。                                           これによって、鹿島町には中学校は存在しません。
                                《同じ位置から見た現在の校舎。昭和54年から1,2,3期工事を進めて同56年完成した》 
                
  昭和42年(1967)頃から木造校舎改築の動きが高まり、その後10年間の歳月を経て校舎は鉄筋コンクリート3階建てに生まれ変わりました。                                                新校舎は既存の校舎跡に建設するために、図書室を教室にしたり、理科音楽室を移動したり、玄関を仕切って教職員室にしたり、1年間に何回も教室の移動を余儀なくされて、先生も生徒も大変苦労されたようです。                                                                        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真で見る七本松の今昔

2018-06-14 06:29:11 | Weblog
                                            分類:観                             鹿島町を見て歩こう(99)       いわき市鹿島町走熊字七本松                           平・小名浜・江名港を結ぶ要所だったところ                                                                    この辺りの地名を七本松と呼ぶ謂(いわ)れは、その名の通り、延暦年間(782年~805年)に、坂上田村麻呂将軍が東夷征途の折、江名へも行ける三叉路(現在は十字路)の走熊の地点で戦勝を祈念して七本の松を植栽していったことにあります。
                                                                         慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争では、ここ七本松においても7月10日に薩摩藩(西軍)と平藩・仙台藩の攻防戦があったという鹿島の歴史上に名が残る場所となっています。
                                《坂上田村麻呂将軍が東夷征途の際に七本の松を植栽していった=写真は二代目の松》             
  最初の松は、昭和10年までに5本が強風で倒れ、同12年には全滅してしまったので二代目となる松が植えられました。その後は昭和50年に道路拡張工事のために伐採されてしまい、今は三代目として鹿島公民館の敷地内に若松を移植されました。                                                              《昔の写真と、同じ位置から撮った七本松の場所。コンビニの後ろは、かしま病院》 
  コンビニの前を横切っている道路が江名港⇔湯本線(県道48号で、撮影場所から前に伸びているのが旧・鹿島街道になります。右角が №85 で紹介した、おくにさんの店「波立商店」があった場所になります。     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高照観音への道は険しい

2018-06-13 06:51:48 | Weblog

          《高照(たかでら)観音堂へ上っていく入り口》

                             分類:観                                                       鹿島町を見て歩こう(98)        いわき市鹿島町走熊

  鹿島町では一番高い山(海抜126m)にある                             
 磐城三十三ケ所観音霊場、第17番礼所になっているこのコースの道程は、他の観音堂を巡って歩くより最もキツく、距離があることで知られています。
 足元が悪く片道20分前後掛るので、急がずマイペースで上って行くのがコツ。
 
     礼所17番 高照観音   ご本尊 十一面観世音菩薩
                   場所 いわき市鹿島町走熊高照山

     《御詠歌》 世の中は麓(ふもと)にありや東泉寺
            日は高寺に水走熊(みずはしりくま)

 
 走熊観音堂再建勧進趣意書によると「石城三十三番礼所の一なる當十七番走熊高照山十一面観世音菩薩は今を距る實に1千四百七十三年一世の大徳徳一大師の御祈願に係るものにて云々」とこと細かに記されてありますから、年号は文明年間に遡ることになります。
 
 旧菊田、磐前、磐城、楢葉の四郡に祀られる霊験あらたかな磐城三十三ケ所霊場の一つに挙げられていることは周知の通りです。
 
 観音堂は、これまでに何度となく火難に遭い、その度に焼失しましたが現在あるお堂は昭和45年の建立になるもので、そのお堂の前の一段下の平地部分(杉や雑木に覆われて鬱蒼としています)が、かつて存在した東泉寺跡です。                                            本堂の裏を少し登ると、国土地理院の三角点があり、小名浜や勿来、平などが一望できるのですが、草木を掻き分けて行くようになるので要注意。

  「高照観音」 については、本ブログ2018/3/25付 ㉕ 参照

  








































 





