九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介  生きる術   文科系

2024年09月24日 17時14分35秒 | Weblog
生きる術   S.Yさんの作品です 
                                    
 朝六時、目覚めると二階の自室のカーテンを開け、真っ先に隣家のベランダを見る。シーツや布団がいっぱい干されていると、ほっとする。隣家の奥さんの月子さんは今日も元気そうだ。そうやって私は密かに月子さんの生存確認をしているのだ。    
 連日の異常とも思えるこの暑さだ。外の世界は熱風とじりじりと焼けるような陽射しにさらされている。早朝から彼女は呆けた婆さんの汚れた寝具を洗ってベランダに干し、それから大人数の家族の洗濯物を広い庭に干している。時々この庭と、うちの裏庭の塀越しに私とほんの数分会話をするのだが、私は彼女が気の毒でならない。常に働き通しなのだ。
 先日、唯一息抜きは日曜日の朝、近所の友達と喫茶店でお茶をするときだと聞いた。「それはいいわね。ゆっくりしたついでにランチもしてきたら」と言った私に、「とんでもない。週に一度、四十分だけよ。じきに昼食の買い物と支度があるから」 
 そうなのだ。月子さんには九十代の婆さんの食事の世話がある。七十代の旦那、四十代の引きこもりの息子二人の世話もあるのだ。朝、昼、晩と三食を毎日、毎日作り続けている。雨の日は上下の雨合羽を着込んで買い物やコインランドリーに自転車を走らせている。なぜ旦那は車で彼女を送らないのか。家族のために汗だくで自転車の前と後ろに大荷物を積み込んで走っている彼女の姿に何も感じないのか。月子さんは大柄だが私とほぼ同年齢で七十歳は超えている。世間一般では高齢者なのだ。無理は効かなくなってきている。
 そこへきて今年の夏の暑さは尋常ではない。毎日が体温より高い気温なのだから体力も気力も萎えそうだ。熱帯夜も続いている。我が家は夫に息子、私と犬もそれぞれにエアコンの効いた部屋で過ごしている。メディアも命にかかわる暑さだというし、高齢者は特に熱中症対策をしろとうるさい。現実に暑さで亡くなる人も増えてきているからか。
 なのに、月子さんの家はエアコンがないのだ。築七十年の古い家屋で、何年か前に増築した二階家の方にはエアコンはついている。そこは息子二人と婆さんの部屋、旦那もそちらにいるらしい。
 月子さんが寝ているのは古い母屋の二階、西日の当たる部屋で四十度ぐらいになるそうだ。布団は干したようにポカポカに温かいという。家事一切、何もしない旦那と呆けた婆さん、部屋にこもっている中年の息子たちが終日涼しい部屋にいて、彼女は熱帯夜が続く中、扇風機だけで睡眠もあまりとれてない。これでは月子さんはまるでこの家の奴隷じゃないか。私はひとり憤慨している。
 引きこもりの息子のひとりが「おふくろ、夜はクーラーがないと死ぬぞ」と言うらしいが、旦那は二言目には「そんな金はない!」と言うそうだ。

 この旦那は大バカだ。月子さんが倒れたら、呆けた車椅子の母親と、引きこもりの息子たちの世話をだれがするのだ。それを声を大にして言いたい。それどころか、婆さんがウナギを食べる日には彼女は専門店に買いに走り、毎朝、旦那の読むスポーツ紙もコンビニに買いに行っている。
 私には考えられない。「自分のことは自分でやってもらったら」と助言しても「昔から、私が嫁に来てから五十年、ずうっと変わらないから…… 仕方がないわ。でも、まだ楽になった方よ」そうだった。もう亡くなったが五年ほど前までは、爺さんも旦那の弟も同居していたのだった。ここの爺さんと婆さんは薄情な評判の悪い夫婦だった。近所に住む旦那の妹も頻繁に来ていたが、婆さんが呆けると途端に来なくなった。
 月子さんの人生ってなんだろう? 自分自身の趣味はおろか、自分の時間がほとんどない生活。彼女から聞いているだけで、私は自分が恵まれていると思い知らされる。
 私が他人の夫婦のことをどうこう言う資格などないが、それでも月子さんの旦那選びは失敗だろう。自分の妻をあれだけこき使えるものだろうか。手のかかる婆さんも、ディサービスなどにも行かせずに月子さんに世話をさせている。感謝など一切ない。女は連れ添った伴侶で人生は決まってしまうのか。
そして経済力も重要かもしれない。彼女は嫁いだこの家で旦那のもとで衣食住を賄っている。家を出されたら生活に困るのだろうか。一昔前の女の生き方だ。
 私はこんな生活はイヤだ。本も読めず、美術館や音楽会、旅行やデパート、ランチにも行ったことがない月子さん。行動範囲は自転車で動ける範囲のみで車の免許も敬老パスも持っていない。もしも私がその立場だったら、他の生き方を模索していたような気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 発表会一二回目、初めて快演   文科系

