20230316 大東亜聖戦大碑問題資料集(1)より
聖戦大碑の建設計画を知ったのは、1998年7月のことだった。中村信さんが北国新聞の切り抜きを持って会いに来たのだ。こんなもの許してはおけんということだった。すぐにチラシを作り、機会あるごとに配布してきたが、反応は鈍く、2000年8月に建てられてしまった。
その姿を見て、多くの人は驚き、撤去の必要性を説いたが、時既に遅しの状況だった。その後、建立地が石川県が管理する出羽町公園であることがわかり、その矛先は県に向けられた。県は許認可の責任を居直り、管理権を護国神社に戻すことによって、遂にうやむやにしてしまった。
すでに20年以上が過ぎたが、戦争のきな臭い匂いがたちはじめており、戦争を賛美する聖戦大碑について、今再び注目しておかねばならないのではないかとの思いで、当時配布した2冊の資料集のなかから一部を抜粋して添付することにした。
<碑文>
<中村信さん>
<竹内伊知さん>
<竹中正利さん>
<李鎮哲さん>
<2001年4月1日「ハンギョレ」>
<事務局「公共の福祉論」>
<公園緑地課交渉>
<1998年聖戦大碑建設計画>
聖戦大碑の建設計画を知ったのは、1998年7月のことだった。中村信さんが北国新聞の切り抜きを持って会いに来たのだ。こんなもの許してはおけんということだった。すぐにチラシを作り、機会あるごとに配布してきたが、反応は鈍く、2000年8月に建てられてしまった。
その姿を見て、多くの人は驚き、撤去の必要性を説いたが、時既に遅しの状況だった。その後、建立地が石川県が管理する出羽町公園であることがわかり、その矛先は県に向けられた。県は許認可の責任を居直り、管理権を護国神社に戻すことによって、遂にうやむやにしてしまった。
すでに20年以上が過ぎたが、戦争のきな臭い匂いがたちはじめており、戦争を賛美する聖戦大碑について、今再び注目しておかねばならないのではないかとの思いで、当時配布した2冊の資料集のなかから一部を抜粋して添付することにした。
<碑文>
<中村信さん>
<竹内伊知さん>
<竹中正利さん>
<李鎮哲さん>
<2001年4月1日「ハンギョレ」>
<事務局「公共の福祉論」>
<公園緑地課交渉>
<1998年聖戦大碑建設計画>