八田与一がダムをつくった頃の農民の実状はどうだったか。嘉南大圳などで、甘蔗栽培がおこなわれたが、その農地はどのようにして製糖資本のものになっていったのか。小説『新聞配達夫』の一節を転載する。八田与一に関心のある方々の一読をおすすめする。
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『新聞配達夫』(楊逵著 1934年 「<外地>の日本文学選」)
数年前、私の村の××製糖会社が農場を開設するというので、盛んに土地の買収をしようと活動した。勿論、始めのうちは、誰も応じようとはしなかった。自分の生命のように、大事にしてきた耕地だからである。…二三日するうちに、警察の方から、家長会議を開催する由の通達が…村の各戸に漏れなく伝えられた。おまけに「印章を携帯せよ」と書き加えられてあったのだ。
「…会社の今度の計画は徹頭徹尾、村のために考えたことである。…今お前達が会社に土地を売る…しかも高い値で売る、そうして会社がこの村に模範的な農場を建設する。そうすると、この村は段々に発展していく。」
「皆印章を出しなさい。今度名前を呼ばれた人は、印章を持ってきて押せば、帰ってよろしい」と村長が説明してから呼んだのが、私の父だった。
父は落ち着いて出て行った。村長の前に出ると破鐘を打つような声で、「私は売ることは出来ませんから、印章を持って来ません!」とキッパリ言い切った。…父は黙々として立っていた。「引張って行け! この×××××奴!」…一つ擲りつけてからこう命ずると、…。(×××××は差別語)
これを見た村の衆は、いよいよ怖けついてしまって、村長の命ずるままに、印を押すと、後をも顧みないで帰って行くのが多かった。皆が出てしまうまで、父と同じ決心を持って拒絶したのが、皆で五人そして何れも父と同じように…分室に引張られて行った。…
六日目に父は帰ってきたが、彼もまた、非常な変り方で、均整のとれた父の顔は、ゆがんでしまって、片方の頬はひどく腫れ上がり、目はつき出てしまって、額はこぶだらけであった。着物はボロボロになってしまって、それを着換える時私は父の身体を見て吃驚してしまって、大きな声でこう叫んだほどであった。「おお! 父ちゃんの身体は鹿のようになっている…」
こうして父が…分室から帰って来ると、机の上に叩きつけた六百円は、父の病気、母の病気、それから、父の葬式等で、殆んど消えてしまって、母の具合が少しよくなった頃には、牛や農具を売って食わねばならなくなっていた。
この惨状は、私一家だけではなかった。父と一緒に…分室に引っ張られた五人は、皆、同じこの運命に会ったし、黙々と印章を押してやった人たちも、耕す田を失って、月に三日乃至五日間位、製糖会社農場の苦力として、一日十二時間働いて、四十銭位にありつくのがせいぜいで、…「村の発展」とは反対に、今頃では「村の離散」になってしまっているのであった。
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『新聞配達夫』(楊逵著 1934年 「<外地>の日本文学選」)
数年前、私の村の××製糖会社が農場を開設するというので、盛んに土地の買収をしようと活動した。勿論、始めのうちは、誰も応じようとはしなかった。自分の生命のように、大事にしてきた耕地だからである。…二三日するうちに、警察の方から、家長会議を開催する由の通達が…村の各戸に漏れなく伝えられた。おまけに「印章を携帯せよ」と書き加えられてあったのだ。
「…会社の今度の計画は徹頭徹尾、村のために考えたことである。…今お前達が会社に土地を売る…しかも高い値で売る、そうして会社がこの村に模範的な農場を建設する。そうすると、この村は段々に発展していく。」
「皆印章を出しなさい。今度名前を呼ばれた人は、印章を持ってきて押せば、帰ってよろしい」と村長が説明してから呼んだのが、私の父だった。
父は落ち着いて出て行った。村長の前に出ると破鐘を打つような声で、「私は売ることは出来ませんから、印章を持って来ません!」とキッパリ言い切った。…父は黙々として立っていた。「引張って行け! この×××××奴!」…一つ擲りつけてからこう命ずると、…。(×××××は差別語)
これを見た村の衆は、いよいよ怖けついてしまって、村長の命ずるままに、印を押すと、後をも顧みないで帰って行くのが多かった。皆が出てしまうまで、父と同じ決心を持って拒絶したのが、皆で五人そして何れも父と同じように…分室に引張られて行った。…
六日目に父は帰ってきたが、彼もまた、非常な変り方で、均整のとれた父の顔は、ゆがんでしまって、片方の頬はひどく腫れ上がり、目はつき出てしまって、額はこぶだらけであった。着物はボロボロになってしまって、それを着換える時私は父の身体を見て吃驚してしまって、大きな声でこう叫んだほどであった。「おお! 父ちゃんの身体は鹿のようになっている…」
こうして父が…分室から帰って来ると、机の上に叩きつけた六百円は、父の病気、母の病気、それから、父の葬式等で、殆んど消えてしまって、母の具合が少しよくなった頃には、牛や農具を売って食わねばならなくなっていた。
この惨状は、私一家だけではなかった。父と一緒に…分室に引っ張られた五人は、皆、同じこの運命に会ったし、黙々と印章を押してやった人たちも、耕す田を失って、月に三日乃至五日間位、製糖会社農場の苦力として、一日十二時間働いて、四十銭位にありつくのがせいぜいで、…「村の発展」とは反対に、今頃では「村の離散」になってしまっているのであった。