アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20180426 メモ「東茶屋(郭) 売られし娘(ひと)の 涙染む」

2018年04月30日 | 歴史観
メモ「東茶屋(郭) 売られし娘(ひと)の 涙染む」

 金沢観光がうわべだけの「観光」で集客しています。先日、南米チリーから従姉弟2人と連れあい1人が金沢観光に訪れ、金沢城と兼六園を案内しました。

 金沢城内でお弁当を食べながら、城主・前田が加賀一向宗門徒を殲滅して入城し、農民から収奪して100万石の金沢城(兼六園)を造成したことまでは伝えたのですが、東西の茶屋(廓=くるわ)については説明しがたく、観光をスルーしました。

 私の叔父さんは1920年ごろに南米・チリーに渡りました。今回来日した2人は1931年生まれ(86歳)と1947年生まれ(71歳)で、日本語はまったく話せず、通訳を通しての、もどかしい会話になりました。

 叔父さん家族の苦労は1941年日米開戦で劇的に深刻化しました。日本とチリーは国交を断絶し、1943年1月27日叔父さん家族はペウモ市の農村に強制居住させられました。毎日午前9時と午後6時に警察署に出頭し、サインしなければなりませんでした。叔父さんは農場の夜間警備の仕事で家族を養い、近くに学校がなかったので子どもたちは通学できませんでした。

 1945年9月2日に日本が降伏文書に調印したあと、半年ぐらいで他の日本人は解放されたのですが、叔父さん家族だけは1949年まで、5年間も強制移住が続きました。

 従姉弟たちは「美しい祖国」を期待して里帰りしたのですが、目に映る風景は美しくても、日本のほんとうの姿を見てもらいたいと思いました。叔父さんが生まれた美川町への移動途中、車窓から田植え前の水田が広がるのを見ていた彼らに、わたしははるか遠くに姿を見せる白山から流れ来る水の恵と稲作を説明し、しかしこの水田はかつて前田家に搾り取られた100万石であることを付け加えることを忘れませんでした。

 従姉弟の父(私の叔父さん)が生まれ暮らした美川町に着き、手取川や日本海を眺め、お墓参りをして、それぞれが昔日に思いを馳せながら、短い時間を過ごしました。

 さて、東茶屋(廓)、西茶屋(廓)について、インターネット検索で調べてみました。いくつかヒットし、ブログ「金沢まちゲーション」(2017.7.31)の「特集 金沢にあった遊廓と現在の姿」がもっともまとまっていると思います。また、『石川県史』に記録されている古資料や春日神社のブログも参考になります。

江戸期・加賀藩政期
 江戸期以降の文献で、金沢での売春=買春の歴史を見ると、『石川県史 第二編』の<賣女と頼母子>には「遊女の初めて記録に見えたるは元和六年【注:1620年】に在り…」「堀川…殷盛【注:繁盛】の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。…寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金銀を濫費し…」「犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫を鬻(ひさ)がしむる【注:売春】ものを生じ…」という記載があります。

 加賀藩は売春=買春を管理するために、1820年に犀川左岸(石坂)と浅野川右岸(愛宕)の両地に遊廓設置を許可しました。廓は塀で囲み、この区域への出入り口には木戸を建て、武士僧侶の入廓を禁じ、廓内で働く遊女は無断で外に出ることが禁じられました。
 1831年には風俗の矯正刷新を理由に両廓の営業は停止されました。当時東西の廓には160軒の茶屋があり、芸妓・遊女などは200人を超えていました。

明治期
 1868年には、石坂及び愛宕の遊郭再開を許可しましたが、『東新地細見のれん鏡』によれば、茶屋数は112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録があります。翌1869年、主計町にも遊廓設置許可が下りました。

 1885年には栄町、松ヶ枝町一帯(武蔵が辻周辺)にあった料亭に貸座敷として営業することを許可(北の廓)しましたが、1899年には西の廓の西方(北石坂新町・石坂一ノ小道)に集団移転させました。明治末期には、西の廓には124軒の紅燈の軒が並び、北の廓には10数軒がありました

昭和期以降
 昭和初期には、経済的危機が襲い、人身売買(娘の身売り)が社会問題として深刻化しています。総力戦態勢下では、1941年には芸妓及び茶屋取り締まり規制、1944年には高級料亭及び茶屋貸座敷の営業停止を命令しています。(下記地図はインターネット上から拝借)



 1945年敗戦後、西、北、東の三廓の営業が許可され、石坂遊廓15軒が米軍専用に供されました。このように売春が公認され、1948年に風俗取締施行条例ができても、青線、赤線として闇で売買春がおこなわれていました。1956年売春禁止法公布され、廓は「料亭」へと名称変更し、生き残りをかけました。一方、1960年代、筆者が野町の友人宅を訪問すると、周辺では隠然と売買春がおこなわれていました。