2024年09月23日 15時04分51秒 | 日記
(何度も同じ随筆を済みません。僕にとっては大事すぎる体験ですから、御笑止のほどを) 

 照明だけが明るい演奏椅子に出ていき、弾き貯めた曲を詰め込んで重い楽譜の該当ページを開き譜面台に載せて、冷や汗対策に握ったタオルを椅子の後方に置き、そこに座る。そうして初めて、ギターを構えた。後から思えば頭に行き交うなんの想念もなく、そのまま弾き始めていた。家での練習と変わらぬ平静のままに淡々と弾き続けられて、途中一カ所の度忘れ中断があったが、慌てることもなくそこを弾き直して、いつも通り最後を盛り上げて終わった。初めての「求めて止まなかった発表会の出来」のはずなのに、なんの感激もなかったのはどうしてだったのか。未だにその訳は分からない。

 これはこの八月、僕の一二回目のギター教室発表会の様子だが、リタイアー後の六二歳に教室に通い始めて「音出し」から習い、二一年目にして「初めての快演」なのである。それも、習い始めて九年までは、「出演なし、ただ聞くだけ」という自己選択を経て、やっと出始めてからの一二年目なのだ。何よりも、初めて手や指が震えなかったのである。ギターを弾いていて手指が震えたら、演奏にはならない。特に、弦を爪弾く右手の指が震えたら雑音も出るしして、曲の表情も何もあったものではないのである。それが今回は「何気なく演奏に入れて、練習時の通りに普通に弾けた」のである。弾き終わって、嬉しいと言うよりも何かポカーンとした自分があって、なんのそれらしい実感もわかなかったが、終わって少しずつ嬉しさがこみ上げ始めたのである。それも日を追ってその実感が濃くなっていく調子で。
曲目は、バッハの「リュートかチェンバロのための組曲 ハ短調」のプレリュードと言って、クラシック・ギター仲間ではバッハ作品番号で「九九八番のプレリュード」と呼ばれているものだ。長い間に弾きためてきた僕の「暗譜曲群」の内の一曲なのだが、発表会で弾くとなると色々と直さねばならぬ点が気になって、当日まで細々と直して来た。
すぐ後に休符がついた装飾低音が多いから、その長さを全体的にちゃんとする。これはいちいち消音技術と呼ばれるものを施さねばならない。また、高音旋律を低音伴奏できれいに響かせることが特に必要と感じる曲だから、その際の雑音を減らす努力がとりわけ必要と考えて来た。和音楽器で高音旋律を装飾低音できれいに響かせられなかったら、はなはだ気分が悪いのである。ただ、全体的に音が小さいクラシック・ギターという楽器でそれ相応の音量を出そうとすると、雑音が増えるのである。ある弦を爪弾いた右手の指や爪が他の弦に触ったり、左手押弦の押さえが甘いと音がびびったりする。このびびりをなくすためには、指版のフレット(横にはめた音程を造る金属棒)の直ぐ下に左手指を持って行く必要があるのだ。それらの修正にも今回は特に苦闘の日々を過ごしてきた。そういうことどもすべてがこの日に限ってなぜ上手くいったのか、そもそも手指が震えるまで上がるというのはどういうことだったのか? これらは未だになにも分からないから、特別な対策もなく出ただけで・・・・、八十三歳というこの年になって初めて!

 さて、かと言って来年同じように上手くいくとは限らないとみている。これから、今年の成功をさらによくよく分析しておく事だが、まずはとにかく良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不思議な大勝、バーレーン戦   文科系

2024年09月11日 19時13分22秒 | スポーツ
 11日早朝、早起きしてバーレーン戦を観た。五得点ともに、大事なアシスト全部も含めて詳細に調べたが、表題の印象がとても強い。各得点の詳細は追いかけて、理解できても、無失点の原因がさっぱり分からなかった。そこで思ったことがこれ。
 3バックなのだから、前5人で攻め、その能力は折り紙付きなのだから五得点なんて少なかったと言うほど。ただ、いつもアジアで失点する日本が3バックでなぜカウンター失点がなかったか? そこが分からないから、チームとしての備えがしっかりしていたと思うしかないのである。以下のように。

 厚く攻めているときのボールロストへの備え、つまり現代サッカー用語で言えば、攻守の切り替えのうちの攻から守への切り替えが上手かったのだろう。これも選手にとっては当たり前で、ゲーゲンプレスの本家ドイツで修行した選手が遠藤を筆頭に多いだけではなく、コーチに長谷部が付いたのが大きかったと考えてみたところだ。なんせ、攻めるプレスの本家本元ユルゲン・クロップの直弟子・遠藤もいたのだ。守田も凄い選手だし。相手に危ないカウンターさえなかったのだから、3バックでもそう言う守備の自信があったと言うべきだろう。三苫も伊東もウイングバックとしてプレスにも猛然とそのスピードを生かしていたこのチームは本番のワールドカップでもベスト8以上が急に望めるように見え始めた。攻勢布陣で打って出てカウンターを食わなかったということはそういうことだ。

