九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

今年のギター教室発表会は・・・  文科系

2024年08月01日 23時08分24秒 | 日記
 今年も標記の催しに出る。まだ教室に通っているからだ。8月31日開催なのだが、出演曲はバッハの「リュートかチェンバロのための組曲 ハ短調」のプレリュードを弾くことにして、懸命に練習中だ。クラシック・ギター仲間ではバッハ作品番号で「998番のプレリュード」と呼ばれているものだ。長い間に弾きためてきた僕の「暗譜曲群」の内の一曲なのだが、発表会で弾くとなると色々と直さねばならぬ点が気になって、細々と直し始めた。
  すぐ後に休符がついた装飾低音ばかりだから、その長さを全体的にちゃんとすること、これはいちいち消音技術と呼ばれるものを施さねばならない。また、高音旋律を低音伴奏できれいに響かせることが特に必要と感じる曲だから、その際の雑音を減らす努力がとりわけ必要と考えている。和音楽器で高音旋律を装飾低音できれいに響かせられなかったら、はなはだ気分が悪いのである。ただ、全体的に音が小さいクラシック・ギターという楽器でそれ相応の音量を出そうとすると、雑音が増えるのである。ある弦を爪弾いた右手の指や爪が他の弦に触ったり、左手押弦の抑えが甘いと、音がびびったりする。それらの修正に苦闘中の日々なのである。

 僕のように、癌手術の後遺症でランナー断念をした者には、ギター音楽があることがとりわけ慰めになっている。知らぬ間に2時間も弾き続けていて、首や肩が痛くなっていると気づくことがあるが、これ自身がランナー断念による体力低下の顕れなのだと思い知るのである。でもまー、83歳というこの年齢で2~3時間も弾き続けられるということこそ、幸いと言うべきだろう。ただし、それだけに身体のケアには注意していきたい。ランはできなくとも、階段往復とかロードバイク・ツーリングとかは辛うじてなんとか続けている・・・・。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー・バルセロナにドイツ人監督? 文科系

2024年07月24日 09時24分09秒 | スポーツ
スペイン・バルセロナの監督にドイツ人のハンジ・フリックが就任した。ドイツ・バイエルンミュンヘンで選手時代を過ごし、ドイツ代表のコーチや監督を歴任した人物だ。それにしても、こういう人物がバルセロナの監督とは? 案の定、早速こんなチーム変身方向を語り出した。サッカーネットの「ゴール」から取った物だが、こんな声が聞こえてくる。バルセロナやスペインサッカー好きの日本人からしたら、目を剥いて反対するような変身ではないか。
『何よりも勝利を目的にプレーする必要性を説いた。 「ここ(バルセロナ)の伝統はボールに触れるプレーだ。だが私は同様に、ダイレクトな形でもゴールにたどり着きたい」 「ゴールを決めるためには、もっとクロスを上げるべきだ。思うに、私のスタイルが大きな変化を与えることはない。私が求めるスタイルは、高い位置からプレッシングを仕掛けて、相手陣地でプレーをすることなのだから。しかし結局は、勝利をつかまなければいけないんだよ」 フリック監督はその一方で、ボールを保持・非保持の状態で選手たちに求める姿勢についても語った。 「私のチームは適切なタイミングで相手にプレッシングを仕掛けなければならないし、ときには高い位置からそうすることも必要だ。』

 こんなフリック監督は、日本人には評判が悪いだろう。ドイツ代表監督としては、カタールW杯では我が代表に負け、その後ももう一度負けているのだから。それにしてもこのフリックがバルセロナを上記のようなチームに変えようというのは、日本ではさらに評判を悪くするはずだ。「(従来バルセロナの)多くボールに触れるプレーではなく」「ゴールにダイレクトに」。そして「もっとクロスを上げるべき」・・・。

 世界のサッカーがどんどん変わりつつあるのだけれど、バルセロナまでがパスサッカーから離れる? 逆に僕はこう思うのだ。2010年前からのドイツのゲーゲンプレス戦術創出、世界席巻以来、「高い位置からのプレス」が世界に広がっているが、だからこそ逆に、この高いプレスをかいくぐれば、敵陣ゴール前に強襲することができる。この急襲をするのに、速いサイド選手の価値がどんどん上がっている。伊東純也、三苫薫、相馬勇紀、中村、毎熊・・・。日本のこれらの選手が骨身にしみているからこそのフリックの声「ゴールにダイレクトに、もっとクロスを上げる」なのだろうと思う。

 ちなみに、J1首位の町田が、多くの選手を年度中に奪われたその穴埋めのように、名古屋に戻った相馬勇紀を早速獲得した。それも大金を積んでの事と聞いている。名古屋はなぜ相馬を手放したのか不思議だが、大活躍するのではないか。相馬は、伊東のようなクロスだけではなく、三苫のようなゴール前へのドリブル突破も、そこからのシュートも打てる、「得点に結びつく確率が大きいプレー」を必ず作ることができる選手である。
 今後のバルセロナはともかく、町田の動向が見物だと思っている。ダ・ゾーンにかぶり付きだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  「逃げ専門ドッジ」   文科系

