分類:地
鹿島町には260前後の地名(字名)がある
地名には、いわく因縁のあるものから、単純明快に付けられたもの、又はその土地に纏わる民話的な事から発祥したもの、地形、地理的な位置、人文地名や伝承、産業に纏わるものなど正に千差万別です。
鹿島町 (※旧・鹿島村に属していた上矢田、下矢田、三沢も含めます) には。260以上の地名 (字名) が存在します。その中から主だった呼び名と由来を記してみます。
《在りし日の七本松の風景。写真からみて地名の由来が素直に分かる》
七本松 (しちほんまつ) 走熊=上の写真。 延暦年間(西暦782年~805年)。大伴弟坂上田村麻呂が794年に征夷大将軍に任ぜられ、東北地方へ征途の時に走熊地内を通りかかりました。
西に丸山を背負い、東に折れれば江名の浜にも抜けられる三叉路(註・現在では湯本方面へも行ける道があり、十字路)で休息し、道端の一角に戦勝を祈念しながら七本の松を手植えした。
※征夷大将軍ー平安初期、蝦夷征討のために置かれた臨時の官。
上矢田(かみやだ) [常磐上矢田町] ①坂上田村麻呂が東征のために、この地を通り掛かり鹿島神社へ武運長久を祈って御供田すると共に、矢の根4本を献上した。田村将軍矢の根を此処に納めた際に 「田村矢を上げる」 と記したことによる説。 ②古くは岩崎東郷と称したが、後に大谷田と改める。平城に近い地区を上矢田、下の地区をした矢田と呼ぶようになった。
三沢(みさわ) [常磐三沢町] 飯野八幡宮の飯野文書では 「深沢」 という地名が出てきますが、これが今の「三沢」と解されています。
三沢の字内には沢と呼べるものが数十あると云われますが、大沢と呼ばれるものは坂下作、奥駒作、傾城作の三つなので、その辺から三沢の名が生まれたとも考えられます。
元弘3年の文書には、未曾有村とあるので 「みそう」 が 「みさわ」 に変化していったものとも推察されます。
鹿島町には260前後の地名(字名)がある
地名には、いわく因縁のあるものから、単純明快に付けられたもの、又はその土地に纏わる民話的な事から発祥したもの、地形、地理的な位置、人文地名や伝承、産業に纏わるものなど正に千差万別です。
鹿島町 (※旧・鹿島村に属していた上矢田、下矢田、三沢も含めます) には。260以上の地名 (字名) が存在します。その中から主だった呼び名と由来を記してみます。
《在りし日の七本松の風景。写真からみて地名の由来が素直に分かる》
七本松 (しちほんまつ) 走熊=上の写真。 延暦年間(西暦782年~805年)。大伴弟坂上田村麻呂が794年に征夷大将軍に任ぜられ、東北地方へ征途の時に走熊地内を通りかかりました。
西に丸山を背負い、東に折れれば江名の浜にも抜けられる三叉路(註・現在では湯本方面へも行ける道があり、十字路)で休息し、道端の一角に戦勝を祈念しながら七本の松を手植えした。
※征夷大将軍ー平安初期、蝦夷征討のために置かれた臨時の官。
上矢田(かみやだ) [常磐上矢田町] ①坂上田村麻呂が東征のために、この地を通り掛かり鹿島神社へ武運長久を祈って御供田すると共に、矢の根4本を献上した。田村将軍矢の根を此処に納めた際に 「田村矢を上げる」 と記したことによる説。 ②古くは岩崎東郷と称したが、後に大谷田と改める。平城に近い地区を上矢田、下の地区をした矢田と呼ぶようになった。
三沢(みさわ) [常磐三沢町] 飯野八幡宮の飯野文書では 「深沢」 という地名が出てきますが、これが今の「三沢」と解されています。
三沢の字内には沢と呼べるものが数十あると云われますが、大沢と呼ばれるものは坂下作、奥駒作、傾城作の三つなので、その辺から三沢の名が生まれたとも考えられます。
元弘3年の文書には、未曾有村とあるので 「みそう」 が 「みさわ」 に変化していったものとも推察されます。