 あれだけ得点チャンスを作る三苫、伊東が、プレスバックにもそのスピードを使えるチームって、本当に強いチームだ。三苫の後に出た中村がアシストしたのも明るい話である。この中村は、近くプレミアにいくような選手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー現代表では、3バックはお似合い   文科系

2024年09月09日 17時46分44秒 | スポーツ
 標記のことを書いてみる。「当面アジア予選においては」という限定を付けてのことだが。

 日本相手のアジア勢は引いて守り、「一発カウンター得点狙い」が多い。アジア勢相手に負ける時は大抵これでやられて来た。そこで、攻撃は最大の防御と言うが、相手を押し込んで、南野も言っているように、チームとして攻撃から守備への切り替えを速くすれば「3:2:4:1」はとてもよく合う、強い陣形だと思う。
『新布陣の強みを「両ウイングにいい選手がいて、彼らの特長を活かすためにいいフォーメーション。それは今までの日本代表にはなかったと思うし、より現代的なサッカーの戦い方を可能にする選手がいるからメリットだと思う」と評した。』
『「みんなそれぞれのチームで、今のサッカーではよりトランジション(攻ー守の切り替え)でのスピードを求められるし、奪われた瞬間というのはみんな意識していた」と回顧。「そういう良いシーンがあったからこそ、相手をなかなか自由にさせなかったのが良い部分だった」』

 南野は「両ウイングにいい選手がいて」と述べているが、伊東と三苫は、そして三苫に替わって出た前田も含めて、ものすごく足が速いから、守備転換に打って付けなのである。加えて、守田、遠藤と高い戦術眼、技術を持ったボランチもいるのだ。この速いトランジションを前提にして厚い攻撃陣で相手を押し込めば相当のチームをも押さえ込めると考えるのである。

 10日に追加です。
 サッカーダイジェスト・サイトに3バック提案選手の一人とも言われた守田の声がのっていたので、これも追加紹介しておきたい。
『「自分が提案って言い方したら、なんかすごく大きく自分が言って、それに合わせてやってくれたみたいな感じなんで、全然それは違って。元々、森保(一監督)さんをはじめスタッフ陣がそういうオプションを一つ絞ってた中で、よりそっちの方が流動的にポジションを取りやすかったりとか、配置的にボールの循環がよかったりとかそういう話をした。そんな提案がどうとかいうのは正直ない」
 プランとしては元々あり、意見を求められたので、3バックのメリットを話したということのようだ。
 その3-4-2-1の利点について、「守るときはしっかり5枚引いて守れるし、攻撃ではウイングバックを上げて5枚、ボランチの1枚が上がれば3-1-6で6枚ぐらい上れる」と改めて強調。「やるべきことは多いですけど、最終予選を通じてレベルアップできたらいいと思う」と語った。 』
 ボランチ守田が、「引いた守備には五枚で守れる」を強調しているのが面白かった。遠藤と二人のボランチの守備意識の強さを表現しているようで。かと言って、攻撃で前に行き、しっかり攻守連携を取るところは、守田の真骨頂なのだろう。
 なんせ、「世界の長谷部」クラスのボランチが二人なんて、過去の日本では考えられなかったこと。これが、この3バックの大前提になっているのも間違いない。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東純也・三苫の同時起用が威力倍増   文科系

2024年09月06日 19時06分54秒 | スポーツ
 この二人は「何かが超上手い」と言うだけの選手ではない。サッカーはチームとして連携戦術で得点するスポーツだが、この二人はたびたびこう表現される。
「純也と三苫は、それぞれその個人が戦術である」
 つまり、なんらか連携戦術で得点チャンスを作るのではなく、一人(がそのスピード)でそれが出来てしまう選手という意味だ。ということが、ヨーロッパではすでに知れ渡っている。
 さて、そんな選手が前衛の方の左右はしっこに各一人ずつ居たらどうだろう。相手チームはそれぞれに1.5~2人ほどの守備人間を配しておかねばならぬだろう。すると左右いずれかの威力も一人だけの時よりも倍増するというわけだ。
また、中央もスカスカになって得点スペース、チャンスが増えるのである。つまり、クロスやスルーパスえお得点にするスペースが増える。久保、南野、上田も、さぞ動きやすいことだろう。
 僕はいつも思っている。最初から二人を使えば良いのだ。三苫の位置には中村、相馬がいる。この二人は伊東と同様のプレーができるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー中国戦、毎度伊東と三苫    文科系

