松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

三國連太郎が選んだ「散骨」という生き方

2013-04-18 10:28:04 | アート・文化

今、散骨を選ぶ人が増えているそうだ。それは社会的な理由もあるだろう。

つまり、墓を作るより安いとか、死んでまで人に迷惑を掛けたくないとか。

それ以外に根本的な考えで選択する人たちが増えている。多分に千の風になっての

影響もあるだろう。あの頃、深く、考えた人もいるに違いない。オレだって出来れば

そうしたいくらいだし、嫁は海に撒いてほしいと言ったことがある。嫁の動機は良く

分かる。それはオレと同じ墓に入るのが嫌だから・・・。

子供が小さい時、墓参りに行った。すると娘が「ママも死んだらこの中に入るの」

と聞いた。そう、あんたはお嫁さんに行った所の墓にね、という意味のことを答えた。

その時、娘はぞっとしたに違いない。こんな狭い、暗い所に一生いるのか、と

思ったに違いない。しかも家族と離れて。

遺骨には何の意味もない、と以前から考えている。

何人もの人間を送ってきたが、通夜に見た顔はどれも精気が無かった。それどころか

抜け殻に見えた。「むくろ」という表現がぴったりだった。魂の不滅を信じるか否かに

拘わらず、死んでしまえば物体と化す。骨はカルシウムだ。生前の骨格は

日々更新されている。細胞だから古いのは死に、新しいのが生まれる。その人を偲ぶ

のだったらほかに幾らでも材料はある。その人が身につけていたものとか。

今では故人を偲ぶ方法は、動く映像さえ残されている。そのうち3Dとなり、もっと先には

触れることさえ可能だろう。

寺と墓、それに法事というプレッシャー。なまぐさ坊主とはよく言ったものだ。皆、辛い

修行はそれは積んで来ているはずだ。でもとても世俗的だ。結婚はできるし、副業も

認められている。先生をやったり公務員でも認められている。酒は当然浴びるほど

飲めるし、繁華街に繰り出す強者もいる。これも修行だと居直られてはたまらない。

一番引っかかるのが、人のふんどしで、すもうを取る、ように見えることだ。

人の不幸につけ込んで金を取る、そういう職業なことだ。娑婆の何かと良く似ている。

戒名やお経の一節を記した経木が印刷だと分かった時は一気に冷めた。

仏の教えが間違っているとは思わないが、魂の救済はオレでもできる。

自分では既に悟りを開いたと思っている。一度死んだと思っているから。あの暑い日

心臓発作を起こしてから。

一応親戚も見てるだろうと思うので、すべての寺を中傷するものではないことと、

今の制度を否定するものでないことを断っておく。故人は法事を通して親戚の

付き合いを再確認させてくれる。これが今のところ唯一仏教のプラスの面かも

知れない。

三國連太郎に関していろんな浮いた話を昔聞いた。だが伊達に年食って

なかったんだなあと思う。

佐藤浩市は肩身が狭かろうと思っていたが、これからは違った目で応援できるだろう。

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