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小松基地問題研究会

20230810『黒三ダムと朝鮮人労働者』を読む

2023年08月14日 | 歴史観
20230814『黒三ダムと朝鮮人労働者』(堀江節子著2023年)を読む

 30年前に、『黒部 底方の声』(1992年)を読み、事実経過はおぼろげながら記憶に残っており、とりあえず、第4章「上書きされる加害の歴史」から読み始めた。

朝鮮人戦時動員
 さて、本書の標題は「黒三ダムと朝鮮人」から「黒三ダムと朝鮮人労働者」へと変えられ、焦点を黒三ダム建設に動員された朝鮮人労働者に当てている。著者は「私は私で、朝鮮人労働者たちを墓場から掘り出そうとしている。墓場から現在に連れてきて、対話したい」(213頁)と、まずは聞くことからはじめている。同感である。
 1910年朝鮮併合・土地調査(農地強奪)政策によって、生きる場を失った朝鮮人が日本本土や満州(中国東北部)などに流れ着き、最底辺労働者としての生活を余儀なくされていた。渡日であろうが、募集であろうが、官斡旋であろうが、徴用であろうが、朝鮮での生産関係を破壊しておいて、出国せざるを得ない状況を生みだしていたことこそが本質であり、強制連行・強制労働以外の何物でもなかった。
 その結果、多数の朝鮮人が不本意な生活と死を強いられていたのであり、その声をこそ今日に甦らせねばならないのではないだろうか。本書の命はそこにこそある。

金泰景と黒部ダムについて
 著者の問題意識は、黒三ダムにおける朝鮮人労働者、とりわけ金泰景さんにあるので、その流れを確認するために、年表を作成しながら読んだ。
<年表>
1899年 金泰景出生(147頁)
1920年代 金泰景渡日、神通川水系で発電所工事(116頁)→その後黒部→黒三工事
1924年 細入村蟹寺(神通川)で「相愛会富山県支部」結成(88頁、147頁)―支部長:金泰文
1925年 「相愛会富山支部」→「北陸朝鮮労働組合」結成(89頁、147頁)
     蟹寺発電所完成(労働者解雇)(90頁)
1926年 黒一発電所(柳河原)工事(82頁)
1927年 「富山白衣労働組合信友会」結成(91頁)―委員長:金泰文(147頁には友愛会?)
     黒部・大谷でホウ(泡)雪崩→35人死亡(32頁、200頁)
1928年 「信友会」解散→「北陸朝鮮労働組合」結成(92頁)―委員長:金泰文
1931年 第1回富山メーデー(200人以上、金沢では1921年)
1933年 黒二発電所着工→1936年10月完成・営業運転(24頁)
1934年 「富山内鮮労働親愛会」結成(100頁)←内鮮融和をモットー(権次植、鄭岩面ら)
1936年 金泰景(1938年まで拘束)ら19人検挙→「親愛会」は壊滅(103頁)
1936年9月 黒三発電所着工(24頁→31頁には1937年5月)
    →1940年完成までの4年間で300人以上(佐藤組233人)の死者(29頁)
1937年 「呂野用(よ やよん)さんの墓」(1937/10/9死亡 朝鮮慶北大邱明治町)(64頁)
1938年3月 金泰景出所→4月高熱隧道着手(いつ完成か?)(109頁)
1938年12月 黒部・志合谷冬営飯場にホウ(泡)雪崩→84人以上(朝鮮人39人)死亡(33頁、40頁)
    →3日後に天皇より「御内幣金(ごないどきん)」の発表(38頁)→工事中止を阻止
1940年1月 黒部・阿曽原ホウ(泡)雪崩→28人(朝鮮人17人)死亡(27頁、43頁)
1940年12月 富山県協和会設立
1940年 金泰景、佐藤組の子会社設立(117頁、131頁、144頁)、
1945年11月 金泰景、済州島に戻る(126頁)→「親日」を理由に逮捕(128頁)
1948年12月 逮捕→軍法会議→内乱罪で1年の刑→1949年11月出所
1966年 金泰景死(67歳)

天皇の責任
 黒部川ダム建設と事故の過程を整理すると、1926年に黒一ダム(柳河原)、1933年に黒二ダムが着工(1936年完成)、1936年に黒三ダムが着工(1940年完成)された。1932年には中国侵略戦争が始まっており、関西方面の軍事生産を支える電力を産みだすための突貫工事であった。
 工事現場は立山のふもとで、1年のうち5ヶ月は雪に閉ざされた地域であり、1927年に黒部川・大谷でホウ雪崩が発生して、35人も死亡する事故がありながら、1936年に着工された黒三ダム工事は冬期間も冬営(軍隊などが陣営を張って冬を越すこと)し、休まずに工事を強行していた。その結果1938年12月志合谷冬営飯場をホウ雪崩が襲い、84人が死亡した(朝鮮人39人)。
 このダム工事を中断させないために、天皇は「御内幣金(ごないどきん)」を出し、批判の口を封じ、工事は継続され、1940年1月には、阿曽原ホウ(泡)雪崩が発生し、28人の労働者(朝鮮人17人)が死亡した。富山県警部長は「この惨事があったからといって冬営工事は中止させない。発電は大きな国策」「さらに工事に拍車をかけさせる予定である」(44頁)と豪語している。

金泰景さんの場合
 著者は「金泰景さんの戦後の物語を書かなければこの本は完成しない」(220頁)と記し、追跡しているが、あまりにも素情報が少ないようだ。
 金さんは1920年代、裸一貫で富山に渡り、黒部川などの電源開発の工事現場で働き、「相愛会」(1924年)、「信友会」(1927年)の過程は身を粉にして朝鮮人同僚のために働いていたと思われるが、一定の時期からは、佐藤組との関係が深まり、飯場頭に取り立てられ、1938年には高熱隧道工事を任され、朝鮮人労働者のまとめ役として、会社のために働く側面が強くなっていったのではないだろうか。
 内鮮融和を掲げる「富山内鮮労働親愛会」が結成(1934年)され、1936年には金さんら19人が検挙され、1938年まで拘束が続いていたが、この拘束過程はおそらく脅迫と拷問の長い時間であり、釈放と引き替えに高熱隧道(1938年4月着工→12月志合谷ホウ雪崩)の責任者としての役割が強いられたのではないだろうか。そして、その功労と能力からだろうが、1940年には、金さんは佐藤組の子会社を設立し、社長に就任している(117頁、131頁、144頁)。
 1939年6月、宇奈月派出所に赴き、出征遺家族慰問のために100円を寄付し、1942年には故郷に1000円を寄付し(134頁)、「捐金千円 吾郷一舎 有義有恩 百世斯人」と刻まれた石碑が建てられている。
 解放後には、佐藤組から15万円を受け取り(135頁)、1945年11月に済州島一の大金持ちとして、帰国したが、渡日中に蓄財をなして帰国した金さんと、無一物で帰国し、遺骨さえ帰れなかった多くの朝鮮人との、この格差は何を物語っているのか。「朝鮮人労働者は朝鮮人の飯場頭の指揮下にいた」(121頁)、「ムチばかりでは仕事は進まない」(122頁)、「1日も早く完成したい佐藤組、より高い収入(を求める)飯場頭」(122頁)と書かれているように、佐藤組と飯場頭が一体となって、朝鮮人労働者を管理し、働かせ、多数のけが人と死者を生み出していたのであり、飯場頭・金泰景さんを対象化するとすれば、戦争遂行のための電力生産と佐藤組の経営・労働者管理の構造に求めねばならないのではないだろうか。

済州島帰国後の金泰景さん
 本書128頁では、長女・春子さんによれば、帰国後の金さんは「親日」を理由に、拘束され、「刑務所に囚われていて助かった」と、また、136頁では、次女・寿子さんは、「(1948年4・3事件後の12月に)左派の政治家のチラシを配っているところを警察に捕まり、…翌日金さんも逮捕され、…軍法会議にかけられ、…罪状は内乱罪、刑期1年で、…木浦の刑務所に入れられた。…1949年11月に出所した」と話している。
 『済州島 血の歴史』(金奉鉉1978年)によれば、4・3事件後の弾圧では、「警察に留置されていれば、まだ希望がある」という状況だったと、書かれていることから、春子さんと寿子さんの証言が混同しているようだ。
 このように、金さんの済州島帰国後の様子は断片的にしかわからず、解放後朝鮮の混乱状況のなかで、かつて飯場頭であった金さんの姿を明らかにするのは相当困難なことだろう。

歴史修正主義との対決
 第3章までは、事実精査を軸に書き進められてきたが、第4章「上書きされる加害の歴史」は、その事実を消し去ろうとする人たちへの批判である。その第1には、電源開発工事から朝鮮人労働者の存在を抹殺している『高熱隧道』(吉村昭著1967年)、第2には、『宇奈月町史』(1969年)という公的な歴史資料からも朝鮮人労働者の姿が消えている。
 ブルジョアジャーナリストたちによって作り上げられてきた黒部川電源開発の虚像にたいする、根底的な事実対置を必要としており、著者は切り込んでいく。歴史的事実から目を背けるジャーナリストがおり、1990年代後半から大手を広げはじめた「歴史修正主義」にたいしては、冷厳な事実を対置して挑むしかない。
 そのために、本書は膨大な資料をあさり、積み重ねられた歴史の書であり、皆さんの購読をお薦めする。もうひとつ欲を言えば、本書を裏付ける「原資料集」が作成され、図書館に蔵書されれば、著者の営為は完了するのではないだろうか。