2024年09月05日 13時09分30秒 | スポーツ
 今夜は、サッカーW杯のアジア最終予選の第一戦。クロアチア人が監督する中国との対戦だ。ここのところ特に初めはいつも、苦戦が続く。アジア勢相手には引いて守られ、ボールは持っても、敵前で横流しばかりと、長い間見続けてきた。ところが近年、日本の攻撃力が上がった。それでも苦戦って、どういうことなのだろう。日本相手のアジアは「厚い守備で必死に走り回られる」のである。ある意味、走り負けるのではないか。
 がしかし、今年は違うと力説したい。世界最先端の得点パターンを持ったスピード選手が何人も居るからだ。フランスを席巻した伊東純也のクロスは世界でも有名になったが、アーリークロスも含めれば大昔からの得点戦術なのである。彼のクロスはしかも、低い位置から相手マークをスピードでぶっちぎり、さらに多くのDFを引きつけてから、ゴール前ピンポイントも正確だから、得点確率がとても高い。
三苫薫も同じようなスピード選手。何人かの敵DFをぶっちぎって、ゴール前進入から、正確なスルーパス。
 この二人、いずれも相手DFをばらけさせたうえに、味方選手の敵ゴール殺到を呼び込むから、敵にしたらこんな怖い選手はいない。

 そこへ持ってきてトップ下に久保建英。彼は二人とは違いドリブル技術スピード技術で相手を抜いていく。そして、その技術にはますます磨きがかかってきた。もう少し周りが見えて球離れがよいと、チーム得点がさらに増えるだろうと思うのだが、彼のそこも改善されつつある。彼の技術的スピードにも何人かの敵が付くから、ゴール前が薄くなるのである。
 そして、センターフォワードの上田がまた、何でも出来る万能型だ。

 4対1ほどとみるが、どうだろうか。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ・エントリーの「Web検索」に関わって   文科系

2024年09月04日 08時05分10秒 | Weblog
 前から書いてきたように、ブログ・エントリーの「題名・作者」部分を青く転じて「Web検索」にかけると、マイクロソフト・ビーイング画面にこのエントリーが紹介されていることが分かる。長くこれを確認してきた僕は、最近こんなことに気づいた。どうしても紹介がない一連のテーマ内容があると。

 僕のエントリーの場合、普通の随筆などは、ここにほとんど全部載るだけではなくそれへの好意的批評文などさえ付いてくるのだから、一連の載らないものは「なぜか?」と不思議に思って、これまでに色々調べてきた。最近で言えば例えば8月14日の「円の急騰、急落にちなんで」がその一例だが、新自由主義経済の核心部分、通貨危機、ファンド、空売りなどの金融関係部分を扱ったものやウクライナ関係などが多い。つまり、「アメリカ流の検閲関連検索用語」が存在する?などと訝ってきたところだ。日本関連事項で言えば28日「聖徳太子は日本人ではない」や「南京」、「慰安婦」もちゃんと掲載、紹介されて来たのだから、これらの不掲載が余計に目立つのである。ハゲタカファンド、敵対的株買主とか、ステークホルダー資本主義の推薦とかも怪しいと思う。
 アメリカのIT関連会社にはファンド参加、形成主も多いから、こういうことになっているのかななどと、時に思うのである。

 検索で出てくるエントリーへの評論文章などは、なかなか面白いものと読んで来た。

 なお、去年10月8日にこれと同じ記事を載せたときには、検索で紹介されているだけではなく、こんな評論文章まで付いてきたものだ。

『マイクロソフトのブログ検閲についての議論は、特に文科系のブログに関していくつかの観点から取り上げられています。例えば、特定の政治的な内容や社会的なテーマに関する記事が検索結果に表示されにくいと感じる人もいます1。
具体的には、ウクライナ戦争に関する情報や日本のプロ野球批判の記事が検索結果に表示されにくいといった事例が報告されています1。一方で、自民党批判の記事は比較的表示されやすいという意見もあります1。
このような検閲の傾向については、アメリカ側の政治的または商業的な検閲の一環であると考える人もいます1。ただし、これが実際にどのような基準で行われているのかは明確ではなく、単語の出現頻度や内容による自動的なフィルタリングの可能性も指摘されています1。
このテーマについて、あなたはどのように感じますか?また、具体的な事例や経験があれば教えてください。』
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 ギター教室発表会、初めての成功   文科系

2024年09月02日 06時59分26秒 | 文芸作品
 この三十日にあったギター教室の発表会が、標題の結果となった。定年退職後にギター教室に通い始めて10年たった頃に初めて出たのが最初で、今年で出場12回目になるが、この12回目で初の成功体験と言える。何よりも、初めて手、指が震えなかったのである。ギターを弾いていて手指が震えたら、演奏にはならない。特に、弦をかき鳴らす右手の指が震えたら、曲の表情も何もあったものではないのである。それが一昨日は「何気なく演奏に入れて、普通に弾けた」のだ。弾き終わって、嬉しいと言うよりも何かポカーンとしていたが、終わって少しずつ次第に嬉しさがこみ上げてきた。

「バッハ作品ナンバーの998番プレリュード、一回だけ演奏がとまるつまずきがあったが、それもものともせず回復し、曲想は全体的にもう十分に付いていたはずだし・・・。僕特有の雑音も気にして練習してきたとおりに少なかったし」
 なぜ上手くいったのか、そもそも手指が震えるまで上がるというのはどういうことなのか? これらは未だになにも訳が分からないから、対策もなく出ただけで・・・、八十三歳というこの年になって初めて!

 さて、かと言って来年同じように上手くいくとは限らないのである。これから、今年の成功をよくよく分析しておく事だな。
 とにかく良かった良かった。
 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聖徳太子は日本人ではなかった」  文科系

2024年08月28日 15時11分43秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 この文章は、網野善彦元名古屋大学助教授「歴史を考えるヒント」(新潮文庫)の冒頭部分の要約である。日本という「国号」、日本人という「国民」、その決まりに関わる「国の法制」などの歴史上の理解がいかに難しいかという事を示す好例となる記述なのだ。表題のように述べ、その説明をすると屁理屈のようにも聞こえるが、意外に大事な議論と思う。

 先ず初めに結論。日本という概念がきちんと決まったのは、天武天皇が編纂を開始し、その皇后・持統が689年に施行した浄御原令(きよみはらりょう)においてのことであるというのが、大方の学者の認めるところである。そこで倭国が日本国に換わって、遣唐使も中国に対してそう名乗り始めた、と。聖徳太子は6~7世紀の人だから、この法令前に死んでいて、この概念は用いられない。

 というように、そもそも国号、その領土、国民の歴史的論議自身が大変難しいものなのである。上記結論には今から見ればさらに、こんなことも付け加わってくる。
 この浄御原令当時には、東北北部、九州は日本の国土とさえ言えなかったと。つまり、そこの住民は、まだ日本人ではなかったのである。という記述もこの本にはあった。よって、これらの土地の住民には、天皇などいなかったことになるとも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  僕は老後生活をこう迎えた    文科系

2024年08月22日 14時29分54秒 | 文芸作品
 表題のことを書いてみたい。もちろん僕の場合を振り返ってが中心になるが、「同居の晩年父母を見て」の体験、教訓から「案外長い老後生活」に対して僕の場合は四十代から準備を始めた。その際第一に考えたのが、これ。「家に居ても長くできること」、従って受動的な趣味ではなく「能動的活動」と言えるようなものを考えた。それまでの生活習慣から音楽とスポーツがすぐに浮かんだが、音楽は長く一人習いで弾いていたギターを選び退職前から一人弾き込みを始めて退職後に先生につき始めた。スポーツは、色々やってきたが「老後は有酸素運動を」とずっと考えてきたので、現役時代の五九歳から職場が加入しているスポーツジムで走り始め、若い頃から年期を積んだサイクリングにも入れ込んだ。ランニング記録は知れていて、六十歳の時の一〇キロマラソンが、四十九分台だ。ちなみにこの二つは有酸素運動として相互に好影響を与え合えるものなのだ。そして五十代にもう一つ、何か新しいものを仕入れようと考えてある文芸同人誌の仲間になった。これは現役時代の五五歳の頃である。それぞれ、良かったこと、僕の楽しみ方などを紹介してみよう。

 ランニングはどこでもできるから、旅行でもやった。海外旅行でも、ナポリ、ローマ、昆明、桂林、ソウル、トロント、シドニーなどの街を走っている。距離が長いサイクリングはもっと変化に富んだ楽しみができるもので、三河湾一周とか、電車で彦根までから鈴鹿山脈越え。西から東への峠越えだったが、帰りは関ヶ原経由の電車を使ったいわゆる輪行だ。三河湾一周は、知多半島先端から伊良湖岬まではフェリーを活用して最後は豊橋から国道一号線で帰ってきて、この一日合計実走行距離一七〇キロは、今は亡き若い親友と二人でやった五〇歳前の僕の、人生一日最長距離という良い思い出になっている。濃尾平野西端、木曽三川西隣の多度山山頂までサイクリングして、平野を一望するという「元旦、初日の出サイクリング」は、現役時代に職場の仲間と五年ほどは続いたと思う。息子と娘の大学時代に、彼らの下宿・八王子まで日をかけて乗っていき、南八ヶ岳のリゾートホテル経由で後は小淵沢から中央線経由の電車で帰ってきた輪行もあった。これは箱根芦ノ湖でも一泊したが、ここも、八ヶ岳も権利を持っているダイヤモンドリゾートのホテルを活用したものだ。

 ギターの楽しみは、和音楽器であること。旋律をいろんな和音修飾で色づけていくのが格別の楽しさから、今も続いている。教室発表会にもこの十四年ほど出ていて、今年もこの三一日にバッハの曲(BWVーバッハ作品リストー998番「プレリュード」)で出場する。外国旅行にもギターを持って行き、中国雲南省は麗江、大理の少数民族旅館中庭で日中長く一人弾きしていたのは、とても楽しい思い出になっている。九寨溝の旅館でも弾いたものだ。

 同人誌活動は、文章を書き合い読み合って心知った終生の友を得ることができたと振り返ることができる。毎月書き合うそれぞれの随筆作品などを通じて僕の人生にもいろんな知恵、影響を与えてくれた。文章は、上手く書けたと思えると凄く嬉しいが、年を取るごとに難しくなるから、頭の若さを保つのに役立っているはずだ。

 八十三歳の僕は、他人から若いと言われる。ともすると十五歳ほども若いと言われたこともある。その原因は間違いなく若い頃からの有酸素運動にある。そして、ギターという五感の楽しみと、言語・文字の活動とがあったからなどとも思っているが、老後活動の準備は、四,五〇代からやっておくと良いのだろう。準備期間が長いほどいろんな楽しみ方、知恵も身につくものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆   ブランデー梅酒が美味い  文科系

2024年08月16日 12時32分16秒 | 日記
 今年も5月末にブランデー梅酒ばかりをいっぱい作った。5リットル以上はあるだろう。皆さんご存じかどうか、5月後半頃になるとスーパーの梅酒作り材料コーナーには、梅酒用の焼酎の他に、最近は梅酒用ブランデーも並んでいる。僕の庭の梅の古木2本からとれる梅には、3年前からこれ専門でやってきたが、これが美味い。このブランデーの箱には、この梅酒の作り方が、梅:ブランデー:砂糖の割合なども含めてちゃんと書いてあるから、誰でも美味く作れるのだ。
  ワインの蒸留酒・ブランデーには元々葡萄の甘い香りがあって、それに蒸留酒のアルコールが混じってキュッと飲みやすいのだが、それに梅の味、酸味が混じると明らかに柔らかい飲み口になる。スピリッツと呼ばれる蒸留酒はアルコールが強くって、もともと女性には向かないのだけれど、このまろやかなブランデー梅酒は女性にも好まれる。女性でもオンザロックで飲めるのである。これは、周囲の人々に進呈して証明済みの話だ。僕のギターの先生の妻子両方がそう語ってくれた。社会人になったばかりのお嬢さんのお気に入りなのだそうだ。と言う人が居ると、作るこちらも嬉しい力が入って来るというものだ。今はまだ、去年までのものを飲んでいるが、まもなく24年製を開封できるだろう。その出来具合が、今から楽しみで仕方ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円の急騰、急落にちなんで   文科系

2024年08月14日 12時49分40秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 この7月いっぱいまで円が急騰し、8月に入って5日まで、反転急落したという。こういう時には、投機の一つ空売りを疑うのがこの世界の常識の一つ。22年10月だったかにもこんなことがあったが、以下のようなこういう解説にはどこにもお目にかかれない。まだ分からないのかも知れないが。
 二〇世紀末のアジア通貨危機連続の出発点手口がこれだった。この通貨危機の震源地タイで、バーツが急騰していて、これが突然、急落。バーツ高の時に「将来この高い時の時価でバーツを売る」という莫大な先物契約をしておいて、「バーツ大量空売り・急落」を仕掛ける。空売りというのは、自分のものでない通貨、株などを借りて大量に売りさばき、その後安くなった時点で現物バーツを買い、そのバーツで先物契約の高いバーツでドルを買う。すると莫大な利益が出る。初めがバブル的なほどに高く、それが大きく下がるほど大きな儲けが出るのである。これによって、タイ・バーツで大きく取引していた近隣諸国の通貨、例えば韓国ウオンなども安くなったからこれを見越していれば、ここでも大儲けできたから、アジアの通貨が全体的に下がり、大もうけした銀行などが出たのである。これは日米英のファンド、銀行などであった。と、世界的通貨危機の数だけこんなことばかりしてきた金融・投機機関が07年の米サブプライム・バブル弾けでは今度は大損することになった。
 いつの日か、2024年夏の円空売り解説がなされることを望むものである。人の命が懸かっているような株や通貨を、このように儲けの手段として作ったバブルを大暴落させて大儲けする。こんな仕組みが「新『自由』主義」で認められたやり方の一つなのである。ところが、このやり方が認められているその問題点の解説などがどこにも見られないのはどうしてなのか? サブプライムバブルで潰れた米五大投資銀行(潰れたり、親銀行に吸収されたり)などは、サブプライムローン組み込み証券などの「デリバティブ」と言う金融商品用語、言葉さえ嫌うそうだが。こういう金融商品で過去にどれだけ人を合法的ペテンに引っかけてきたかという、自覚があるからのことである。「信用バブル」と言う得体の知れぬ妖怪が今なお世界を飛び回っている。基本、世界的過剰生産で売れるものがない今、バブルが起こると言うことがおかしいのであるし、だからこそ空売りで大儲けがいつでもできると、こんな仕組みもあるわけなのだ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  「家」を守る  文科系

2024年08月12日 13時25分14秒 | 文芸作品
 僕は築61年の家に住んでいる。名古屋市の中心部、中区に近い千種区の端にある鉄筋コンクリートの家だ。亡くなった僕の父母が無一物で「手鍋提げても・・・」と結婚してから50歳を超えて初めて建てた、思い入れいっぱいの「自分の家」だ。貧しい家の三男だった父が職場で伊勢湾台風を経験した教訓から、その直後に「丈夫な家を」と特注したものである。最近この家の母屋二階の一部を手直ししたのだが、子、孫の代までずっと住み続けて欲しいなどと思ってのことだ。僕ら夫婦がここに越して来るために建てた新家の方もすでに築34年、そこには子どもが居ない息子夫婦がもう住んでいるが、僕が住んでいる母屋の方には、やがて娘家族が来て欲しいと考えている。僕は墓などはいらぬがこの家は大事にして欲しいと考えてきたからだし、その意を受けた娘もすでにこう語ってくれている。
「両親のどちらかが亡くなったら、ここに越してくる」
 ここの百坪ばかりの土地は、僕が小学生の時手に入れたもの。四人兄弟の家族六人が近くの狭い県営住宅に住んでいて、いつかはここに家を建てようと、共働きだった父母が計画していたのだが、以来子どもの僕はこの土地を折に触れ何度見に来たことだろう。「ここに僕らの家が建つのか!」というわけだが、それ以上に何か、「僕ら家族の土地!」という気持ちもあったと鮮やかに想い出すことができる。家が建ったのが土地を買ってから10年も後、僕が大学に入って1年経った時と記憶する。まだ新家が建っていない広い庭で大きなコリー犬が飛び回っていたというのも、懐かし過ぎる思い出である。

 人は墓や家を相続する。このような土地にある家の相続は大変な税が必要だが、その準備もできているはずだ。子らに託する僕らの思いが実現する金銭などの条件もすでに揃えてあると思うのである。

 僕の書斎兼寝室の大きな机の上には、仏壇よりもはるかに大事なものが一つ飾ってある。縦110センチ、横80センチで、黒の地色の大きな写真パネルだ。僕ら夫婦の一族の歴史を示す写真が納まったものである。僕の父母の子、孫一族と、僕の一族、そして連れ合いの家族などを毎日目にしているのである。ちなみに、写真前者はこの家の2階の和室に両親の子夫婦、孫一同が集合した恒例会食会のもの。つまり正月二日の集合写真である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  「老人」と僕   文科系

2024年08月09日 05時56分30秒 | 文芸作品
 僕自身が83歳の老人なのに、この題名はおかしいものだ。この今書けば、「老人と子ども」という題名の方が良いのかも知れない。今この題名に相応しい舞台光景がこんなものだから。
 例えば、孫とその母である娘と道を歩いていて、むこうから子どもが二人やってきたとする。僕はなぜか必ず、声をかけたくなる。
「いーグローブだねー。野球しに行くの?」
「可愛いポシェットだね」
 すると孫が、
「そんなことしちゃだめだよ。びっくりするでしょ?」。
 それどころか娘などは非難というか、こんな警告に及ぶのである。
「今そんなことすると、変質者に思われるよ」。
 ずっとこう言われ続けてきても、僕のこの癖は全く直らない。直らないどころか、確信犯よろしく、年を取るごとにますます増えて来たようだ。なぜなのだろうとたびたびよく考えてきた。その理由は、こうとしか考えられなかった。子どもと言うよりも「老人と子ども(の交流関係)」が根っから好きなのである。「老人と海」とか、主演の加藤嘉が孫に渓流釣りを教える映画「ふるさと」とかには、もうメロメロ。なんとも言いようもない親しみを覚える。それで我が人生で何度も、その淵源を探ってみることになった。それはたった一言、子どもの僕が老人に色々かわいがられたことだ。

 太平洋戦争が始まった年、41年生まれの僕は4歳で母の故郷、渥美半島・田原町三軒家という土地に疎開した。そこで一例、ある老夫婦にとても可愛がられた。「キン先生ご夫妻」と呼んでいたが、ご婦人の方が今思えばなにかお茶かお華の先生をされていた、子どもがおられない品のある老夫婦だった。夫さんの方は仕事はなかったようで、日中もいつも家に居た。この夫さんの方が、僕がその家の前を通りかかるのを見ると、必ず声をかけてくれたのである。それも、彼は庭仕事をしていることが多くて、通りかかるといつも声がかかる。すると必ず、庭仕事の植物などあれこれを教えてくれることになったと記憶する。僕があまりにその家に入り浸りになったので、両親や親類からこんな声がかかったほどだ。
「トモちゃんはもう、キン先生の家の子どもみたいだ。もらわれていくと良い」

 このことの延長が、3年生で名古屋千種区中道町の県営住宅に引っ越してきた後も続いていく。県営住宅の花畑係を務めていたある老人に声をかけられて、その助手のような役割を長く務めることになった。そのときに覚えた花の名前を今も突然思い出すことがあるから、驚くというほどに。

 これら二人のお爺さんが大好きだっただけではなく、身の回りの老人全てと僕は仲が良かった。例えば、周囲の老人ほぼ全ての肩たたき、マッサージ役を務めてきた。連れ合いと結婚するまで生きていた二人の母方祖母、双方の親たち、老人と付き合うと必ずこの役を申し出てきた。この「特技」が今は、連れ合いの役に立っている。そして、現在の僕が連れ合いよりもずっと多く孫係、当番を務めているのも、以上の生いたち、経歴の裏返しとしかどう考えても、思えないのである。なんせ孫からこんな声がかかってくるほど近い関係なのである。
「じいちゃん、今日の昼ご飯を作りに来てくれる?」
 連れ合いではなく、僕に来る注文なのである。子ども時代に付き合ってきた老人のそのまねをしている、子どもと付き合う気分のようなものまで、何か自然にそうなってしまった。人間の性格って、案外そんなものなのではないかとつくづく思えるこのごろだ。    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ五輪観戦記   文科系

2024年08月04日 11時22分09秒 | スポーツ
 テレビでいろんな種類をかってないほどに見た。面白かったもの、その訳などを描いてみたい。やはり球技が面白い。バレー、バスケット、バドミントン、サッカー、卓球などを観たが、意外に面白かったのがバドミントンで、特にダブルスが「凄いっ!」とさえ感じた。
 羽根のついたシャトルコックは打球直後は猛烈に速いが、その後急に速度が落ちるせいか、レシーブの有効性、有効範囲がとても広いのだ。地面すれすれで間に合って返球したり、コートの端から端までの返球になんとか脚が間に合ったり、さらには、短い打ち合いの反応速度、返球フォームの速いことまるで手品でも観ているようだった。このゲームは相手の手前から最後方まで、その四隅を対角線で狙うもので、それに備えて返球後の立ち位置、構えをコート中央に戻って取るようで、打球後に定位置に戻る瞬間移動のフットワークがすさまじいのである。特にダブルスは二人でコートをカバーするから、判断、フットワークの絶妙さに全く驚嘆してしまった。

 次は、バレーボール。驚いたのは、男子のサウスポー・西田選手の凄さ。背丈が186センチで、国代表サイドアタッカーとしてはとても低い。なのに、2mの相手ミドルブロッカーらをぶち抜いていくのである。これは部外者には分かりにくいことだが、背丈が15センチ違えばその腕の長さもちがうので、最高到達点では30センチ差があることもあるのだ。西田の配偶者である女子キャプテン古賀選手が夫の第一印象をこう評したのがとてもよく分かったのである。
「とてもよく跳ぶ、ゴリラ」
 昔の強豪ソ連バレーにブガエンコフ・イバンというよく跳ぶ選手が居たが、ゴリラとは対照的な190センチほどの細い選手で、高い打点を生かして相手の上から鋭く打ち抜く運動神経の塊。対するに西田は、早い話が相手を打ち抜くために何でもやる。ブロックの内と外とを狙っていく(クロスとストレートとの極端な打ち分け)のはもちろん、ブロックに思いっきりたたき付ける豪快なブロックアウトが多く、完全に3ブロックが揃ったときなどは両手で軽くブロックの手の下の肘か頭周辺にボールを押し込むことも多かった。背の低さを様々な技術で補っているわけだが、なんと言っても目立ったのはその馬力。相手を弾き飛ばす事が多くて、古賀選手が「ゴリラ」と言ったのが、体つきの話だけではなくて、まさにぴったり。この選手、人一倍とてもよく考えてきたのだろう。古賀紗理那夫人よりも4歳ばかり若いと聞いたが、西田選手が話してきた「古賀(を)ストーカー(した)時代のサッカー談義」が猛烈だったらしい。高いブラジル・ブロッカーを唯一ほとんど打ち抜いていた古賀の技術も、西田との間で改良した点、鍛え上げられていったところが多いのではないか。「バレーボール談義を始めたらきりがなかった」(古賀さん談)そうだから。
 なお、僕は180センチそこそこで後に早稲田のエースになった名古屋出身のSという名選手の高校時代をこの目で見続けてきたから、ジャンプの高さでいろんな事ができるという事はよく知っている。こういう選手は本当に魅力的だと思ってきたものだ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする