アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

三宅雪嶺と桐生悠々

2012年09月20日 | 歴史観
 「金沢ふるさと人物伝」に三宅雪嶺が当選し、桐生悠々は落選した。両者とも近代日本を代表するジャーナリストである。

三宅雪嶺について
 「金沢ふるさと偉人館」は三宅雪嶺を「哲学者」としているが、哲学という学問的体系を打ち立てた人とは言い難い。1884年(明治17年)には「自由新聞」の記者として「秩父事件」、その後「足尾鉱毒事件」にかかわったり、1888年には「政教社」の設立に参加し、雑誌『日本人』を創刊して、主幹として政府の専制主義と鹿鳴館に見られる欧米崇拝熱を批判するなど、三宅雪嶺をジャーナリストとして見るべきだろう。

 初期の雪嶺は民撰議員論で有名だが、同時に大久保利通らの内治派と対立し、「革命(明治維新)の余勢に乗じ、威力を西岸の大陸(朝鮮)に振はん」と主張した征韓論者でもあった。その後、雪嶺は「弱肉強食の帝国主義時代の現実的な政治として、日本の軍備拡張を主張し、そのための財政基盤を確保し、産業を振興すべき」(『真善美日本人』)とも論じ、「富国強兵」を「善」としている。

 雪嶺は欧米崇拝を批判する「国粋主義者」と目されているが、大逆事件で死刑判決を受け、処刑された幸徳秋水の著書『基督抹殺記』に序文を執筆したり(1911年)、社会主義者と共にルソー生誕200年祭で講演をおこなったり(1912年)、吉野作造と共に「黎明会」を結成したり(1918年)、必ずしも今日のいわゆる右翼と同一ではない。

 三宅雪嶺は日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まるころには政府批判を鈍化させ、体制に順応(1943年に文化勲章受章)していった。雪嶺は太平洋戦争緒戦の勝利を過大評価し、「亜細亜が亜細亜の面目を発揚するのはこれからであって、希望の太陽と共に輝くを覚える」(1942年「希望は輝く」)と、「時局推進の筆」をふるった。

桐生悠々について
 一方、桐生悠々は1910年(明治43年)には信濃毎日新聞の主筆に就任し、1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将を批判した(「陋習打破論――乃木将軍の殉死」)。1914年、新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げた。

 1928年(昭和3年)に、悠々は信濃毎日新聞に主筆として復帰、再び反軍的な一連の社説を著す。もっとも悠々のこの時代の基本的な立場は、マルクシズム批判であり、昭和恐慌で疲弊しつつあった長野県の読者層にも好意的に受け止められてはいなかった。

 1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆する。この社説は陸軍の怒りを買い、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられ、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。

 1941年(昭和16年)9月10日、太平洋戦争開戦を3ヶ月後にひかえて桐生悠々は喉頭癌のため68歳で逝去した。その直前、悠々は『他山の石』廃刊の挨拶を作成し、「小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。」と書き記した。

なぜ、桐生悠々ではなく三宅雪嶺なのか
 死の直前までジャーナリストとしての批判精神を守り続けた桐生悠々と日中戦争・太平洋戦争の過程で、政府批判を鈍化させ、体制に順応していった三宅雪嶺との違いは明確である。編集委員会が桐生悠々をとらず、三宅雪嶺をとった理由は何だろうか。また、振幅の広い三宅雪嶺を子供たちにどのように伝えるのだろうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オスプレイ安全宣言弾劾 | トップ | 尹奉吉義士殉国記念碑説明板... »
最新の画像もっと見る

歴史観」カテゴリの最新記事