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小松基地問題研究会

20230529 野田山陸軍墓地とロシア兵捕虜の墓碑について

2023年05月29日 | 公園論
20230527 野田山陸軍墓地とロシア兵捕虜の墓碑について

 まず、金沢に置かれた第九師団と石川県戦没者墓苑(野田山陸軍墓地4-2)の簡単な経過を年表【資料1】で振り返っておく。
 明治維新後の1870(M3)年に、野田山墓地は石川県の管理下に移行し、1873(M6)年に歩兵21連隊(後に第七連隊に改編)が金沢城内に置かれた。陸軍墓地4-2が整備されたのは1876年(M9)ごろで、その後、陸軍墓地を含む野田山墓地は金沢市の管理下に入り(1900年陸軍墓地4-2を金沢市登記)、1940(S15)年に陸軍墓地4-2は陸軍省に登記された。戦後もそのままにされており、1962(S37)年に大蔵省に移行(登記)→石川県の管理下(登記)に置かれ、現在に至っている【資料2】。
 陸軍墓地4-2に設置された碑の設置年次の順番を、石川県戦没者墓苑の説明板【見出しの写真】に書き込むと、1877(M10)年から敗戦までに、①~⑨までの墓碑、戦後は⑩~⑬の墓碑が設置された。⑭には、北越戦争で戦死した14人の加州藩兵士の墓があるが、いつ墓碑が設置されたのかは不明である。

 筆者の問題意識は、野田山陸軍墓地(4-2)は天皇のために命を捧げた者を祀るための神聖なる「聖地」であり、それ以外の者に墓地として提供することはなかったであろうという推測である。すなわち、第九師団が管理していた時期には、⑤ロシア兵墓碑、⑭加州藩士の墓、⑬尹奉吉暗葬地は陸軍墓地の外縁に置かれたであろうという推測である。

加州藩士の墓も周縁に
 まづは、⑭加州藩士の墓について検討しよう。加州藩士の墓14基は陸軍墓地の北側「新墓地丙」(左図面)に東西に並んで立っている。その数メートル北側に石灯籠2基(効忠、達勲)が並んでいる(右写真)。「新墓地丙」の整備は1881年なので、加州藩士の墓もそれ以後に設置されたと考えられる。すでに金沢陸軍埋葬地が整備(1876年)されていたが、大日本帝国(軍隊)にとっては加州藩士は「不信の兵」(徳川に付いたり、朝廷に付いたりする加賀藩の兵を「英霊」として、軍人墓地に祀る訳にはいかない)であり、そのテリトリー内に設置することはあり得なかったのである。

 

ロシア兵士の旧墓について



 石川県戦没者墓苑(野田山陸軍墓地)に、日露戦争時に捕虜として連行され、生きて故国に帰れなかった10人のロシア兵士の墓がある。当時の『北国新聞』(1905/5/5)には、葬列のイラスト(上写真)をつけて、「俘虜の葬式 昨日俘虜兵の葬式行はる。午後一時横安江町東別院俘虜収容所を出で、先頭十字架の墓標に花環、聖書、賛美歌を唱ふる俘虜十名、僧侶、霊柩、儀仗兵四名、会葬将校の順序にて、横安江町より南町通りを過ぎ、犀川大橋を渡り、野田寺町に出でて、野田山陸軍墓地に埋葬せらるる。沿道は例に依りて出張警官憲兵等厳重に警戒せり。」(1992/9『金沢のロシア人墓地 国境を越えた鎮魂の記録』から孫引き)と、報道され、野田山陸軍墓地(周縁)の一角に墓石を立てて葬られた。
 現在のロシア兵墓碑は石川県戦没者墓苑のほぼ中央⑩の位置に設置されているが、これは1948年に移設されたものである。それでは、1948年まで設置されていた場所はどこなのか? ほとんどすべての資料は満蒙開拓者慰霊之碑⑪の北側⑤の陸軍墓地内に置かれていたとしている。
 下記2図面には陸軍墓地内(周縁)の元ロシア兵墓地の位置が書き込まれている。本康論文『軍都の慰霊空間』(左図面)では東西に2カ所、森論文(野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究」(右図面)では1カ所に2列の墓が描かれている。

 

 しかし、<登記番号 第1275号 野田町墓地4ノ2>について、地籍図(下左図面)と石川県作成「財産台帳」(下右図面)を比較すると、北側の境界線が相当に食い違っている。地籍図では一直線であるのに、財産台帳では曲線になっており、ロシア兵の旧墓碑は両者の境界線の間に位置しているのである。

 

 はたして、ロシア兵の旧墓碑のある場所が陸軍墓地敷地内なのであろうか。戦後政治の中で、対外的に「陸軍墓地内」と取り繕っているのではないだろうか。神聖にして侵すベからざる陸軍墓地内に、敵軍将兵の墓を作るのだろうか、という疑念が湧いてきた。
 1962年6月27日発行の「財産の取得通知について(石川県民生課から総務部宛)」(下左書類)によれば、「土地面積3833.85坪」とされていて、これは「登記簿(表示番号2番)」【資料2】の数字12反7畝22歩(12670㎡=3839坪)と一致する。