 ざっと、金沢における売春=買春の歴史をなぞってきましたが、現在観光地としてスポットライトが当てられている東の廓(東茶屋)・西の廓(西茶屋)は売買春の現場でした。そこには、数百年にわたって売られゆく娘達の悲哀があり、売りに行く親たちの嘆きがあったはずです。

 十数年前の金沢観光案内地図には「東の廓」と書かれており、まだ歴史を探る手がかりが残されていましたが、最近の案内地図には、「東茶屋」と書かれています。この歴史的事実を消し去って、光の部分だけを見せて、影の部分を捨象していては、真に金沢を理解することにはならないと思います。

<資料1>年表
1603年―江戸幕府成立
1615年~23年(元和年間)―金沢町の荷上場や風呂屋に遊女・湯女(三壺聞書)。<資料2>
1628年(寛永5年)―「金沢街中定書」→風紀を乱す営業禁止。
1631年(寛永8年)―「萬治巳前定書」(風俗に関する法規15条) (加賀藩史料)
1637年(寛永14年)―「慶長以来定書」(士人以下の風俗に関する制限) (加賀藩史料)
1639年(寛永16年)―「慶長以来定書」(風俗に関する取り締まり令) (加賀藩史料)
1670年(寛文年間)―石坂村は家高二件本百姓三人であった。相対請地化の進行により武士・庶民・社寺などが屋敷社殿を構えた。
1804~17年(文化年間)―犀川下川除、観音町坂下、宝円寺裏門坂、母衣町、笹下町などの町家に遊女がいた(金沢俳優伝話)
1811年(文化8年)―石坂村の総件数360件にまで成長した。
1820年(文政3年)―犀川左岸(石坂)と浅野川右岸(愛宕)の両地に遊郭設置を許可
1831年(天保2年)―風俗の矯正刷新を理由に両廓の営業は停止(東西の廓には160軒の茶屋があり、芸妓・遊女等は200人を超えていた)(加賀藩史料)
1833~39年(天保4~10年)―天保の飢饉→国内では至る所で一揆
1846年(弘化3年)―浅野川右岸の郭は「愛宕」(あたご)と名称変更。(加賀藩史料)
1868年(慶応3年)―石坂及び愛宕の遊郭再開を許可(西新地と東新地が誕生)。
         茶屋数112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録。(「東新地細見のれん鏡」)
1869年(明治2年)―浅野川大橋詰め所西方に新たに遊郭設置(主計町)許可
1872年(明治5年)―「芸娼妓解放令」(人身売買禁止)→1879年(明治12年)「貸座敷規則」。
1876年(明治9年)―石坂女紅場規則を制定し、芸妓・娼婦に習字・算術・裁縫を習わせる教習場を設けた。
         「貸座敷、芸妓及び娼婦に関する規則」「売淫罰則」「検黴規則」が制定。
         芸妓と娼妓を明確化…芸妓=芸者(踊り、三味線、笛、太鼓など)。娼妓=遊女。
         娼妓がいる廓は”遊廓”となり、歓楽街化。
1885年(明治18年)―石川県は金沢町の栄町、松ヶ枝町一帯にあった料亭に貸座敷として営業することを許可(北の廓が成立)
1889年(明治22年)―金沢市政へ移行
1896年(明治29年)―金沢市議会において北の廓の移転決定
1899年(明治32年)―「北廓」は北石坂新町・石坂一ノ小道へ集団移転(西の廓はさらに西方に北の廓を設ける)
1901年(明治34年)―「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」に従い営業→昭和初期迄存続。
明治末期以降―西の廓には明確に上町(高級社交場)と下町(庶民の遊楽場)の区別
明治末期―西の廓=石坂町73軒、南石坂町21軒、石坂角場一番丁27軒、石坂角場二番丁3軒の、計124軒の紅燈の軒が並び、
     北の廓を成した北石坂新町に万一桜、大丸桜、扇十屋など10数件があった
大正時代―第1次世界大戦の勃発→特需→成金が廓を賑わわせる→戦後不景気
1923年(大正12年)―関東大震災→金沢の経済界も衰退
1923年(大正12年)―にしの検番所にて芸妓置屋に住む義務教育該当の女児等へ学習義務→野町尋常小学校仮教室。(ターボ教室と俗称)
昭和期―経済界衰退+デフレ政策→人身売買(娘の身売り)が社会問題として深刻化
1941年(昭和16年)―新たな芸妓及び茶屋取り締まり規制。
1944年(昭和19年)―高級料亭及び茶屋貸座敷の営業停止を命令。
1945年(昭和20年)―西、北、東の三廓の営業が許可→石坂遊郭15軒が進駐米軍専用
1946年(昭和21年)―GHQより公娼廃止の覚え書、公認で売春
1948年(昭和23年)―県が風俗取締施行条例(青線、赤線の俗語が使われ始める)
1956年(昭和31年)―売春禁止法公布。西の廓、北の廓→料亭へと名称変更。(西の料亭16軒、北の料亭18軒、芸妓40人前後)
1972年(昭和47年)―北の料亭の灯が消える。