あ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島という地名の由来

2018-06-12 06:44:56 | Weblog
                 鹿島神社の入口》                                   
                             分類:観                                                                   鹿島町を見て歩こう(97)       いわき市鹿島町〈全域〉                                                                           氏神として崇められていた寺社から命名                 

 明治22年4月1日付で町村制が実施される以前までは上矢田村、下矢田村、松久須根村、三沢村、米田村、走熊村、飯田村、上蔵持村、下蔵持村、久保村、船戸村、御代村の12ケ村が、平藩と湯長谷藩、そして小名浜代官所の支配下に別れていました。 
 それまでの戸長制を廃止して町村制が実施されることになり、12ケ村の合併の際に問題になったのが、新しい村名をどのようにして付けようかということでした。                                                                                                 延喜式内社で磐城七座の一つである鹿島神社    
  そこで、上矢田に祀ってある延喜式内社の鹿島神社が、古くより各村民の氏神として崇められていたところから、その社号が採り入れられることで決まったのです。
 明治維新後、22年後にして隣り合う12の村落が一団して 「鹿島村」 を誕生させました。

 以来、小名浜町(一部、湯本町)との合併をはじめ、磐城市(一部、常磐市)、いわき市という市名の変遷はあったものの、鹿島という地名だけは現在でも住所表示の中に残すようになり地域住民の人たちは、かつての12町村を総称して 「鹿島」 と呼んでいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然体の、かしま幼稚園

2018-06-11 06:43:50 | Weblog

                            分類:学                                               鹿島町を見て歩こう(96)    

                                                        学校法人新妻学園 私立かしま幼稚園                                          

                      いわき市鹿島町走熊字渡折19-1 

  緑に赤い屋根が映える幼稚園                                                                 かしま幼稚園は、いわき市立鹿島小学校から中央台へ抜けていく途中にあります。           周囲が山に囲まれた自然環境の中に位置しているので、卒園児や在園時の父兄たちの口コミからも効果があって人気の幼稚園です。                                           

    《福島さくら農業協同組合鹿島支店から見た、かしま幼稚園の全景》                           

 初代園長の新妻一行氏は、鹿島の消防活動に専念し歴代組頭に名を連ね、消防団長、連合消防団長を歴任して、昭和42年には勲五等双光旭日章の栄誉に輝き、鹿島消防団の存在を大いに高めた人物です。                                                              もともと農業を営んでいたが幼児の教育に発奮して、土地と山を開放し幼稚園を開設しました。                                                              《幼稚園の出入り口で、朝夕は母(父)子の弾んだ声で賑わう通り道の一つ》                 

 二代目の園長は、恵まれた自然環境を十分に生かし、園庭から登れる 「がんばり山」 に力を入れ、頂上にはアスレチックや山小屋が作られていて園児が遊びの中で想像力や運動能力を養う広場にしました。                                                             現在の園長(三代目)は持ち味のバイタリティーで、園児たちと秋には栗拾いや、学習田に実った稲の刈り取りを一緒にやって、その楽しみを分かち合います。                                                 『自然に親しめる環境が豊富なこと』の特徴を上手く活用して、園児たちが将来に思い出をいっぱい残せるような構想を描いて運営にあたっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島で今や一等地の団地

2018-06-10 06:23:05 | Weblog
                             分類:観 
                              
  鹿島町を見て歩こう (95)        いわき市鹿島町米田                                    
ゴルフ練習場から立地条件の良い団地に変身                         まだ昭和30年の前半に、この米田地区にゴルフ練習場が出来たこと自体が画期的な出来事でしたが、その後は宅地造成をして「鹿島台団地」の開発が進められるようになっていきました。                    
        《前方の高台に、1列状に並んで見えるのが鹿島台団地》 

  周辺が田圃と山に囲まれた寒村に過ぎず、宅地としての売れ行きは芳しいとは言えませんでしたが、時代は、昭和40年頃を境に鹿島地域にはベッドタウン的な感覚で脚光を浴びてくるようになり、船戸団地や御代団地、いわきニュータウン、若葉台団地などが次々と造成されてくるようになりました。
                      鹿島団地の目の前には鹿島ショッピングセンターエブリア・ヨークベニマルができ、「江名港⇔湯本線(県道48号)」があり、常磐バイパスがあり、今では鹿島町の一等地に変身してしまいました。                                    
            《なだらかな坂を上り詰めた先に鹿島台団地がある》