2024年07月22日 17時00分26秒 | 文芸作品
 今月の毎日新聞投書欄などで、標記のことが話題になった。「私はドッジが嫌いです」で始まる某記者のコラム「堂々と『ドッジ』しよう」が、その出発点だったという。どういう意味、内容なのか。僕も最近孫のドッジに関わってある体験をしたから、すぐに分かったし、興味深い論議と思った。まず、僕の体験はこうだ。
 四年生になる男の孫、セイちゃんが妙なことを僕に報告してきた。「今日(小学校区の)町内対抗ドッジがあったが、僕は最後まで死なないで残ったよ!」。最近のドッジは四年生ともなると全身を使ってすごい球を投げるまで訓練を積んだ子が居る事を知っているし、ドッジのキャッチボールを頼まれてやったこともあったから、ちょっと驚いたもの。そこで母親である娘に観戦した様子を質問してみた。すると返ってきた返事に、また驚いた。
「全てのボールから上手く逃げるので、周りの大人からこんな声も聞こえてきたりして、にんまりだった。『あの背番号二八番は、いくら投げても当たらないから、狙うのは無駄、効率が悪い。』」
 ドッジが嫌いな子のその気持ちは、よく分かる。野球など特別に訓練を積んだ子の剛速球など受けられないからただ逃げるだけ。自分は相手を殺せないし、ただ死ぬために参加しているだけのスポーツなどちょっと残酷と言えて、楽しいわけなどないのである。そこでセイちゃんは、逃げに徹する作戦に彼なりの楽しさを求めていったようだ。僕がせっかくキャッチの仕方を教えてけっこう上手くもなったのに、その道ははなから放棄して。それにしても、逃げ専門でいつも最後まで生き延びるって、それなりに凄い! でも思えば、このセイちゃん、瞬発力に秀でているのである。立ち幅跳びがほぼ二メートルもあると告げて、「学年一位だよ」と威張っていたから、さぞ素早いステップで逃げるのだろう。
 さて先の毎日新聞コラムおよび投書欄論争によれば、ドッジとはdodgeであり、日本語に訳すと「身をかわす」なのだそうだ。だからこそ先の新聞コラムでは、「堂々と『ドッジ』しよう」と、これが嫌いな子などに手を差し伸べているのである。「ラグビーバックスの走り」のように、一つの立派な個人戦略の勧めというわけだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ますます偏重、新聞、マスコミのスポーツ報道 2

2024年07月21日 05時54分59秒 | スポーツ
3月17日エントリー「ますます偏重、新聞、マスコミのスポーツ報道」に対して、旧名無し君、現通りすがり君から、執拗にコメントがついている。その内容は「野球に比べてサッカー記事が少ないからご不満なのだろう」というもの。何回かの同じコメントに、今日もまたこういうお応えをした。まず、名無し君のコメント。
『Unknown (とおりすがり)2024-07-20 01:23:45
 結局、「スカパーを裏切ったJリーグが、予想通り、地上波ではハブられていますよ。でも、文ちゃんは、それが気に入らない。」
で、まとめていい。
野球に比べたら十把一絡げの印象なのが、文ちゃんの感想らしいが、その程度の認識でしかないのが、(文ちゃん論を含めて)現状では?
都合の悪い事を、「暴力」と言うのは、止めた方がいいと思うよ。
野球界が、どんな「暴力」を? 』
 このトンチンカンな何目目かのコメントに、僕はこう応えた。

『ダゾンに捕られた! (文科系)2024-07-20 13:32:32
 サッカー記事はダゾンに捕られただけ。サッカーの世界的将来性、将来的価値の高さに日本では信じられぬような金額で独占中継長期契約が決まった。このことに、僕が文句を言うわけはない。ダゾーンに入っている我が家でもいつもどのサッカーゲームも見られるようになったのだし。
 その価値が分からず好機を逃した他日本マスコミ界は切歯扼腕というところだろう。それで、将来的サッカー人気に対して、対抗的に野球の将来性の育成に日本スポーツマスコミが必死になり始めたとみたね。マスコミ野球界が談合したように。野球ではなくマスコミ界のその「談合ぶり」をあざ笑っているのだ。野球はもちろん、スポーツ全般をバラエティ-種のようにも扱ってきた日本スポーツマスコミだからおかしいというのもある。
 これからもっともっと野球評論、そのバラエティー記事なども増えていくだろう。ただし、サッカーマスコミを見習って良い野球記事、ライターも出てきているのはすごい朗報だろう。本で言えば、こんな例がある。
 まずなによりも、文藝春秋「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」の鈴木忠平、そして新潮新書「山本由伸 常識を変える投球術」の中島大輔。この2冊はともに買ってきて、じっくりと読んだよ。前者は1900円もする分厚い本だが、この作者の物は皆買ってでも読みたくなったね。サッカー界には、このクラスのライター、著作者はずっと多いけど。

 なお、僕は野球も好きだよ。今も孫のソフトの学校有志チームの助っ人の端くれとして、通っている。八三歳の今、肩がめっきり弱くなったが、昔は坂口監督の東邦高校教員チームとゲームをしたこともある。大学教養部の体育授業では野球を選んだし。 』

 それにしても皆さん、今は職場別野球と高校野球地区予選、次いで甲子園高校野球などなど、よくもまー細々、デカデカと写真入りで報道が盛んなこと。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本バレーボールが復活  文科系

