アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20110820 石川県立美術館裏の公園について

2011年08月20日 | 歴史観(聖戦大碑)
 大東亜聖戦大碑が建てられてから10年以上が過ぎた。先日、石川県立美術館へ北斎を見に行ったとき、裏手に回ってみた。10年前とは様変わりしていた。足の裏に土を感じた素朴な遊歩道が、硬質なアスファルトに変わり、遊歩道沿いの照明灯、木製デッキと美しい公園の様相を見せていた。(写真)

 10年前を思い出してほしい。美術館の裏(3000㎡)がなぜ「都市公園」になったのかを。
 2000年夏に、侵略戦争を賛美する聖戦大碑が除幕され、石川護国神社境内は私有地だからどうにもならないと、私たちは地団駄を踏んでいた。聖戦大碑の建設場所が都市公園であることを突きとめ、一気に石川県の責任追及が始まった。

 石川県(緑地公園課)が管理する都市公園(本多の森公園)に侵略戦争を賛美する大東亜聖戦大碑建設の許可を与えた責任が追及され、中島土木部長が更迭され、石川県知事は苦肉の策として、石川護国神社境内地の公園指定を解除し、その代替地として県立美術館の裏を公園に指定したのだ。手品のように、石川県の行政責任をナシにしたのである。

 むちゃくちゃな話が通ったのである。藤井県議が激しく追及し、保守系の宇野県議も「聖戦大碑が建った…どう解決したというと、地面を護国神社に返したということで決着をしているように見えるが、実態は何も解決していない」「法律上問題があるとかないとかということではなくて、道義的とか責任問題上、それでいいのか」「護国神社が、突然返してくれといったって、それはちょっと待ってくださいと…今の対応というのは…本筋から離れているんではなかろうか」と、納得しなかった。

 それから10年、昨年は副碑が建てられ護国神社境内はさながら戦時中の様相を呈している。もともと、金沢城内、本多の森には軍事施設が集中していた。今も、本多の森には第九師団指令部庁舎、第九師団長官舎、陸軍偕行社、陸軍兵器庫などの建物が残されている。美術館裏手には2700万円もかけて、遊歩道、照明、木製デッキが整備され、市民の散策を待っている。ここで瞑想すべきは、第九師団によって踏みにじられたアジアの民のことであろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史修正主義『八田与一物語... | トップ | 金沢ふるさと偉人館について »
最新の画像もっと見る

歴史観(聖戦大碑)」カテゴリの最新記事