 平成14年(2002)には、市消防本部が市内5ヵ所に住宅防火推進地区を設置しましたが、その中に早くも指定され「初期消火訓練や地区内のパトロールなど地域ぐるみで防火対策を推進し、地区民一人ひとりが防火意識を高め、火災予防と火災での犠牲者を減少させる活動」に取り組みました。                                                        
    《ショッピングセンター歩道橋の遠方に僅かながらに見えるのが鹿島台団地》
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危っかしい光西寺の楼門

2018-06-09 06:43:36 | Weblog
           《傾いた楼門は太い丸太1本で支えられている
 
                              分類:観                                                                                     
   鹿島町を見て歩こう (94)                                                    

                  熊野山光西寺  いわき市鹿島町御代

大仏さまとセットで、早急に補強が必要
 「御代の大仏さま」で知られている光西寺は古くは廣濟寺と書き、小名浜林城(旧、林城村)禅長寺の末寺でした。建立されたのが文禄4年(1595)で今から415年も前で、本堂と楼門は往時の建立とされています。
※庫裡はその後に隣村、相子島(あいごしま)の寺の建物を譲り受けて移築したと伝わります。

 場所は鹿島街道を平方面に向かうと、御代坂下りの中間あたりの左側に見下ろすような形で見ることができます。

 楼門は三間一戸・入母屋造り鋼板葺きで左右の楼門に木造の仁王尊が安置されています。
 老朽化が激しく楼門の裏側(=写真)から見ると、左側に太い丸太の支柱でガードされていますが屋根部分の重量感から推測して、いまや崩壊寸前の状態ともいえます。
 建物は既に幾らか傾斜しており、支柱に架かる重量負担は大きい筈です。

 境内にある「御代の大仏」(銅造阿弥陀如来坐像)は、昭和43年12月27日に、いわき市有形文化財(彫刻)に指定されていますが、この楼門もそれに附随して「いわき」にとっては貴重な建造物だと思いますので、是非とも丁重な保護をお願いしたいものです。

 「御代の大仏」に関しての詳細は当ブログの2009・4・1付を御覧下さい。
                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪疫の侵入を防ぐ庚申塔

2018-06-08 10:02:32 | Weblog
                            分類 : 観                                      鹿島町を見て歩こう (93)       いわき市鹿島町〈全域〉


  鹿島には10基の庚申塔がある
                   場所 : ① いわき市常磐三沢町(墓地入口)
                        ② いわき市常磐上矢田町(円福寺境内)
 庚申塔(こうしんとう)は村境や三叉路に造立され、悪疫などの侵入を防ぐと信じられていました。                                        ▲鹿島町には合わせて10基の庚申塔があるので、その内の2基だけを紹介する事にします。

           《 ①昭和24年旧10月建之
  ・後に立て掛けられている石は、風化して文字が全く無くなってしまった昔の石塔
 中国の道教に由来する庚申信仰は、日本では室町時代に始まり江戸時代には隆盛を極めた。
「庚申縁起」によれば、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪禍を天帝に告げるため生命を縮めるといわれた。
人々は「 講 」を結んで、その夜は眠らず身を慎んで過ごし、延命招福を祈念した。



            《 ② 文政十丁亥歳二月庚申
 庚申塔の標準的な形は、病魔を追い払ってくれる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれているが、鹿島には一基もなく「 庚申塔 」と彫られたものだけ。
 6本の腕のそれぞれの手には三叉戟(さんさげき)と呼ばれる三又の矛や法輪・剣・弓等を持ち、邪気を踏みつけ、足元には三猿が刻まれています。


  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横穴墓群がある寺の付近

2018-06-07 06:46:00 | Weblog
                     《樹木の影にひっそりと並ぶ横穴墓》                           分類:観                                                                   鹿島町を見て歩こう (92)                                     20基以上の横穴が確認できる
                                所在地  養照山宝蔵院 金光寺
                                      いわき市鹿島町久保字西ノ作71                                     《金光寺の境内で、横穴墓はこの裏山にある》 