 

陸軍墓地北東端の現在
 北東端の垣根の北側に、参道と並行した幅1メートル前後の野道(下図面)があり、そこに東西360㎝×南北120㎝のコンクリート台座が埋まっていた(上右写真)。陸軍墓地中央のロシア兵の墓は各々38㎝四方であり、この台座に2列にして、10基がちょうど収まるのである。ロシア兵の旧墓はこの台座の上に置かれていたと推測される。



【資料1】第九師団と野田山陸軍墓地略年表
1868(M01)年   明治維新(戊辰戦争、北越戦争)
1870(M03)年   野田山墓地の管理権→石川県へ
1873(M06)年   金沢城内に歩兵第21連隊→1875年歩兵第七連隊に改編
1876(M09)年8月 金沢陸軍埋葬地(4-2)整備(ネット上では1600坪?)
1877(M10)年5月 軍人墓碑(下士官368柱)①
1879(M12)年4月 軍人墓碑(将校24柱)②
1881(M14)年~  野田山新墓地造成
1884(M17)年   野田山墓地の所有権→金沢区→1900年金沢市名義で登記
1893(M26)年3月 陸軍軍人合葬之墓(69柱)③
1894(M27)年8月 日清戦争(歩兵第七連隊動員)
1897(M30)年4月 征清役戦死軍人・病没軍人合葬碑④
1898(M31)年11月 第九師団新設(野田山陸軍墓地3000坪に拡張か?)
1900(M33)年   陸軍墓地(4-2)を金沢市登記
1904(M37)年5月 日露戦争(第九師団に動員命令)
1905(M38)年5月 ロシア兵墓碑(10人)⑤→1948(S23)年移転⑩
1907(M40)年3月 日露事変陣没者合葬碑(6124柱?)⑥
1921(T10)年3月  シベリア出兵(第九師団出兵)
1931(S06)年9月  満州事変(第九師団動員)
1932(S07)年1月  上海事変(第九師団動員)
1932(S07)年12月 上海事変陣没者合葬碑(144柱)⑦
1932(S07)年12月 尹奉吉処刑・暗葬
1937(S12)年5月  満州事変陣没者合葬碑(104柱)⑧
1937(S12)年7月  盧溝橋事件→12月 第七連隊南京入場
1940(S15)年    陸軍墓地(4-2)を陸軍省登記
1941(S16)年5月  支那事変戦没者忠霊塔(5814柱)⑨
1941(S16)年12月 日米開戦
1946(S21)年3月  尹奉吉遺骨発掘
1962(S37)年5月  陸軍墓地(4-2)の名義変更→大蔵省登記
1962(S37)年5月  陸軍墓地(4-2)の所有権移転→石川県登記(12670㎡ 約3833坪)
1970(S45)年7月  石川県満蒙開拓者慰霊之碑⑪
1992(H4)年4月  尹奉吉殉国碑⑭、12月 尹奉吉暗葬碑⑬

【資料2】土地建物登記簿(金沢地方法務局2014年9月10日発行)



登記番号 第1275号 野田町墓地4ノ2
表示番号
  1番 昭和15(1940)年3月27日受付 金沢市野田町野田山墓地4番ノ2
     墓地 2反2畝7歩(注:約2205㎡ 670坪)
     右分割により登記第60号ヨリ
  2番 昭和37(1962)年5月4日受付 金沢市野田町字野田山4番の2 
墳墓地 12反7畝22歩(注:約12670㎡ 3839坪)
右変更を登記する
順位番号
  1番 明治33(1900)年5月4日 受付 第5851号 金沢市ノ為所有権ヲ登記ス
     昭和15年3月27日 受付 第2275号 分割ニ因リ甲区順位第1番ヨリ転写ス
  2番附1 昭和15(1940)年3月30日 受付 第2986号
     昭和14(1939)年11月26日 贈与 
     契約ニ依リ 陸軍省ノ為メ所有権ノ取得ヲ登記ス
  2番附記1号 2番登記

※ 登記書によると、陸軍墓地4-2は1876年から整備が始まっているが、明治33(1900)年金沢市が所有を登記した。1940年受付「墓地 2反2畝7歩(注:約2205㎡ 670坪)」、1962年受付「墳墓地 12反7畝22歩(注:約12670㎡ 3839坪)」との記載がある。
  表示番号1番に「登記第60号ヨリ」と書かれているので、金沢地方法務局で入手を試みたが、「すでに廃棄」されており、たどりつくことができなかった。

※ 石川県から「金沢陸軍墓地跡求積図」が開示された(2023/6/28)。各辺、対角線の長さが記入され、陸軍墓地を3つに分割(①、②、③)して面積を出し、合計して1万2673.91㎡と記入されている。登記書には、1900(明治33)年に金沢市が所有を登記し、1962年に「墳墓地 12反7畝22歩(約1万2670㎡)を受け付けた」という記載と一致する。
  この図面が陸軍墓地の全体像であり、ロシア兵の墓は陸軍墓地の外に設置されていたことが明らかになった。



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