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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20190312 泉鏡花 『妖剣紀聞』について考える

2019年03月12日 | 島田清次郎と石川の作家
泉鏡花『妖剣紀聞』について考える

 とある会合で、泉鏡花の『妖剣紀聞』(1920年)についての学習会があり、その後、ちょっと、いや、かなり気になって、『鏡花全集別巻』を借りてきて、『妖剣紀聞』全文を読みました。いくつか気になることがあり、整理しています。辞書によると、「紀聞」とは「聞いた事を書くこと。聞き書き」とあります。
 文中には身分などに関する卑称・賎称を用いていますが、歴史的用語として使用するものであり、差別を認容する意図はありません。

初代「」清光について
 インターネット調査によれば、初代「」清光・長兵衛の俗名は高松清三郎といい、延宝(1673~81)年代の加賀の刀工で、貞享4年(1687年)に没しています。加州清光の初代は泉村の小次郎(1450年没)で、高松清三郎は六代目にあたります。

 六代目加洲清光=初代「」清光は寛文(1661~)飢饉の影響や、刀の需要低下により生活に窮し、加賀藩の救済措置である笠舞村(現金沢市笠舞)の「小屋」にいたことからこの名で呼ばれました。

 貞享4年11月の『小屋裁許』の上申書によると、長兵衛(高松清三郎)が初めて「小屋」に収容されたのは寛文の末あるいは延宝の初年(1673年)とされ、その時は息子の長右衛門(第2代「」清光)及び弟の八兵衛と共に、「小屋」で刀鍛冶をしていました。このあと親子三代にわたり「小屋」に収容されたり、出たりしていたようです。

17世紀の「小屋」
 丸本由美子著『加賀藩救恤考―小屋の成立と限界』によれば、

 <17世紀の加賀藩では「」は困窮者一般、あるいは飢饉で食い詰め、家を捨てて浮浪する飢人たちを指した言葉です。…加賀藩で製作を行った刀鍛冶に清光という一族があり、代々優れた技術を受け継いでいたと伝わるが、六代目長兵衛、七代長右衛門、八代長兵衛はいずれも困窮を理由として一家こぞって小屋に入り、そこで刀剣の製作を行っている。六代長兵衛の小屋入所期間が貞享年間(1684~87)のことである。彼らは「清光」と通称されているが、上述のとおり、身分上のではない。この通称は「小屋に入っている清光」を意味している。…このように、小屋創設当時の「」は必ずしも身分名称ではなかった>(7~8ページ)と書かれています。

 初代「」清光(~1687年没)が活躍していた時期(延宝年代1673~81=加賀藩政の初期)は未だ差別政策が確立しておらず、当時の農民にとっては、「小屋」に住む貧民という認識であり、被差別民にも同情的であり、高松清三郎が「」と自称することができたのではないでしょうか。

18世紀の「小屋」
 続けて丸本さんは、<しかし、この語義は次第に変化を遂げる。身分名称の意味合いが比重を増し、「」は賤視の対象となっていく。そして、それに伴って「小屋」もまた利用者である庶民らには忌避すべきものと化していった。身分意識に基づくスティグマ(注:他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象・烙印)による小屋の機能不全が明確に確認できるのは、18世紀の後半以降である。天保飢饉の際には、困窮者を収容・加療する施設が新規に作られ、これを「御救小屋」と称した。先行して同種の施設が存在するにもかかわらず別の名称が付されたことは、差別の存在と無関係ではないであろう>(8ページ)と述べています。

 このころになると、加賀藩の「藤内」にたいする政策は転換され、1723年には、「(「藤内」は)人躰ニ似セ奢申」、1776年には、「元来人外ノ者」「平人エ交リ候筋合ノ者ニ而ハ無御座(者)」などと通達し、1800年には「平人との通行」を禁止し、農民と被差別民との対立・分断を激化させています(田中喜男著『近世の史的研究』)。

 とくに、天保期(1830~44年)には、藩財政の危機が進行し、村方・町方とも疲弊し、物価が高騰し、農民層が分解し、都市に流入して下層民が増大しました。米屋や富豪を襲う打ち壊しが起き、加賀藩は「藤内」に刑政・警察的役目を負わせることによって、農民は被差別民衆を嫌悪と恐怖の目で見るようになりました。

時代設定について
 さて、『妖剣紀聞』には「時は寛政の五年卯(4)月七日のことなのであります」(64ページ)と書かれ、それは1793年のことであり、初代「」清光が活動していた時代(延宝年代1673~81)から100年以上後のことになります。

 泉鏡花はなぜ、17世紀半ばの初代「」清光の伝承を、100年も後の「寛政の五年卯月七日」(1793年)に設定したのでしょうか? 鏡花は18世紀末の厳しい差別(「人躰ニ似セ奢申」「元来人外ノ者」「平人との通行禁止」など)のもとで、被差別民(鳥追い)が自殺に追い込まれるという物語を設定したかったのではないでしょうか?

 『問題文芸素描』(2002年)によれば、鏡花の時代も、明治維新後の解放令とは裏腹に、1884年華族令で近代天皇制国家秩序=差別が再生産され、1888年町村制公布によって、地主層の地域支配が強化され、差別が固定化・強化されていた時代でもあります。

差別がお町を殺した
 鳥追いお町から杜若(かきつばた)を受け取った清三郎は玄之進から「御身が汚れる」「汚らはしい、出世前だ」と非難され、清三郎は反射的に杜若を棄てました。このような差別を目の当たりにした鳥追いお町は、「私は恋の叶へたさに張切れさうな乳を裂いても、濁った血を洗はう」と、自らの出自に苦しみながら入水し身を切ります。

 鏡花は「」清光の伝承に基づいて作品の構想を立てているわけですから、清三郎が「小屋」の人として、差別されることの痛みに敏感であり、鳥追いお町とは心が通じる間柄であることは前提でしょう。

 清三郎に助けられたお町は清三郎の腕のなかで、死の間際に「貴方はあの杜若を、すぐにお棄てなさいました」と、言葉を濁さずに、はっきりと糾弾し、これを受けて清三郎は「高松清三郎一生の過失 堪忍して下さい、娘(おねえ)さん」と、即座に、真摯に謝罪しているところは、鏡花の差別を容認しない意志を感じ、読者の共感を得たと思います。

 大塚玄之進からの「御身が汚れる」「汚らはしい、出世前だ」という差別的非難は清三郎自身をも突き刺しており、鏡花は清三郎の側に立ち、お町との再会(偶然)を設定して、清三郎の意志(謝罪)を明確にし、さらにお町の胸から流れ出る血を飲み込むことによって、身も心も鳥追いお町との一体化、すなわち「民宣言」を鮮明にさせて、被差別民が胸を張って生きるべきことを示唆したのだと思いました。

注:鳥追いとは、江戸時代の年始に、の女太夫が新服をつけ編笠をかぶり、鳥追歌を唄い、三味線を弾き、人家の門に立って合力(金銭や物品を恵み与えること)を乞うたもの(『広辞苑』)。

『破戒』から『地上』へ
 住田利夫の『問題文芸素描』によると、鏡花には1896年の『龍潭譚』、1897年の『化鳥』、1898年の『蛇くひ』『山僧』など、被差別民を対象化した作品があります(私は何れもよんでいません)。住田利夫はこれらの作品を「鏡花には<賤>にたいする差別意識はなかった」と評していますが、その評論を読むかぎりで、作品は上から見る同情的視点のようです。

 その後1906年の『破戒』(島崎藤村)、1907年の『駅夫日記』(白柳秀湖)、1913年の『いたづらもの』(村上浪六)、1920年ごろの『の親子』(麻生久)、そして1920年の『妖剣紀聞』(泉鏡花)へと、差別をテーマにした作品が書かれていますが、そこにはまだたたかう民は登場していません。

 『破戒』発行から全国結成までの出来事を、解放同盟ホームページ上の「問題資料室」の年表で見ると、次の通り、被差別民衆のたたかいが始まっています。
 1906年 島崎藤村著「破戒」出版
 1912年 大和同志会創立、機関誌「明治之光」創刊
 1917年 奈良県洞の強制移転決定
 1918年 米騒動に大衆多数参加
 1921年 奈良県柏原に創立事務所設置、
 1921年 松本治一郎ら筑前叫革団を組織し、黒田三百年祭募金の反対闘争展開
 1922年 創立趣意書「よき日のために」発刊、全国創立大会(京都)

 『破戒』、『妖剣紀聞』では、理不尽な差別への批判までですが、一歩踏み出して、被差別民衆が自己解放の主体へと成長していく姿を、端緒的に描いたのが、翌1921年に出版された『地上』第3部です。島田清次郎は「少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××××が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ」(61ページ)と、差別に立ち向かう被差別民衆の姿を力強く描いています。

 しかし、住田利夫は全国結成直前の『妖剣紀聞』(1920年)も、『地上』第3部(1921年)も、『問題文芸素描』の対象とはせず、完全に無視しました。

剣の鍛を神会
 「湧出づる胸の血を、口にうけうけ、呷々々々(ぐぐぐぐ)とばかり飲みました」「血のかたまりを吸ひました」と、鳥追いお町と一体化した清三郎は、「此時、…剣の鍛(きたえ)を神会」して、物語はおわります。

 「鏡花世界における技と芸―『妖剣紀聞』論」(『文学』1983年)で、平野栄久は「『剣の鍛を神会』が作品のもっとも大きなテーマ」と書いていますが、だとすると、差別され絶望に追いつめられた鳥追いお町の苦悩と死はどうなるのでしょうか。

 正直なところ、私にはお町との一体化(永遠化)から「剣の鍛を神会」するに至る必然性が理解できません。鏡花は、『妖剣紀聞』を差別をテーマにした“社会小説”として展開しながら、突然に“神秘主義”へと舞い戻っているのではないでしょうか。あたかも、民主主義(合理主義)に天皇制が接ぎ木されているかのようです。

 差別する武士、差別される鳥追いの死、「」清光の謝罪と許しこそが本書のモチーフであり、読者が昂奮しながら読み進めており、したがって、「剣の鍛を神会」は蛇足であり、書かずもがなのところだと思いました。


参考文献
 泉鏡花著『妖剣紀聞』(1920年)
 島田清次郎著『地上』第3部(1921年)
 田中喜男著『近世の史的研究』(1979年)
 住田利夫著『問題文芸素描』(2002年)
 丸本由美子著『加賀藩救恤考―小屋の成立と限界』(2016年)

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