 金光寺(こんこうじ)は、宗派が高野山真言宗で、大同元年(806年)に徳一大師により創設されました。 久保横穴墓群=(写真)は、この寺の墓地裏の凝灰砂岩質で出来た少し高台になった場所にあるもので、その横には「磐城三十三所観音霊場」の一つに数えられる第十六番札所もあります。                                            また、金光寺にある「宝篋印塔」 (ほうきょういんとう)は、平成27年(2015)5月1日にいわき市指定文化財に指定されています。(※本題の記事詳細は №52 を参照)

 横穴墓について、案内板に表示されている全文は下記の通りです。

  久保横穴墓群 古墳時代後期の500年から600年にかけてつくられる。
              〈所在地〉いわき市鹿島町久保字木船

 凝灰砂岩質の丘陵に営まれている横穴墓は市内の鮫川流域、滑津川流域(国史跡=平沼ノ内中田横穴墓など)、藤原川流域に数多く見られる。
 久保横穴墓群は同じ鹿島町御代(みよ)の九反田横穴墓群と共に藤原川流域に属する。
 約20~30基の横穴が傾斜面につくられているが、樹木の根や土砂などに埋もれ、その一部しか確認されない。
 かつては横穴墓の内部から副葬品が出土され、それがマニア間に流出している。
 
 現在はこの横穴墓の一部を利用して、両墓制(又は参り墓)という古い信仰のかたちを保っている。
  

            
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島公民館の変遷

2018-06-06 06:27:16 | Weblog
                                            分類:観                         鹿島町を見て歩こう (91)     鹿島公民館  いわき市鹿島町走熊字鬼越                  が分離して公民館は2館あった                                                                  現在、鹿島公民館といえば鹿島町走熊にある1館だけですが、昭和56年(1981)以前までは鹿島小学校敷地内と、常磐上矢田町の2館が存在していました。
鹿島は「いわき市」になる前の「磐城」と「常磐」に分離合併していたので2館あっても管轄は別個でした。
                             《昭和56年に建てられた現在の鹿島公民館》                                   鹿島村当時は12部落が一つの集団として結束していましたが、昭和28年(1953)戦後の町村統合に即して一時は全部落が小名浜町に総合合併を果たしました。                                      しかし、上矢田、松久須根、三沢の3は、翌年3月29日を以って常磐市に編入しました。                                                                                                      《利用者が長年の念願だった講堂は、平成29年に同敷地内に完成した》                               湯本町と合併はしたものの、湯本町役場までが遠隔であるために生活上に置いて何かと支障を来し、行政業務の窓口として上矢田町(現在は、いわき中央卸売市場入口にある東北農政局鹿島事務所いわき統計センター)に、湯本町役場鹿島支所が設置されました。                        これに付随して設置されたのが鹿島北公民館でした。                                                             鹿島小学校敷地内の一角にあった鹿島南公民館 s39年頃                        昭和41年(1956)に14市町村(5市、4町、5村)が合併して「いわき市」が誕生し結果、鹿島地区には行政区の関係から2つの公民館があるが、社会教育行政上1館に統合すべきであるとの意見が暫くのあいだ論じられ、昭和55年(1980)1月31日、統合の合意に達し、鹿島公民館は1館(鹿島町走熊)へと移行した経緯があります。、                                                                   《現在の東北農政局鹿島事務所いわき統計センター(上矢田)の場所にあった北公民館》 s40年頃                                  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽黒山に関連する専明院

2018-06-05 06:41:11 | Weblog
                     《平成13年に再建された専明院》
                                            分類:観                                 鹿島町を見て歩こう(90)      専明院 (せんみょういん)                                いわき市鹿島町下矢田字前原                                                     羽黒山の教えを末端に布教するために建立
      本尊  大日如来(寄木造)
      創立  天文14年(1545)10月
      中興開山  法印権大僧都祐水毎上人 (棟札による)
      大日如来を安置  智海上人 (光背に「奉造立智海」の銘あり)

 山形県鶴岡市にある羽黒山は寂光寺と称して神と仏の修合の寺院ですが、下矢田の専明院は、その教えを末端の人々にまで広く布教するために建立されたものです。
 羽黒山といえば、出羽三山の一つで古くから修験(山伏)の霊場であったことで知られています。

 専明院の正式名は[如来山・行覚寺]といいます。
 「いわき」では専明院(下矢田)の他に、常光院(久之浜)、善行院(狐塚)、柳澤寺(野田)があり、それらの各寺は数ヶ所に末寺を有し、特に専明院の配下寺にあっては延喜式七社に指定されている鹿島神社の別当である、上矢田の神宮寺、水祝儀の歳事を行う沼之内の地蔵寺など全部で17ケ寺が属していました。

 昭和2年に、これまで大きな伽藍だった専明院は改築され小さくなり権現堂と呼び、昭和53年1月にも堂内の改修が行われました。
 現在ある堂宇(=写真)は平成13年に再建されたものです。

      行事  2月8日・9月8日 縁日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔ばなしが伝わる里也橋

2018-06-04 06:15:56 | Weblog

                                          分類:観                                              鹿島町を見て歩こう (89)         いわき市鹿島町久保字里屋                                     里也橋の由来は、里橋也 (さとのはしなり からきている                                                            この橋は、旧・鹿島街道と江名港⇔湯本線(県道48号)が交差する七本松の近くにあって、目の前に「クリニックかしま」があります。                                             単なる橋ではなく、地元の人たちには愛着のある橋として代々、子供たちに受け継がれてきた話が残っています。                                   《鹿島街道旧道の蔵持川に架かっている現在の里也橋で、左に見える建物はクリニックかしま》            〈昔ばなし〉  昔、鹿島の久保村から欅(けやき)の巨木を伐り出して、蔵持川に橋を架けることになった。その巨木はさすがに重くて人夫が押しても引いても簡単には動かすことができなくて難儀した。                 そこで、蔵持に住む「さと」という歌の上手な美少女を呼んできて木遣りの音頭をとらせたところ大木は歌に合わせて少しずつ動き出して、目的の所に達して工事を無事に終わらせる事が出来たという。橋は、その「さと」の名にちなんで「里也橋」と名付けられた。

                                   《里也橋の車道とは別に側道(歩道)橋も設けられている》                                                                                                 資料によっては美少女ではなく「寡婦」ともあり、巨木の伐り出し場所が「蔵持の榎(えのき)」であったり、橋名も「里橋」になったりしますが、お里によって出来た橋というのが最も信ぴょう性があるので、「里橋」の方を採用しました。但し、実際の地名や橋名は「里屋」になっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史が詰まっていた郷倉

2018-06-03 06:48:34 | Weblog

                            分類:観                                           鹿島町を見て歩こう(88)    
                久保郷倉跡地 いわき市鹿島町久保字於振                                         奴行列があったのを示す行列帳などが見つかる                             いきなり、ゴミ集積場が出てきても意味不明と思われるのを承知の上で、敢えてこの場面から入ります。                                      実はこの場所には、かつて久保部落共有の物品を保管しておく 「郷倉」 がありました。                                                                   《ゴミ集積場の前にあるスペースに郷倉が建っていた。手前の白線がある部分は旧・鹿島街道》 
       久保地区には、その昔、奴行列が行われていたという証拠の古文書が郷倉から発見されています。                                   その郷倉は、久保字於振にある 「さくらんぼ幼稚園」 前付近のゴミ集積場そばでした=写真下。                                        昭和54年6月に取り壊されてしまいましたが、長持ちの中に保管されていた中型ダンボール4個分の中から見つかったものです。郷倉解体の時に、長持も大型で、置き場所がないとの理由で焼却されてしまったというのは残念でなりません。                 
                                          「明治12年、久保村 行列帳 目録記入 消防組」と表紙書きされた1冊で、内容は奴行列に関わる役名と氏名、人数が列記されており、行列帳と日付が同じ「諸入用調帳」によると、他村からのご祝儀も受けています。                                                                     上荒川村(平)や、上神白村(小名浜)部落の人たちの名もあるので、当時の久保村の奴行列は近郷近在では名が通っていたものと充分に推察できます。                                                                                                                                                《久保部落の入口あった郷倉》                   
 長持に被せてあったものには5つの「下がり藤」の紋所が付いていました。これは湯長谷藩主内藤家を表しているものです。 註釈:同じ内藤家でも平藩主は「上がり藤」                                     久保に長持や被いなどが、どのような事情で拝領したのかは記録はありませんが明治維新後、湯長谷藩では藩の所有物を領内の村へ下付したものと考えられます。

 そうなると、渡辺町釜戸地区や山田町に伝わる奴行列とも何らかの関連性が出てくるかも知れません。専門家による今後の研究結果を待つほかありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわき市役所小名浜支所

2018-06-02 06:29:41 | Weblog
                                          分類:観                          鹿島町を見て歩こう (87)                                            平成天皇・皇后 (当時は皇太子ご夫妻) がバルコニーに立たれた庁舎                                                               いわき市役所小名浜支所                                                     いわき市役所小名浜花畑町15-1                                                      いま更新中の「鹿島町を見て歩こう」のタイトルには直接的な関係はありませんが、鹿島町とは欠かせない鹿島街道という見地からすると、いわき市役所小名浜支所の記事もありかなと思って書きます。                                      この庁舎は昭和29年3月に小名浜・鹿島・江名・泉・渡辺の各町村が合併して「磐城市」となってからのもので歴史のある建造物です。                                            《旧・磐城市役所本庁の姿を今に残している小名浜支所》 
                                    《小名浜支所は、鹿島街道の始発点(本町)に最も近い場所にあり、この支所前を通過する》                   
昭和36年6月1日に皇太子、美智子妃殿下(現・平成天皇ご夫妻)が小名浜で行われた水産資源保護大会にご出席された際に、2階のバルコニーから市民に笑顔で手を振られたところでもあります。                                       これに合わせて急遽、内装工事やトイレの水洗化などに追われて、役所の裏方は大変苦労したというエピソードも残っています。

 この頃の鹿島街道は、曲がりくねった道から直線的な新道として転換工事が進められていた最中で、全線開通までには未だ程遠く、砂利道で新道は一部使用可能の状況でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胎(はら)ごもりの観音様

2018-06-01 06:46:13 | Weblog

                                           分類:観                                    鹿島町を見て歩こう (86)     専称寺観音   松久須根町字上坪 (旧・鹿島村)        御尊像は木造から金仏にして体内に入仏                                   専称寺観音堂とは、便宜上付けられている名称のようで本来、専称寺と観音堂は別個のものであって地元の人たちは、現在の建物を「観音さま」の略称で呼んでいるお堂です。                                  御尊像は「胎(はら)ごもりの十一面観音」で、例年7月16日に祭りが行われます。寄木造りの十一面観音は聖観音を胎中に抱いていることから胎内仏とも云われるものですが、昔からの木造胎内仏は専称寺に住んだ僧徒により失くされてしまいました。 大正2年、村内の寄金によって聖観音金仏を胎内に入仏しました。                                                                                           《昭和42年に修築された観音堂》 

この地に観音堂が建立されたのは、天文22年に飯野村中山館の館主、中山讃岐守隆吉が三春の地で戦死し、その菩提寺が上矢田村圓福寺と定まり中山一族も上矢田村小田小路地内に移りました。                                                             隆吉の妻は夫の冥福を祈るために、亡夫の守り本尊十一面観音を抱いて小田小路から松久須根の草庵(専称庵)に移り住んだことに始まります。                                     明治15年前後までは観音堂の隣地に、四倉・薬王寺の末寺であった専称寺が建っていたのですが、その後、地元に檀家がなかったこともあって取り壊され、伽藍すべてを何処かへ運び去られてしまったとされています。                                                                                     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする