引き継ぐべきは「良妻賢母」か、「婦選運動」か
「かなざわ偉人物語」の候補に挙がっている加藤セムについて調べてみました。石川県内の図書館検索では①「金沢偉人物語3」、②「石川県人名辞典 現代3」、③「石川県産業功労碑集」がヒットしました。その他、④「石川の女性史」、⑤「紅 ひとつ(駒井志づ子の歩んだ道)」が参考になりました。
加藤セムについては、「金沢偉人物語3」がいちばん詳しく、それによれば、加藤セムは1869年に石川郡柏野村に生まれ、1891年(22歳)に、尋常師範を卒業し、美川小学校の教員になりました。結婚後、1904年(35歳)に夫と共に遊学館(後の金城学園)を創設し、『良妻賢母』『率先垂範』の人創りを掲げて学校運営をおこない、1931年(62歳)に校長に就任したと記されています。
加藤セムは明治・大正・昭和にかけて、女性として学校教育に携わりながら、その間に日本(金沢)で巻き起こっている婦人運動にどのような関心を持ち、どのようにかかわっていたのかは、「金沢偉人物語3」などでは、窺い知ることができませんでした。また、「石川の女性史」戦前編には加藤セムの名前すらなく、女性史編集者からはまったく評価されていません。
石川県の女性運動は、大正末期に、鈴木ときわが「新婦人協会」に参加し、1929年(昭和4年)11月には婦選獲得同盟金沢支部が結成され、米山久子(座長)、駒井志づ子(支部長)、芳賀富美、鈴木ときわ(幹事)ら16人が参加しています。
その時の決議は①第56帝国議会が婦人公民権を否決したことを弾劾し、②金沢市議会議員選挙を公正におこなうよう、女性の立場から要求していました。
米山久子は当時の状況を「新しい大正時代の女子教育を受けていても、いざ結婚すると、男女の差別はひどいものだった。嫁としての立場は容易ならぬ厳しさであり、忍従と過労の毎日だった。…生まれた子が女児だと知るや父親は「またかァ」とふすまの間からちょっと覗いただけだった。…この罪もない子供たちのために、社会の誤った習慣や偏見をなくし、女性のために一切の不合理を是正しなくてはならないと思った」と述懐しています。
この年の6月には金沢で「婦人講演会」が開催され、男子の入場を許さず、700人の女性であふれました。9月には大聖寺(130人)、小松(200人)でも講演会が開催されました。女性の期待が大きかったのだと思います。(この時期の加藤セムは60歳で、校長に就任する2年前であり、バリバリの現役「教育者」です。)
婦選獲得運動には男性からさまざまな批判と妨害があり、これに対して、駒井志づ子は「婦人啓蒙運動!あちらの隅からも、こちらの隅からも、私たちの心を刺激する強い叫びが聞こえてきます」「私たちは単なる趣味や面白さでこの運動を続けているのではありません。人の世に生まれ、女なるが故に選挙権も与えられないのが口惜しい」「私たち女性は今、扉の中に閉じこめられています。法の不備、低い教育、激しい労働に苦しめられて、私共はかわいい子供ぐるみ共倒れになりそうです。…私たちは早くこの扉を開いて出なければなりません。私たちはこの扉の鍵を手に入れなければなりません。鍵を手に入れることに働くのが-即ち婦選運動です」と訴えています。
翌年1930年には、北陸婦選大会(議長:米山、副議長:金子)が開催され、このあたりが石川県での婦選運動の頂点だったようです。その後、女性運動は「銃後の守り」へと転向を余儀なくされ、1940年には婦選獲得同盟は解散しました。その後、大日本婦人会、婦人国防会、大日本国防婦人会へと戦争翼賛体制に女性が組織されていきます。
駒井志づ子は「私は官制団体なるものを好まず、独自の立場から婦人の啓蒙を叫んできた。…英国のハンガーストの如く獄窓に入って尚ハンストをやるくらいの突き詰めた気持ちがなければ、社会運動なんてやれるものではない。…我々の運動はあるときは市役所へ対して要求し、お気に召さぬ事を言わねばならぬ場合はたくさんある。そんな時において言論と行動の自由を欲するために私はどこまでも野党的立場で行きたい。…現在は婦人の固い殻が破れたに過ぎぬ。核心に触れるまで我々の運動は相当の年月を要することであろう」と、苦しかった当時を振り返っています。
戦後、日本国憲法が施行され、女性は参政権を獲得し、1926年の衆議院議員選挙では米山久子が当選し、1951年の石川県議会議員選挙では駒井志づ子が当選しました。戦時下では沈黙させられたものの、大正末期から昭和初期にかけて、婦選運動を担っていた女性達が、戦後、女性の政治的権利を切り開いたのです。婦選運動に携わった女性達の苦闘を記憶し、今日に引き継がなければならないのではないでしょうか。
「金沢ふるさと人物伝」を編集するにあたって、女性の権利をめざして苦闘していた米山久子や駒井志づ子を除外し、武家社会の名残である「良妻賢母」の人創りをめざした加藤セムを選択することは、どうしても理解できません。編集方針の再検討が必要です。
「かなざわ偉人物語」の候補に挙がっている加藤セムについて調べてみました。石川県内の図書館検索では①「金沢偉人物語3」、②「石川県人名辞典 現代3」、③「石川県産業功労碑集」がヒットしました。その他、④「石川の女性史」、⑤「紅 ひとつ(駒井志づ子の歩んだ道)」が参考になりました。
加藤セムについては、「金沢偉人物語3」がいちばん詳しく、それによれば、加藤セムは1869年に石川郡柏野村に生まれ、1891年(22歳)に、尋常師範を卒業し、美川小学校の教員になりました。結婚後、1904年(35歳)に夫と共に遊学館(後の金城学園)を創設し、『良妻賢母』『率先垂範』の人創りを掲げて学校運営をおこない、1931年(62歳)に校長に就任したと記されています。
加藤セムは明治・大正・昭和にかけて、女性として学校教育に携わりながら、その間に日本(金沢)で巻き起こっている婦人運動にどのような関心を持ち、どのようにかかわっていたのかは、「金沢偉人物語3」などでは、窺い知ることができませんでした。また、「石川の女性史」戦前編には加藤セムの名前すらなく、女性史編集者からはまったく評価されていません。
石川県の女性運動は、大正末期に、鈴木ときわが「新婦人協会」に参加し、1929年(昭和4年)11月には婦選獲得同盟金沢支部が結成され、米山久子(座長)、駒井志づ子(支部長)、芳賀富美、鈴木ときわ(幹事)ら16人が参加しています。
その時の決議は①第56帝国議会が婦人公民権を否決したことを弾劾し、②金沢市議会議員選挙を公正におこなうよう、女性の立場から要求していました。
米山久子は当時の状況を「新しい大正時代の女子教育を受けていても、いざ結婚すると、男女の差別はひどいものだった。嫁としての立場は容易ならぬ厳しさであり、忍従と過労の毎日だった。…生まれた子が女児だと知るや父親は「またかァ」とふすまの間からちょっと覗いただけだった。…この罪もない子供たちのために、社会の誤った習慣や偏見をなくし、女性のために一切の不合理を是正しなくてはならないと思った」と述懐しています。
この年の6月には金沢で「婦人講演会」が開催され、男子の入場を許さず、700人の女性であふれました。9月には大聖寺(130人)、小松(200人)でも講演会が開催されました。女性の期待が大きかったのだと思います。(この時期の加藤セムは60歳で、校長に就任する2年前であり、バリバリの現役「教育者」です。)
婦選獲得運動には男性からさまざまな批判と妨害があり、これに対して、駒井志づ子は「婦人啓蒙運動!あちらの隅からも、こちらの隅からも、私たちの心を刺激する強い叫びが聞こえてきます」「私たちは単なる趣味や面白さでこの運動を続けているのではありません。人の世に生まれ、女なるが故に選挙権も与えられないのが口惜しい」「私たち女性は今、扉の中に閉じこめられています。法の不備、低い教育、激しい労働に苦しめられて、私共はかわいい子供ぐるみ共倒れになりそうです。…私たちは早くこの扉を開いて出なければなりません。私たちはこの扉の鍵を手に入れなければなりません。鍵を手に入れることに働くのが-即ち婦選運動です」と訴えています。
翌年1930年には、北陸婦選大会(議長:米山、副議長:金子)が開催され、このあたりが石川県での婦選運動の頂点だったようです。その後、女性運動は「銃後の守り」へと転向を余儀なくされ、1940年には婦選獲得同盟は解散しました。その後、大日本婦人会、婦人国防会、大日本国防婦人会へと戦争翼賛体制に女性が組織されていきます。
駒井志づ子は「私は官制団体なるものを好まず、独自の立場から婦人の啓蒙を叫んできた。…英国のハンガーストの如く獄窓に入って尚ハンストをやるくらいの突き詰めた気持ちがなければ、社会運動なんてやれるものではない。…我々の運動はあるときは市役所へ対して要求し、お気に召さぬ事を言わねばならぬ場合はたくさんある。そんな時において言論と行動の自由を欲するために私はどこまでも野党的立場で行きたい。…現在は婦人の固い殻が破れたに過ぎぬ。核心に触れるまで我々の運動は相当の年月を要することであろう」と、苦しかった当時を振り返っています。
戦後、日本国憲法が施行され、女性は参政権を獲得し、1926年の衆議院議員選挙では米山久子が当選し、1951年の石川県議会議員選挙では駒井志づ子が当選しました。戦時下では沈黙させられたものの、大正末期から昭和初期にかけて、婦選運動を担っていた女性達が、戦後、女性の政治的権利を切り開いたのです。婦選運動に携わった女性達の苦闘を記憶し、今日に引き継がなければならないのではないでしょうか。
「金沢ふるさと人物伝」を編集するにあたって、女性の権利をめざして苦闘していた米山久子や駒井志づ子を除外し、武家社会の名残である「良妻賢母」の人創りをめざした加藤セムを選択することは、どうしても理解できません。編集方針の再検討が必要です。