<資料2>『石川県史 第二編』第二章 加賀藩治創始期 第十節 社會種々相 <賣女と頼母子>
 遊女の初めて記録に見えたるは元和六年【注:1620年】に在り。この時淺野川の下流より新川を掘鑿し、石川郡宮腰・大野・粟ヶ崎等より直に物貨を城下に運漕し得べからしめ、因りて之を堀川といひ、その終點を揚場と稱したりしが、附近忽ち殷盛【注:繁盛】の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。是より後寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金銀を濫費し、遊興の資を得んが爲に天狗頼母子の法を案出したりき。是に於いて一攫千金の利を得るものあり。又は恒産を破りて盜賊に變ずるものあり。無頼の青年等亦力士藤繩といふ者を頭首に推し、倉庫を破壞し金品を奪掠せしが、事遂に發覺して刑せられき。藩乃ち此くの如く風紀の紊亂せし理由を、賣色の徒あるに因るとなし、町奉行に命じて之を禁制せしめしに、又犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫を鬻(ひさ)がしむる【注:売春】ものを生じ、藩士中村刑部に屬する足輕の寡婦にして痘痕媽(イモカ)と呼ばれたる者も、亦その娘きちの外多數の婦人を賣女として嫖客【注:遊客=買春客】に接せしめしかば、吏之を知りて風呂屋及び痘痕媽の一族を泉野に於いて磔刑に處したりき。是より後寛永五年八月廿三日附の金澤町中定書には、『一、於二町中一傾城並出合屋堅く御停止之事。一、當町風呂屋遣女之事、妄之作法有レ之に付ては、宿主可レ爲二曲言一事。』と載せ、十四年三月廿五日附の定書にも亦之を繰返して嚴に取締る所ありしに、その弊暫く著しからざるに至れり。

<資料3>『石川県史 第二編』第四章 加賀藩治停頓期 第五節 社會種々相 <遊廓>

 遊女に關する寛永の禁制はこの期に入りても尚廢せられず、寛保三年・明和三年・天明五年等に頻々としてその令を新たにせられしに拘らず、金澤なる淺野川觀音坂・四軒町・寳圓寺裏門坂、或は犀川馬場・笹ヶ町その他所々に賣女ありし外、別に出合屋と稱するものありて婦女を連行宿泊せしむるの風盛に行はれ、士民の良俗を害すること甚だしかりき。卯辰茶屋町の如きも、亦地名によりて夙くこの種の集窟たりしを知るべく、堀樗庵の著越廼白波に寳暦の頃の淺野川母衣町の事情を記して、『其ほとりは風景の青樓多く、城下の目さへ忍ぶの里もの多くかくし、表に蕩子の魂をうごかし、晝夜入ひたる人多し。』といへり。又侠客綿津屋政右衞門の自記に、觀音坂下に座敷女のありたることを記したるが、同じ條に、當時種々の異變ありし内第一大地震にて黒津船の神主が龍宮に引き込まれしことありといひて、その地震は寛政十一年五月二十六日のものを指すが故に、座敷女の存在したるも亦寛政の頃のことなりとすべし。かくて賣女は公然の秘密として行はれたりしかば、文政三年町奉行山崎頼母範侃等は、寧ろ之に許可を與へて監督を嚴にし、困窮に堪へざる子女をして生活を得しむるを策の得たるものなりとし、三月二十五日藩侯齊廣の許可を得、四月四日の令に依りて淺野川卯辰・犀川石坂の兩所に區域を限定して青樓を密集せしめ、一を舊によりて卯辰茶屋町といふに對し一を石坂新地と呼べり。その後者は九月十一日、前者は十月十一日營業を開始す。是に於いて兩遊廓の繁榮日に加はりしが、殊に卯辰茶屋町は絃歌の聲晝夜を分かたざるに至りたりき。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20180407 韓国ろうそくデモ... | トップ | 20180504 野田山加洲藩士の... »
最新の画像もっと見る

歴史観」カテゴリの最新記事