個人的な、あまりに個人的な感慨
 本書を読みながら、過日(40年前)、老いた父が問わず語りにつぶやいていたことが甦ってきた。父は小松中学中退後の1920年頃に金沢市内の写真館に弟子入りし、翌1921年に見習い写真師として、兄弟子とともに常願寺川上流の鬼が城砂防工事現場で、2年ほど撮影の仕事をしていた。夏になれば、写真機を担いで立山に登り、大正登山ブームで湧く室堂で、登山者の写真を撮影していた。「一夏で1000円にもなった」(当時の一人前の写真師でも月給15円程度だった)と笑っていたが、もっと真面目に話を聞いておくべきだった。

19930131『黒部・底方の声 黒三ダムと朝鮮人』の感想
 この本が出版(1992年)されてすぐに読んだ。その時(30年前)の読後感想が残されており、その一部を採録する。



 僕はこの本を、戦前の日本で、特に黒三ダムの建設過程で朝鮮人がどのように生きたのかについての具体的な事実を明らかにして、日本人の責任を明確にするための書物として読ませていただきました。
 日本人の責任とはいえ、資本家はその階級的な性格から責任をとることはありませんから、日本人プロレタリアートの階級的責任を明確にすることです。すなわち、今日の僕たち労働者階級が在日問題についてどのような立場で考え、行動しなければならないのかを明確にするためです。
 その点で、黒三ダム建設での朝鮮人労働者の虐殺を白日の下にさらけ出したことは、僕が戦前戦後の在日問題を考えていくうえで、たいへん勉強になりました。ありがとうございました。ここで「虐殺」という言葉を使ったのは、労働災害による労働者の死は基本的に資本による「虐殺」です。労働災害は労働者の「不注意や油断」から起きることもあるのですが、不注意は人員不足・高能率の追求・安全対策の不備などで発生します。人間はもともと「不注意」な存在ですから、使用者は不注意があっても、労働者の安全を守る義務があります。ましてや、ホウ雪崩の危険がある冬場に作業させたり、安全対策のない水平道路での作業、高熱下の作業による数百人の死は、まさに資本による朝鮮人労働者・日本人労働者の大虐殺以外の何ものでもありません。

 資本・国家による差別・迫害政策は、差別・迫害することに意味があるわけではありません。それは一般民衆の国家権力にたいする怒りや不満、不安感を在日や部落民への差別に向けさせて、自らの支配の安定を図るところに意味があるのです。関東大震災での朝鮮人虐殺、狭山差別裁判が典型的な実例です。そしてこのような差別・迫害の下で、朝鮮人労働者の戦時型動員がありました。黒三ダム建設のころの朝鮮人動員から、戦争末期の強制連行へと昇りつめていくわけです。根っこには朝鮮侵略による朝鮮の生産関係の破壊、土地からの追放があります。今日のアジア人労働者の大量渡日も、黒三ダム建設時代のころと同じ状況ではないでしょうか。アジア諸国は、かつての朝鮮と同じように、日本資本によってズタズタに荒らされているのです。僕たちは黒三ダムを考えるとき、今日のアジアの現実と交叉させて考えねばならないと思います。

 そして、自衛隊のカンボジア派兵が始まり、本格的な侵略戦争の一歩を踏み出しているとき、政府=資本は戦前と同じように、戦時労働力確保の問題を「解決」しようとしているのです。すなわち「在日問題」は戦争の問題なのです。あとがきのなかに、「この問題は、民族や政治問題などというものにすぐ結びつくもの、あるいは結びつけるべきものではなく」と書かれていますが、ちょっと気に入りません。本文のなかでの主張と矛盾しているのではないでしょうか。在日朝鮮人は、日本帝国主義の朝鮮植民地政策が生み出したものです。強制連行は戦時労働力政策そのものです。日本帝国主義の政治によってもたらされた悲惨以外の何ものでもありません。朝鮮人が日本人(労働者)を信用しないのは、日本人がこの点を曖昧にして逃げているからではないでしょうか。

 日本の政治=侵略戦争によって血を流されたかつての植民地人民からすれば、自分の責任を責めず、自分の政府の責任を弾劾もせず、打ち倒しもしないで、ぬくぬくと生活している現在の日本人は(僕も含めて)、戦前の日本人とどこが違って見えるでしょうか。朝鮮侵略(強制連行)を自分の問題として見据えるというとき、自分の政府にたいする関わり方の問題として見えないようでは、一体何を見たというのでしょうか。朝鮮侵略(強制連行)は抽象的な一般論であったり、過去の問題ではありません。戦前から今日まで一貫して存在している日本の政治の問題です。朝鮮人民(在日も含めて)の生き死にの問題です。そして日本人労働者が、かつて植民地人民が流した血を、自らの血であがなうほどの生き方が求められているということを自覚しなければならないと思います。朝鮮侵略(強制連行)が政治と戦争の問題であることを真っ正面から見据えて、逃げないことだと思います。

 自分自身の「朝鮮人強制連行」にたいする姿勢をまっすぐにしようと思いながら、『黒三ダムと朝鮮人』を読ませていただきました。人間の生き方から理念や理想が、どんどん失われているとき、著者たちがこの問題に正面から取り組まれたことに、心底から敬服します。
1993年1月31日

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