2024年07月16日 00時01分55秒 | スポーツ
 最近五輪を控えて、自分が大学までやったスポーツとしてバレーボールの代表戦をよく見た。日本男子代表が世界2位国にまで上って来たと知っている人がどれだけ居るだろうか。まるで昔の東京五輪前後の日本にまでバレー界復活を見る思いだ。「東洋の魔女」から始まって「松平男子」の大古、横田、猫田・・・。そこで今回は、女子も出場を決めているのだが、日本男子代表を眺めてみたい。
 バレーの見方で最初に目につくアタックとしては、正攻法のサイドに、石川、高橋に、オポジットと呼ぶ右オープンには左利きの西田がいる。前2者は言わずもがなとして、西田についてだが、186㎝と低いのに、堂々とブロックを打ち抜いていく。ジャンプ力と筋力がすごいと思った。
 そして、日本のセッター関田も柔らかいプレーがとても良い。配球パスの下に非常に早く軽やかに入るのも目についた。そして、この関田に良いパスが入らねば全ての事が始まらぬのだが、日本のレシーブはチームとして得意技のようだ。レシーブ、特に大事なサーブレシーブも上手いのである。相手の連続得点を妨げるためにはサーブレシーブが最重要になるが、これの中心リベロも上手いのである。
 ここで日本の最大問題点だが、相手の攻撃を破壊するブロックがやや劣ると見た。ミドルブロッカーに2mを超える選手をそろえているが、世界の強豪と比べると、やや劣っていると思った。そして、今の世界バレーはこのブロック力が最大競争点であると観察できた。ここが相手チームと比べて上手くいかないと、得意のレシーブ力も活かすことができず、連続得点ができなくなる。パリオリンピック・バレーボール観戦ではブロック競争を中心にゲームを見ようと思ったことだった。いや、ここまでのゲームも、ブロック競争を中心に観戦していた。


 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー・プレミアリーグが日本人にさらに面白い・・・ 文科系

2024年07月15日 00時28分09秒 | スポーツ
菅原がサウザンプトンに入った。これで、プレミア日本人はこうなる。
「24-25年シーズンのプレミアリーグはMF遠藤航(リバプール)、MF三笘薫(ブライトン)、DF冨安健洋(アーセナル)、MF鎌田大地(クリスタルパレス)、そして菅原がプレーする予定に」
 日本は、スペインを持ち上げるが、ここ一〇年ほどの世界では、選手以上に世界的名監督がここに集まっている。グアルディオラ、クロップらの他、マリノスを川崎に匹敵するチームに仕上げたポステコグルーがトットナムにいったのも、その証拠。 今のマドリー監督アンチェロッティも長くイングランドにいて、みずからを世界名監督にさらに仕上げていった。そしてプレミアは今や、チャンピオンズリーグのベスト4がイングランドというような勢いである。それに匹敵するのは、スペイン2強に、バイエルン、パリサンジェルマンぐらいしかない。

 ちなみにここで、今時の名選手について僕流の一言を。強さと、何か世界的な一芸を持っていること。その一芸が得点に結びつく確率が高い選手が望まれている。その一芸もイブラやエムバペ、ロナウド、メッシのような図抜けた得点力選手というだけでなく、その前段階の「得点を常にお膳立てできる確率が高い選手」を推してみたい。日本で言えば、伊東純也、三苫薫、相馬、中村のような選手である。菅原、毎熊らもそういう選手に入るはずだ。彼らを一言で表現すれば、「シュートの前段階を作る確率が頭抜けている」という特徴を持っている。ゲーゲンプレス創出以来世界の中盤の守備力が強力になったから、敵守備陣を破壊する速さが必要になっているということだろうか。それにしても、プレミアに日本人が5人って、何か夢のような話になってきた。

 他にも、富安、遠藤のようなプレミア選手が生まれるなんて、10年前の日本では専門家でも信じられないという話だったはずだ。なんせ専門家でも「日本人は身体が弱いから、パスサッカーしかないし、守備には向かない」などと公言する人ばかりだった。中田英寿という例外を重々承知していたはずなのにである。
 ちなみに、Jリーグで今をときめく町田の黒田監督が、こんなことを叫んでいる。
「指導してきた選手が評価され、代表招集されるのはすごく有難いこと。今町田が志向しているサッカー、松木が6年間、青森山田でやってきたこと。ただ単に上手いというだけではなくて、強いというスキルが日本代表に必要だということで選ばれていると思います。そうしたことを指向し、彼らに落とし込んできた成果が実ってきていると感じます」 
 この黒田監督がプレミア監督になる時代が来るかもしれない。彼はすでに、ポステコグルーに近いようなJ監督実績を上げ始めている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家犯罪人が解放、長年の夢が叶った  文科系

2024年06月26日 16時10分12秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今日の毎日新聞で読むことができたが、BBCが今日ネット報道した同じ記事を紹介しよう。イギリスで収監されていたウイクリークスの創始者ジュリアン・アサンジ氏が解放されて、母国オーストラリアに飛び立ったというのである。アメリカの一般人大量殺害などの戦争犯罪記事などをすっぱ抜いて世界に広めた米重罪犯罪人が、新新労働党政権の粘りによってついに解放された。
 嬉しくて飛び上がったが、この上は同じもう一人の米国家犯罪人エドワード・スノーデンもなんとか解放されないかな? 彼はアメリカ人だから助けてくれる国がない?
 これは、豪新政権の国家原則的立派さの顕れなのか、米国力沈滞の結果なのか。

『内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者ジュリアン・アサンジ被告(52)が24日、ロンドン・スタンステッド空港からプライベートジェット機でオーストラリア、そして自由へと飛び立った。これは外交、政治、法律が混ざり合った結果だった。 アサンジ被告は今回の司法取引で、7年間の籠城生活と、その後5年間の勾留の末に自由を手にした。まとまるのに数カ月かかったが、最後まで不確かだった。 英検察庁(CPS)は声明で、司法取引の可能性について「3月に初めて認識した」と説明。それ以来、アサンジ被告の釈放と、「同氏と米政府の希望に沿って」同氏を米連邦裁判所に出廷させる「仕組みについて」アメリカに助言してきたとした。 長年の行き詰まりの末に実現した今回の司法取引は、2022年5月のオーストラリア総選挙が発端とみられる。この選挙によって、外国で拘束されている自国民の帰国を目指す新政権が誕生した。 政権を握った労働党のアンソニー・アルバニージー首相は、アサンジ被告の行動を全面支持はしないが「もう十分」だと主張。被告の釈放を求めた。そしてこの件を、主に舞台裏で優先的に扱った。首相は当時、「外交問題はすべてが拡声器を使って取り組むのがベストというわけではない」と話していた。 豪議会でアルバニージー氏は、超党派の支持を得た。 豪議員団は昨年9月に訪米し、米議会に直接働きかけた。アルバニージー氏も10月にアメリカを公式訪問した際、ジョー・バイデン米大統領との間で自らこの問題を取り上げた。 今年2月には豪議会が、米英両国に対してアサンジ被告をオーストラリアに帰国させるよう求める決議案を、圧倒的多数で可決した。 豪議員らは、影響力の大きいキャロライン・ケネディ駐豪米国大使にも強く働きかけた。 』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三〇年越しの感謝   文科系

2024年06月21日 22時13分17秒 | 文芸作品
 あれは確か一九八〇年のこと、小学校卒業以来二七年たって初めてその学年同窓会が開かれた。コンクリートに建て替えられる築百年の懐かしい木造校舎とのお別れ会として持たれた学年同窓会が近くの神社の会館であった。居住地学区の中学に行かなか三浦三浦君には、卒業以来初めて会う同級生ばかり。少し早めに会場に着いて、来訪者を一人一人確認していた。と言っても、顔には覚えがあっても名前は出ないと言う人々がほとんど。やがてそのうちの一人の男性が三浦君と目が合うと満面笑顔で「三浦くーん、君に会うために来たんですよ」と近づいて、隣に座った。そして、こう語り継いでいく。
「浜松から来たんですが、本当に君に会うためだけに来たんです、竹田です。覚えておられますか?」
 と言っても、ほとんど覚えもない顔だったのだが、竹田延実と呼んでいたことがよみがえると、二人が関係したある事件を真っ先に思い出した。確か、彼ら属した六年六組で、六月後半の昼の放課に起こった事件である。

 間近に控えた期末テストの勉強をしていた三浦君の耳に突然ドスンッという重ぃ物が落ちる音、次いでビシッと鋭い音が飛び込んできた。〈ただ事ではない!〉、教室の後方に目をやると兼田君と竹田君とがけんか腰で向かい合っていて、状況などから経過がすぐに推察できた。兼田君が自分の椅子に座ろうとした竹田君のその椅子をすっと引いてとんでもない尻餅をつかせたのである。そして、立ち上がりざまの竹田君が兼田君の頬を平手でひっぱたいた。「なにするんだ!」と叫ぶ兼田君に、「それは、こっちの台詞だ!」と竹田君が珍しくいきり立っている。ガキ大将・兼田君の取り巻きたちが、遊び半分で周囲に集まり始めている。〈ただでは済まないな〉、三浦君はゆっくりと竹田君のそばに寄っていった。教室中の目に対しても兼田君がこのままで済ます訳がない。兼田君は、当時まだ田舎の風習が残った名古屋市郊外のこの地域の土地持ち旧家の一人息子。力もないのにこの学区内では威張っている人間なのだ。走るのは遅いし、野球も下手だし、そもそもキャッチボールの筋肉さえいかにもひ弱なのだと、彼にはもう分かっている。この兼田君の転校生いじめに三年生で転校してきて以来、彼もずっと悩まされてきたのだったし、竹田君はこの春に転校してきたばかりの生徒だった。ちなみに、竹田君が、三浦君もよくからかわれた三河弁を使うのは、渥美半島から越してきた三浦君の転校時と一緒だったから、ずっと一種の親しみがわいていた。
「ただの遊びに向きになるなって!」、取り巻きの誰かが言った。「暴力の遊びか!」竹田君が言い返した。「暴力に暴力なら、けんか? けんかなら、授業後にちゃんとやれよ!」と、また取り巻きがけしかける。「本当にやるのか?」、ドスを利かせて、兼田君。竹田君は黙っている。そこで思いついた三浦君がこう引き取る。「じゃあ、僕が竹田君に代わって、兼田君の相手をするよ」。彼の予想通り兼田君が一瞬ひるんだ。転校以来三年がたっていて、ずっと同級だった兼田君のいじめに対する三浦君の抵抗力を兼田君は十分見知って来たからだ。当時の子どもは放課時などに相撲も取ったし、宝取りなどの体力・格闘付きゲームも時に流行した。「宝取りゲームが行き過ぎて、いつもけんかになっては、つまらんだろう? 竹田君も、なんとかもう許してやれよ」、彼は竹田君の目にウインクしながら付け加えた。「それもそうかな。じゃあ、そういうことにさせてもらって、兼田君、いいね?」、で兼田君も表情を緩めて、その場は解散となった。

 竹田君の口火によって同窓会場挨拶の初めから自然なようにこの事件が蘇ったのだが、竹田君が付け加える。
「この場面だけじゃなく、あらゆる所で君が手を差し伸べてくれた。甘やかされた兼田は、自分に自信がないからいつも集団で威張る場面を探してたみたいだったしね。君も転校生で初めはその犠牲になったと当時聞いてたけど、僕にはどれだけありがたかったか」
「東京生まれで都会育ちの僕は、母の実家の渥美半島に疎開して、ずいぶんその『土地』に虐められたんだよね。そのせいで、知らぬ間に正義漢に育ってた」
「そのことは皆もよく知ってたよ。五年二学期に君が学級委員長に選ばれたと聞いた。 あれって、女の子たちが兼田男性グループを嫌ってたから。兼田グループは女性蔑視だったからね」
「よそ者嫌いの『村社会』で、長いものには巻かれろの男尊女卑、・・・、何が民主主義国家になった、か!?」
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 僕の育メン・クライマックス  文科系

2024年06月02日 02時09分55秒 | 文芸作品
  娘の結婚式で俺が泣くなんて、思ってもみなかった。これまでただの一度も思ったことがないどころか、涙が出始めるその瞬間まで。あれは、よく作られた娘の演出、その狙い通りの効果の一つだったのではなかったか。それならそれで良いのだ。別に、意地で泣くまいとしてきたわけでもないのだから。

 この式は、娘の友人らによる完全な手作り。チャペル風建物での人前結婚式の司会は、娘の職場である小学校のお姉さんのような人らしいし、受付も進行係も見慣れた友人らがやっている。それどころか、こういう式に欠かせないBGMや披露宴出し物なども全て手作り、生なのである。

 まず、式場へ彼氏が入っていく時は、娘の親友のソプラノ独唱で、マスカーニのアベマリア。次に、娘が俺のエスコートで入場していく時には、友人女性トリオがアベベルムコルプスを高い天井全体に響き渡らせる。披露宴では、彼氏の弟の津軽三味線にのって和服の二人の衣替えご入場だ。その余興にも、もう一人のソプラノ独唱でヘンデルのオンブラマイフ。オーボエの生演奏もあって、これはシューマンの曲だとか。
 総じて「手作りの音楽結婚式」という趣である。横浜国立大学教育学部の音楽科出身で、音楽教師として海外青年協力隊で中米ホンジュラスへ派遣二年間なども経てきた娘らしいと、ただただ感心しながら一鑑賞者としてご満悦であった。まさかこの全てが後で俺に降りかかってくるなんて、これっぽっちも思いもせずに。
 さて、披露宴の終わりである。両親四人が立たされて、二人が謝辞のような言葉を述べ始めた。娘の番になっていきなり「お父さん!」と静かに切り出された話は、最も短くまとめるならこんな風になろう。
「お父さん、私の音楽好きの原点は貴方との保育園往復の日々。二人で自転車で歌いながら通ったよね。『ちょうちょ』とか『聖しこの夜』とか、よく歌ったね。思えば、こんな小さい時から二人で二部の合唱をしてた。私たちも音楽にあふれた家庭にしたいと思っています」
 そこで俺は急遽アドリブでこう返すことになった。とにかく、全く知らされていないハプニングだったので、応答の初めにはもう涙ぐんでいたと思う。

「まさか僕が、娘の結婚式で泣くなんて、思ってもみなかったことです。よりによってあんなセピア色の話を持ち出したから。しかもあの話は、僕の最も弱い場面。さて、君が語った自転車通いは、兄ちゃんが入学した後の二年間のこと。それまでの送迎は確かこうだった。家族四人、車で家を出て、車の中で朝食を摂り、母さんを名古屋市西に横断して、遠くの職場まで送っていく。それから、家の近くの市立保育園まで戻ってくる帰りには、三人でいつも歌ばかり。ここまでの時間は約七〇分以上もあって、それから僕の出勤。お迎えも僕で、また歌っていた。その間に母さんは夕食作り。夕食を食べると僕はまた出勤。こんな保育園送迎七年こそ僕を父親らしくしてくれたんだと思っています。『ちょうちょ』も『聖しこの夜』も今でも低音部を歌えますよ。君のピアノ教室通いの練習なんかにも家に居れば必ず付き合っていたし、君のピアノ発表会にはなんとかほとんど出席してきたし。」

 娘が作ったハプニングを我ながら上手く乗り切ったもので、それだけまた泣けてきたというところ。俺にとってのそういう話を、娘が何の予告もなく振ったのである。彼女の方はちゃんと文章にした物を準備していたから、俺がアドリブでどうこたえるかという、演出なのである。『手作り音楽結婚式のフィナーレ』にぴったりではないか。ちょっと敏感な人ならば娘のこんな解説まで分かるような形で。〈父にはこれはハプニングです。でも父はあのように応えてくれました。これが私たちの間柄なんです〉
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 海外旅行クライマックス  一人ランチへの賓客   文科系

2024年05月31日 02時00分55秒 | Weblog
 連れ合いのボランティア活動に同行したシドニー滞在旅行が半月を経過した。彼女もホームステイ先の四十代独身女性も仕事に出る平日日中は、全く一人。気ままなランチを今日はちょっとリッチにしてみた。と言っても、買い物を選べば、実に安くて豪華にできるのだ。メインディシュは三百グラムのTボーンステーキ。日曜日に市中心部に出た時、チャイナタウンのスーパーで買ってきた三百円ちょっとのものだ。ワインは近所のスーパーから「一本千円、二本買うと一本おまけ付き」(「三本二千円」でないのが面白かった)で仕入れたシラーズ種、オーストラリア名物の赤。渋みも甘みも重厚で相当な味なのに安いのが手に入る。野菜は高いからいつも慎重に探すが、三日前に買ったセロリに岩塩を振りかけて添えた。デザートは超特大リンゴほどのマンゴー、甘さも香りも強く「きつい味」とは言えるが、今こちらで一番旬の果物で、これが百円ほどである。

 舞台が良い。シドニー市民がみんな知っている北郊外の高級住宅地、コーラロイプラトーの一角、家の前の道から北北東に太平洋、北に湖がそれぞれすぐそこに見える高台で、おちついた3LDKのおしゃれな平屋である。そして、東向きのこのベランダは昨日僕の手で久々らしい大掃除を終えたばかり、真っ白いテーブルに今はゆったりと一人、ワイングラスの脚をつまみながら目の前の東庭を眺めているというシテュエーションである。

 百坪ほどの裏庭だが、森なのである。葉の短い柳に似た高木が3本、これはユーカリの仲間らしい。それよりかなり低いが四メートル以上もある「羊歯か、蕨のお化け」が五本。東端にある一番の大木は見当もつかない種類のものだし、「八手のお化け」、「クチナシモドキのお化け」など我が家には見かけない庭木ばかりなのだ。かろうじてコデマリ、アジサイ、ツユクサなどが混じっていて、それらに目をやるとなぜかほっとする。季節は夏の盛りの二月、気温は珍しく三十度と高く、陽射しは突き刺す感じなのだが、日陰のここでは家々の「森」を渡って来る風がからっとしていて、うーん、気持がいい。
  
 テーブルにグラスを置いて背伸びしたとたん、その姿勢のまま目線が捉えられてしまった。ユーカリの幹の向こう側、地上三メートルほどの枝に見たこともない鳥がいる。「梟だ」、三十センにも見えた大きさ、形、体の三分の一以上もある頭などからそう直感した。が直後に「全く違う」と、そいつが僕に振り向いた瞬間に気づいた。クチバシが長すぎる。大きな頭のその幅ほどもあるクチバシから途端に連想したのがカワセミであり、すぐになぜか「ワライカワセミ」という言葉を思い付いた。名前以外は一片の知識さえなかったのに。部屋に跳び電子辞書を持ち出して百科事典をのぞく。
 「オーストラリアに分布し、疎林に住んで昆虫、トカゲ、ネズミなどを食べる」とあるではないか。早速スケッチにかかる。家主が帰ってきたらたずねてみるつもりで。悪戦苦闘の末まーそれらしくスケッチできたので、すぐに和英辞典をひく。クッカバッラ、ラーフィングジャッカスなどとあり、その語源は同じ電子辞書によると、「笑う頓馬」とか「ギャーギャー声の変人」らしい。だけどそいつはそんな声は出さず、ばたばたする僕を怖がるでもなく梟のように哲人然としてただ見つめている。
 「違うのかな」と、双眼鏡やカメラまで持ち出して、カメラで一枚撮ったあと接近開始。時間をかけてジリジリと寄って行き、とうとう高低差も含めて六メートルほどの地点にあるベンチに僕は座り込んでいた。そこから七倍の双眼鏡で観察するのだから、もう羽毛の先までが見える。それでもそいつは哲人然とした物腰を変えない。時間をかけて撮影し、観察して、それからテーブルにもどって、彼も肴にしつつランチを続けた。ややあって突然。形容しがたいトテツモナイ声を発すると、それを遠くまで響かせ続けながら、そいつは飛び去って行った。

 家主に聞いた話では僕の推測は正解、語源も正解。翌日も同じ枝に来たそいつは、きっと「賢い鳥」なのだろう。家主の「自然」志向からはっきりと虫、トカゲが多いと言える庭だったからだ。幸せなステイになったものである。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 僕の駆けっこ・クライマックス

2024年05月23日 14時22分06秒 | 文芸作品
 小学時代の僕は、駆けっこもスポーツもだめだった。運動会の徒競走では6人中の3,4番より上がったことはないし、小学校の町内対抗野球大会では、「ライトで8番」に引っかかるかどうかの選手。6年生になって買ってもらった上等のグローブがいつも泣いていたもの。それが、中学時代から少しずつこれらが「得意」になっていったのだが、その出発点の事件を描いてみる。と言っても、この事件は、その後ずっと思い出すこともなくほぼ忘れていたもの。自信のない活動の成果は、記憶にも残りにくいのだろう。


 中学3年生の運動会で、スウェーデンリレーの選手に選ばれた。100から400mまでをプラス100m増しでそれぞれ走る4選手一組同士のリレー争いなのだが、直前に分かった僕の割り当ては最後の400メートル。僕の記憶は「最後の僕が1位との差を詰めて、2位になった」ということだけで、他は、何も覚えていなかった。それを、水谷という野球が上手なスポーツマンが、70歳ごろの二人の懐古談義で教えてくれて、こんな周辺会話が始まったものだ。

「あれは、あと50mあったら君が追い抜いていたよ。君の相手は伊吹君、百mの第一人者だったけど、もうバテバテだったからね。初めをしゃかりきに走りすぎた」
 こんなありがたい友人もいるもの、たちどころにこの周辺の経過、出来事を思い出させてもらった。
「腿を上げてストライドを大きく。ただし、脱力してゆったりと走る」
 これが、400m担当と分かって、スタート直前まで自分に言い続けた戒めだったこと。後半に追いついてゴール、その記録員の声がこう聞こえたこと。
「君のタイムは、ほぼ60秒」

 なぜ中距離が速くなったか。嬉しかったせいで、当時いろいろ考えた。バレーボール部に属していて、その練習前後の準備と整理との体操の後、必ず一人で走っていたのを思い出した。準備(体操の後の)ランは練習の調子を良くするし、整理のランはその日の疲れをとると鮮やかに体験・実感させてくれた。この二つの「毎日ラン」こそ、リレーよりも遙かに強力な当時の僕の思い出で、この自信がその後いろんな「僕のスポーツ人生」を作ってくれたもの。ちなみに、有酸素運動能力は中学時代に一番伸びるもの。子育て時期にある本で学んだ知恵である。対して、無酸素筋運動は高校時代以降長く強化できるものとも学んだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 僕の渓流釣り・クライマックス その2   文科系

2024年05月21日 00時07分17秒 | 文芸作品
 前回に引き続き、その2回目も描いてみたい。今度は渓流釣りといえるかどうか、木曽川中流の川鯉51センチの体験である。これを自慢すれば、この鯉を0・6号の糸でつり上げたこと。
 場所は、愛知県北西、尾張一宮市の北・川島町の大きな橋のすぐ西下、中州における出来事だ。この鯉の魚拓で確認してみると、時は1971年5月18日。

 0.6号の糸でシラハエの脈釣りをやっていたのだが、初めから多くあった魚信に、合わせてみたその瞬間に釣り糸が切られてばかり。
「水中で何事が起こっているのか!」
 昨日までの雨で濁った水の底で起こっていることが、皆目見当もつかないのである。そこで思い出したのが、釣り本にあったこんな記述。
「大きすぎる魚は、無理に寄せないこと。ただ竿をためて耐え忍び、向こうから上がってくるまで待て。魚の口が水面上に出てくるまで待って、魚が空気を吸えば弱ってくる。それを岸辺に引き寄せれば良い」
 とこの教えを思い出し、その通りにやったら、以降ちゃんと釣れたこと! 30~35センチほどのウグイがどんどん上がってきた。この日この場所は、雨後の増水で流れ出た餌が特に多いポイントだったのだろう。そこらへんの大きな魚が集まっている感じだった。ただ、この失敗と成功の体験があったからこそ、以下のことも可能になったのである。

 初めて見たこんな大きなウグイを20本も上げたころだったろうか、針にかかった魚が、濁った水の上方になかなか浮き上がってこない。その間中、僕は大きく曲がった竿を立てて構えたまま、大川の中州の縁をあちこちと上下移動するだけ。
「これは、今までの魚とは違う! 一体何者なんだ?」
 なんせ天下の木曽川、それも愛知・岐阜両県を結ぶ大きな橋のすぐ下の「竿立て・ウロウロ」。こんな姿はどうしても人目を呼ぶ。橋の上には人がずらり、見世物見物を決め込んでいる。その衆目注視の中の「うろうろ」、おおよそ20分、水面直下に黒っぽい身体の下半身だけがほんの一瞬翻ったのが見えた。
「これは鯉だ。よほど慎重にやらないと先ず上げられないだろう。シラハエつりとて、手網も持って来なかったし」  
 それからまたウロウロがどれだけ続いた時だったか、今度また糸が緩んできて、水面上に大きな口と一緒になったぎょろっとした目が浮き上がってきた。いい加減糸を引っ張り続けるのに、魚も疲れてきたのだ。その後やっと、竿を寄せることができたのだった。手網を持っていなかったので、最後は中州の砂の上にずるずると滑らせて引き上げたものだ。

 後でつくづくと思ったのが、このこと。この鯉を釣り上げるに至るまでのウグイ釣りの失敗・成功がなかったら、先ずこの鯉は上げられなかったろうな。なんせ、普通の鯉よりは細いとはいえ、51センチ。これを、0・6号の通し糸でつり上げたのである。
 ちなみにこの鯉、普通の鯉と違う川鯉だが、その日のうちに連れ合いの実家でおばあさんに味噌汁にしてもらった。確かに鯉そのものの味がしたもので、その美味しかったこと!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  僕の渓流釣・「クライマックス」  文科系

2024年05月20日 14時20分52秒 | 文芸作品
 我が人生の中で、25年ほどの渓流釣り経歴を持っている。愛知、岐阜、三重、滋賀、福井にまで足を踏み入れ、北海道、伊豆半島などの旅先でめぼしい川を見つけたときには、「竿を出してみた」ことも多い。そのクライマックス場面を描いてみよう。丹念に付けてきた釣り日記をひっく襟返してみると、1984年9月24日のことだ。その日、その場所は、岐阜県白川村の飛騨川(木曽川の大支流である)に東から流れ込む白川、その上流・東白川村のさらに東方。その日の同行者が我が一人息子K、当時12歳、その初釣行の出来事である。


 この時、Kの渓流釣り初体験を思い立ったのには、大きな背景があった。前年83年の8、9月と、僕の渓流釣り15年ほどの記録になった大物が2回も上がった場所なのだ。ヤマメの兄弟であるアマゴのいわゆる「尺物」が、初めは31センチ、2度目が32センチ300グラム。ちなみに、アマゴというのは、ヤマメとほとんど同じ体型、体色だが、アマゴには赤い斑点がある。
〈こんな面白いこと、Kにも味あわせてやろう〉
 この翌年に早速ここへと連れ出したのだ。僕ができることをほとんど教えてきたKであったが、ハエの流し脈釣りだけは一応教えてあったので、その応用として、初の渓流ヤマメ釣りであった。

 「トウちゃーん!」。
 晴れた日の午前6時過ぎ、甲高い声が大きな川音(と朝霧)の間から僕の耳に飛び込んできた。僕の下流100メートルほどの岩の上で釣っていたKに目をやると、大きく曲がって水に引きずり込まれそうになった釣り竿に全体重を乗せて堪えている小柄なその姿がすぐに目に飛び込んできた。
〈相当な大物、それも深場だ。その中心部の流れに魚が乗せられたら、0・6号の糸が持たないだろう〉
 この瞬間、乗っていた岩場から左手の浅瀬にゴム長靴のまま飛び込んでいる自分がいた。浅瀬といっても胸近くまでの深さの急流とあっては、体を半分引き倒されるような衝撃を感じたものだ。なかば水に引き倒され半分泳いでいるような形で岸辺、浅瀬に身を寄せて、後で振り返ればその浅瀬をKの岩まで飛んでいったはずだ。体を水から引き起こしてからのことは「半ば泳いでいた」以外にはほとんど覚えていなくって、記憶にある次の僕は、Kから引き渡された竿をゆっくりと寄せ上げているもの。「慎重に、慎重に」と、この時ばかりは釣り師の全体験が総動員されているのである。それで、やっと落ち着いたのは、僕が寄せた魚を、Kが指示に従って玉網に納め、それをつくづくと眺めている時。30センチの尺物と気づいた僕の気分は、自分が2度これを釣り上げたときなど比較にならぬ高揚感に躍り上がっていた。その日これ以降、何度繰り返したことか。
「すごい魚だなー、良かったな、K!」
 が、そんな感嘆の声を上げるたびにKの応答は今一つ、なんとも物足りなかったもの。まー、趣味というのは、そんなものなのだろう。渓流の趣味も、Kへの僕の過去いろんな「教え」の執着も。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神・霊魂と科学  文科系

2024年05月10日 06時46分27秒 | その他
 前から思っていたことだが、宗教を信じるということは、霊魂を信じるということと「同じ」であるらしい。最近読んだある本から知った。マイナビ新書「教養として学んでおきたい5大宗教」。宗教学者・中村圭志の著作である。ここにこんな文章があった。
「(宗教とは)霊や神のような不合理な存在の働きを前提とする文化の様式」

 このことについて僕は、ここにもこう書いてきた。人間は昔、自分の体を離れて、これとは別に自分の魂が存在するとか、ある人間の体が朽ち果てることははっきりしているが、それとは別にこの人の魂は存在し続けると考えた、と。すると、体とは別の「この魂の来し方行く末の世界」も存在するという理屈になって、それが神の世界となるはずだ、と。
 そればかりか、原始宗教では、すべてのものに霊が宿ると考えられていたようだ。この思想をアニミズムと呼ぶ。アニマというのが、ラテン語の霊とか魂とかの意味だからだ。太陽の神、海の神、地の神、月の神、戦争の神、美の神、商業の神・・・などなどは、ギリシャ神話で世界によく知られた神々である。そういうそれぞれの神が存在するとしたら、これらの霊を作った大元の神もいるという理屈になり、そのようにして後に生まれたのが一神教なのではないか。
「唯一の霊が万物の背後におり、この世界を作った」
 こう考える人々は、死は怖くないと思おうとするように僕には見える。自分の霊は永遠なのだと。ここに例えば、輪廻転生のようなことも考え出されることになる。「信仰と科学的認識・知見とは全く別のものである」として、創世記を丸々信仰するアメリカ人もプロテスタントに多いようだ。対して、日本人には特にこういう人々も多いだろう。自分の体が死んだら、自分はきれいさっぱり何も存在しない。その方がよほどすっきりする、と。

 ただし、科学と信仰は両立できるとして、神の根拠を地球誕生のビッグバンにまで遡って説いている最先端の理論物理学者も存在する。「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社BLUE BACKS 名古屋大学名誉教授、素粒子物理学専門・三田一郎著)。ちなみにこの先生は名古屋大学理論物理学の坂田昌一教室の後継者だった教授。この本には「カトリック教会はビッグバンを歓迎した」との帯がつき、こんなことを語っている。
「科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では、科学法則は誰が創造したのでしょうか」
「私自身は、科学法則の創造者を「神」と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在するということだ、と考えるのです」

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老後音楽演奏活動の一例  文科系

2024年05月09日 17時00分00秒 | その他
 僕は定年退職後からはじめて、83歳になる今もあるギター教室に通っている。この活動がとても楽しくて、僕の人生の最大価値の一つだったなというほどに、非常に大きな意味を持ってきたと振り返ることができる。その楽しみを求め、究めてきた僕流儀のやり方を書いてみたい。


 美術制作にせよ音楽演奏にせよ、芸術は鑑賞以上に自分が作ったものを自分が味わい、それがだんだん向上し、より楽しくなっていくという楽しみがある。加えて、「音楽」としてのギター演奏には何よりも「和音楽器」の楽しみというものが重なってくる。曲の旋律を和音であれこれと飾って、曲の流れにより感じよく生かしていく楽しみだ。和音楽器は、その王様はピアノだが、ほかにはギター、琴、ハープと、案外少ないもの。ただ、旋律の装飾にあれこれの和音を使っていく楽器演奏は難しくて、この演奏を本当に楽しむためには暗譜で弾けることこそが大事だと退職後の習い始めから決意してきた。年寄りが、楽譜をたどりながらやっと弾けているというのでは、音楽の楽しみも何もあったもんじゃなかろうと予測したからだ。ちなみに、ピアノを習って来た人でも「今ここで一曲弾いて」と言われても案外弾ける曲がないものだと、僕は知っている。

 そこで、習い始めから非常に特殊なならい方をとってきた。
①各曲の習い始めは、最初の一小節から、丸暗記弾きに務めていく。少しずつ覚えるまで何回でも弾いて、その次に行き、暗譜部分を増やしていくというやりかただ。すると、普通の楽譜なら一週間に一ページほどを覚えられる。
②の際、その当時は弾けない技術的難点はそのままにしておき、とにかくまず一曲丸暗譜、それから欠点修正、弾き込みに入るというやり方だ。
③暗譜してからの弾き込みは、音楽の楽しみが全部詰まっている感じがするやりがいのあるものである。
④そうして暗譜した曲の中から、「これは暗譜としてずっととっておこう」という曲を「僕のギター曲暗譜群」の中に繰り入れる。
⑤この暗譜群は、新曲を入れたくなったら旧来のどれかを出すとかしてきて、現在大小24曲ほど。時々の新曲レッスンのほか、暗譜群曲をも定期的にずっと常時弾き回してきたわけだ。
⑥そして今年に入っては、この暗譜群のうち僕の今までの腕には余って発表会で弾いたことがない難曲を総復習している。先ず、アルベニスの「アストリアス」、バリオス作曲「大聖堂」、次いで、ソル作曲「モーツアルトの魔笛による変奏曲」などだ。


 さて、このやり方はいつも、この楽器の代表曲と歴史的に認められてきたものに、直接するというもの。楽しい訳である。きょうも「モーツアルトの魔笛による変奏曲」を3時間は弾いていたかな。まだまだ難点が多く、発表会で弾ける曲ではないなと思いながらだが。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする