この大きな絵図を「出羽一国御絵図(でわいっこくおんえず)」と申します。
正保4年(1647年)江戸幕府に命じられて、秋田藩が作成した提出分と同じ藩邸保存分で御座います。
これを踏んでもいいと言うのですから痛快じゃ、あ~りませんか。ただそのために行ったようなもんです。楽しかったです。相当しっかりしたコーティングが施されていて、表面はつるっつるでした。
具体的には、南部と言われた鹿角地方を除く秋田県と、山形県を含んでいて、縦に長~い。
皆さんの鑑賞している格好が実に面白い。「どうも、どうも」ってお互いご挨拶しているみたい。
まずは自分の現在地を探します。ありません。あるのは金足の村々と下新城の村々。追分は、男鹿街道との三叉路にある二つの丸で示された地点になります。やや、寂しいです。
ところがそこは、秋田の町を囲む面々のお尻が邪魔で踏み込めません。しばらくしたら、空きました。
「沼」と表示された池が、小泉潟ですね。小泉村と鳰崎村が読めます。
金足は馬踏川の左右に点々と村落があります。下新城は新城川沿いに村があります。
男鹿半島もじっくり見ました。小さい鹿の「小鹿」になっています。大分「砂州」が細いです。特に能代方面は、繋がって間もないように細いです。元は男鹿島だったことが良く分かります。八郎潟は、大きくて塩分の濃い湖だったと思います。ぼーっと明るい青色に「遠浅」と書いてあります。
今日も5本指ソックスで向かいました。確信犯です。四角いのが久保田城。現在は千秋公園ですね。
城を挟むように、大平川と旭川が雄物川河口付近で合流しています。
この頃のままだったら、鳥海山は秋田県のモノだったのに。廃藩置県で「山頂」が山形県に持っていかれてしまいました。
高校野球も昭和の時代、山形と代表決定戦をやって、ほぼ秋田が毎年甲子園に出場していました。
なんと嘆かわしいことか。
昔は良かったなあ。