日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

京都市立堀川高等学校探求科

2007-10-20 21:44:42 | Weblog
 京都市立堀川高等学校、ここの校長(荒瀬克己)先生(54歳)が、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀で出演していた。
 今や、公立高校の人気は全国的に低下の一途であり、6ヵ年一貫教育の私立がどこでも注目を浴びている。そんな中で、この堀川高校の特に探求科は、独特な内容で、しかも、それなりに大学入試でも成果を上げ、日本全国だけでなく、世界的にも今注目されている。
 平成11年4月にオープンしている。まだ、日が浅い。教師も、不安一杯で取り組んできている。しかし、その3年後、飛躍的に進学率が伸び、学校が一遍している。
 その教育の元は、いい大学に入ることではない。その生徒が将来何を本当にしたいのかである。生徒の将来を本当に考えての教育がそこにある。全ては、その生徒が知りたいことから始まっている。そこでは、徹底気的に探求させているのである。
 私のかっての高校生活を考えてみると、全く逆であった。試験に関係ないことは出来なかった。そして、受験に失敗した後、2年間も浪人生活をしてしまった。正に、受験の為の勉強って感じで、あんなに一生懸命に受験の時に覚えていた世界史も、今では殆ど覚えていない。私は、地学がとても好きだった。しかし、入試に関係ないので、初めの1年でその勉強は終わってしまった。しかし、今でも気持ちは宇宙に飛んでいる。又、英語以外に、いろんな語学がしたかったが、第2外国語がないので、出来なかった。しかし、今は、自分なりにいろんな外国語を勉強しているが。
 堀川高校の探求基礎では、生徒にとことんまで調べさせ、又、専門家を招いたりと、徹底的に探求させている。素晴らしい。実に素晴らしい。本当にこんな高校が今の日本に存在しているのだ。そして、本当の力がそこで身に付いている。例え、入試に失敗しても、そこで学んだことは、一生の宝物となるであろう。

以下は、堀川高校のホームページ。
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/horikawa/index.html


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10月20日(土)の日記

2007-10-20 21:43:16 | Weblog
 今、熊本のインターネットカフェにいる。おじんが若者に混じってやっている感じだ。しかし、遊びに関しては、自分は若い者以上によく遊んでいると思う。その遊びも、健全なものを沢山ってやっていると思っているが。のむうつかうが、お茶を飲み、パソコンと太鼓を打ち、かうが書くで、書くことは昔から国語が出来ないのに、何故か好きである。
 Cybacで、身分証明証(健康保険証を出したが)を提出して、手続きをした。他県でもしてカードを持っていたが、今は、持参していない。ここでは、飲みもの無料など、実にいろんな特典が付いている。下の階には、卓球などいろんな遊びが出来ることになっている。
 時々はいいが、いつもこんな感じで一人でパソコンを打っていると、ホント、人間がおかしくなっても不思議でない気がする。かと言って、今日はホテルに帰っても、パソコンも出来ないし、面白くもないので、しばらくここで過ごすことにした。
 明日は、熊本城での太鼓コンテストを10:00過ぎから(16:00まであるが)見ることにしている。
 そして、明後日は、午前中に入院で、その翌日の午後に、手術となっている。まあ、手術の前に太鼓を見る人も、少ないに違いない。



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10月19日(金)の日記

2007-10-20 21:42:23 | Weblog
 佐伯市教育市民ホール「まな美」に行って、山下清の作品を家内と一緒に見に行った。
 彼は、大正11年(西暦1922年)3月10日、東京の浅草で生まれている。翌12年、関東大震災で自宅が焼かれる。3歳の時に重症消化不良症で3ヶ月もの間、高熱でうなされて歩けない程の重病にかかり、その為に、その後、軽い言語障害と知的障害が残ることになる。
 昭和3年に小学校に入学したが、周りからの虐めで苦しめられることになる。そして、父親死亡。昭和9年に養護学校に通うことになる。そこで、たまたまそこの学校が取り組んでいた「ちぎり絵」と運命的な出遭いをすることになる。その後、その世界にめり込んでしまった。
 昭和15年から14年間、突如、姿を隠して放浪の旅に出る。その理由として、養護学校が面白くなかったこともあった様だが、戦争に行くのが恐くて、徴兵検査を逃れる為が主な理由であった様だ。
 清は、その場で描くことはなかった。脳裏にしっかりと情景を焼き付けて帰って描いていた。そして、それに描かれたものは、本物以上にリアルなものであった。
 昭和36年に、約40日間のヨーロッパ旅行をしてその作品も残している。
 昭和46年に脳出血で亡くなり、最後の言葉は、「今度の花火はどこに行こうかな」であった。
 私が思うに、清は、他人の為に描こうとはしてなかったと思う。自分の苦しさを描くことで紛らわせていたと思われる。ただ描くことが彼にとっては、最大の喜びだったと思われる。ましては、有名人になろうとか、それで大儲けをしようとか、そんなだいそれたことは、清には、無縁だったと思われる。だからこそ、その作品に、清の素朴さがそのまま素直ににじみ出ていると思う。
 花火の絵が4点あった。清は花火がとても好きな様だ。桜島の作品があったが、桜島の本来の逞しさよりも、そこにはとても優しい感じで描かれた桜島があった。全てが、清の無の境地での作品だと思った。

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10月18日(木)の日記

2007-10-20 21:41:22 | Weblog
 午後に、前から諮問していた件で、市役所に行って国際交流関係の人に再び会って確認した。2年後のグラッドスト一ンに行って和太鼓をグラッドスト一ンの子に伝授すること、向こうの学校側は、全く問題なく歓迎とのこと。問題は、1ヶ月以上住む場所で、コンドミニアムらしきものは、グラッドスト一ン市の中心にはないとのこと。ホームステイになるのかなあ?
 その後、例の如くに市立茶室汲心亭に行った。偶然に水墨画を教わっていた先生に会って、茶室で話し込んでしまった。相変わらず、週2回、卓球の練習で汗を流しているとのこと。30人程の退職者ばかりでしていて、皆、ちっとも上達していない、それだから続いていると言う。旦那さんは、もう80歳で、もう(医者の仕事を)止める止めるとずっと言い続けて来ていて、今度は本当に止める気でいるみたいとのこと。趣味の剣道(現在7段)をしたいが為に。剣道には、型だけのものもあるとのことで、これをしたらと勧められた。
 大学受験の時、1期校の徳島大学に(今は、鶴崎で小児科を開業している)F君と自分が同時に受かっていたら、一緒に剣道部に入ってしていただろうに(二人で受験前にそう決めていたのだが)。
 たまたま西嶋市長さんが来たので挨拶をした(名刺を頂いた)。2年後の自分のグラッドスト一ン行きのこともしっかりとお願いをした。その時、来年から(佐伯でロケ)予定の西田敏行主演の「釣バカ日誌」の監督さんなどのスタッフが同行していた。
 19時過ぎに再び汲心亭に又行って、「佐伯篠笛の会」の人達と笛の練習を21時前までした。大分からわざわざ来られている先生(福原流)を含めて10人もが集まっていた。能楽堂で近い内に演奏家があるとのこと(私も1度参加したことあり)。
 先生は、「笛は、心で吹かないといけない」と何度も強調していた。勉強になった。

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10月17日(水)の日記

2007-10-20 21:40:28 | Weblog
 (前からの予定通り)タクシ一で、デイケア一の施設に行った。ボランティアなので、全てタクシ一代も自前。13:15から1時間程、篠笛中心で演奏した。いい汗をかいた。演奏後に、あるおばあさんから、「先生には、孫が土日によく入院でお世話になっていました。お蔭様でもう22にもなっています」と言われた。たはら小児科医院でのことらしいが、19床持っての毎日の救急での開業生活、それなりに感謝されていたんだなあと思った。8万4000人を有する佐伯市は、今、3ヶ所も小児の入院できる所がある。恵まれているなあと思う(自分が開業していた時には、自分の所を含めて4ヶ所だったが)。
 これで、一応、佐伯での演奏は終わりだ。病気の関係で、篠笛を中心に演奏した。手術終了後には、しばらくこんなことも出来ないだろうなあと思いながらも。
 人は、何か困難な事に出くわした時、4つの対応の仕方があると思う。1つは、耐える、1つは、周りと摩擦を起こす、3、内にこもってしまって鬱状態になる、最後の1つは、逃げるである。
 病気に関しては、逃げる訳にはいかないので、真正面からぶつかって耐えるしかない。仕事は、もう、真正面からぶつかる力はない。体力のなくなった自分にとっては、無理だと思ったら、逃げるしかない。趣味に関しては、いつでも辞められるので、それなりに耐えたり逃げたりかな。周りと軋轢を起こすことだけは、避けたい。
 佐伯に帰って、いろんな話が自分に来た。還暦を前に、22日からの2週間の闘病中に、周りを気にすることなく、ゆっくりと今後の生き方を再考してみようかなあと思う。


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10月16日(火)の日記

2007-10-20 21:39:16 | Weblog
 佐伯市福祉センタ一内になる医師会デイサービスに(前もって約束していた通りに)行って、13:30より1時間程、篠笛中心に演奏した。その後、医師会よりメイルの返事が来て、それには、「太鼓に引き込まれそうじゃった」「笛の音が心にしみた」「胸にズンズンきた」等の利用者の声が書かれていた。以前ここで同じ感じでした時よりも、自分が思うに、自分の演技力、確かに進化したと思った。
 その後、夕飯を早めに食べて、16時過ぎからお茶の練習に行った。何と、22時近くまでいた。その時間でも、自分以外にお弟子さん達が7人もいた。マンガ家の人や小学校の校長先生もいて、いろんな話が聞けて面白かった。又、自分のした話がとても面白かったとも言われた。
 肝心の茶道は、何とかしている内に思い出してきた。10月と言う事で、五行棚を使っての中置での風炉であった(11月から4月までが、炉)。濃茶は、(見るだけであったが)長いことしてないだけに、難しく感じられた(かって、修行寺で有名な佐伯市にある養賢寺での立派な茶室での茶会で、炉の濃茶点前をしたこともあったのだが)。やはり、芸事は繰り返していないと直ぐに出てこない。しかし、かなり長期に渡って体を使って覚えてきたことは、たとえ忘れてもその内思い出せるなあとも思った。

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10月15日(月)の日記

2007-10-20 21:38:29 | Weblog
 20分掛けて、「鶴見の太陽」なる介護老人施設に行った(かなり前からしっかりと約束していた)。予定の13:30より15分ぐらい前から演奏を始めて、14:25まで、演奏した。
 ミニマイクを付けてした。和太鼓演奏よりも篠笛演奏を主体にした。かって大分文化会館で大分の鉄心太鼓の演奏会で、ミニマイクを付けて「荒城の月」を演奏した時、とてもいい音色が出て演奏しやすかったが、再びそんな感じで、自分の音と思えない様な音色で、しかも、音響がとても良かった(この施設、今年の3月にオープン)。
 口ずさんでくれるお年寄りが多かった。施設長の先生も聞きに来られた。鹿児島大学での4学年上の先輩だった。前は、産婦人科医だったとのこと。理事長先生もわざわざ来られて、ずっと聞いてくれた。で、終わって皆の前で絶賛してくれた。嬉しかった。又、来年ここに来て演奏しようと思った。
 世間は狭いもので、前に勤務していた病院の看護師さんとバッタリ会って、お互いにびっくりした。又、佐伯の西田病医の時に一緒に仕事をしていた看護師さんが往復付いてくれて、いろいろ昔の話しと今からの話で話が尽きなかった。
 自分を見て、「先生は、昔と全然変わっていないですね」と言われた。又、「先生の様に、私も、今、大学に通っている。歳にもめげず自分なりに頑張っている」と言われた。
 今日は、とてもいい日だったかな。

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10月14日(日)の日記

2007-10-20 21:37:34 | Weblog
 臼杵に家内と行った。12:10の急行に乗り、30分で着いた(帰りは、夕食を摂った後に、19:07の普通車で帰った。行きと帰りでは、わずか10分余分に掛かっただけであった)。
 臼杵に家内と二人だけで行くのは、新婚旅行の時以来で(それ以外に、家族で行ったことがもう一度あり。宿泊の翌日の朝にテレビを付けると昭和天皇崩御が放映されて驚いた)あった。駅に着いて、まず臼杵城跡に行った。護国神社で自分の手術が上手く行きます様にとお祈りをした(その後、八坂神社でも念の為に又深くお祈りをした)。あちこち無駄なくフルに回った感じで、とても有意義に思えた。
 無料休憩室で休んでいると、偶然に目の前に、「雨」を題詠に俳句の募集をしているのを目にして、とっさに作って箱の中に入れた。小雨がちょうど降り始めていたので、「三度目に なお新しき 秋雨や」と。
 野上弥生子文学記念館に行って、野上弥生子の名前は、元は「ヤエ」であることを初めて知った。夫は、35才で法政大学教授になり、62才で学長にまでなっていたが、65才で亡くなっていた。野上弥生子は、99才までも生きて、直前まで執筆活動をしている。何故そんなに永い間元気に執筆活動が出来ていたのか、ずっと疑問に思っていた。
 昭和10年5月の「文芸」の中で、「夏目先生のこと」と題して弥生子が書いているのを見て、私なりに弥生子の人生観を以下の様に解釈した。
 文壇の野心は元々なかった。世間からどんなにはやし立てられても、そんなことは関係ない。ましてや、お金の為でなんかさらさらない。自分の作品を私が最も尊敬する(夏目)先生が良しとされること、それが最高の喜び。自分がどうしても書きたいと思ってこなかったなら、そんな感じでは一行たりとも今まで書いてこなかっただろう。
 彼女の生き方に私は深く感嘆し、謎が解けたと思った。
 最後に見学した「中国陶し所(1998年に設立)」は、素晴らしかった。中国の陶磁の起源を古代から清朝まで、ずらっとその作品を並べて説明していた。無料で係員が付きっ切りで30分余丁寧に説明してくれた。
 中国では、陶磁に書かれているバッタは、飛び上がり、ドンドン増えるので、いい意味の昆虫として描かれていた。又、コウモリは、害虫を食べるので有益な生き物であり、コウモリの中国語のニ字の下の発音が福と同じになり、福を意味するとのこと(日本では、コウモリのイメ一ジは、西洋のドラキュラのイメ一ジとダブってあまりいいとは言えないが)。
 今回は、臼杵の石仏は見なかった。次回の時に見に行くことにしたのだ。以前は、首のみが飾られていた仏像があって、それが印象的だったが、その首も、今ではその下がちゃんと付けられているとのこと。
 新婚旅行は、昭和51年4月の時で今から何と31年半前のこと、この時にはたまたま乗り物のストライキ中があって、新婚旅行は、高千穂と臼杵だけであったが・・・。
 31年半後、3人の子どもは、巣立ってしまって、又二人になってしまったが。


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10月13日(土)の日記

2007-10-20 21:36:39 | Weblog
 自宅がアチコチで故障が起きている。今回も、いつも頼む業者さんに直してもらった。一応、姑息的に直してもらったが、この先どっちもち根本的に直さないといけない。
 ニュージーランドに行った時に、そこにいた日本人との会話で興味を引く内容があった。その日本人、友達から家の庭の手入れをするのを手伝ってくれないかと頼まれて、勇んで手伝ったそうな。その後しばらくしてその友達に会うと、「いや一、あの時はお世話になって感謝しています。お蔭様で高い値で売れました」と言われた。「エッ!」と驚いて聞いて見ると、ニュージーランドでは、建てて間もない時よりも年数を経っている方が高く売れるケ一スが多いとのこと。何故なら、その間に住んだ人が不都合な所を修理して行くからとのこと。で、その際、庭の手入れもちゃんとして売ることになるとのこと。
 日本では、信じられない様な話だ。日本の家は、建てた時が一番高い。で、時間が経つと、どんどん下がって行き、売る時には殆ど建物の価値がなくなって、土地だけの値段となっている。下手をすると、家を壊す時の費用で悩まないといけない状態になっていることもある。それに、庭の手入れなんて、しなくても別に誰からも言われないが、ニュージーランドだと、周りから苦情が殺到してくる(貴方の家の手入れが悪いと、周りの家の価格が下がるとの理由で)。
 私の家は、昭和57年の11月に建てた。25年間、4分の1世紀も経ったことになる。ウサギからかじられて、1階は無残な姿になっている感じだが、そのウサギも、元気なくなって今や壊す力も前ほどなくなっている。子どもも家から一応巣立っているので、傷付ける人もいなくなった(建てた当時は、子どもが傷を付けると、こちらのハ一トが傷付いていたが)。
 家は、一生の買物として、とてつもなく高い買物。収入がこの先どうなるか解らなく、買った後でロ一ロ一ンで苦しむぐらいなら、いっそのこともう買わないと決めて、生活パタ一ンに合った住まいをその都度賃貸で求めて行った方が賢明な気がする。都会では、高い家を買うことなく、その分、毎日の生活をリッチに過ごす方を選ぶ人が増えているらしいが?!
 まあ、地震の多く、家が密集している日本ですから、ずっとそんな環境にマッチして初めに作っておくのは、かなり難しい感じがしますが。それに、外国と違って、相続税がドサットかかりますので。(私の場合、いい頃合を見ていつか自宅を売るつもりにしていますが)


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10月12日(金)の日記

2007-10-20 21:35:32 | Weblog
 昼間は、新しい携帯をしばしばいじくっていた。家内は、そんな自分を見て笑う。家内は、携帯を持ったことがない。本人に言わせると、その必要がないからだと言う。又、それに縛られるのがイヤだとも言う。家内は、茶道をしていても、何も許状らしいものは要らないと言って、何ももらっていない。
 私はと言うと、博士号も認定医もない。認定医はかって持っていたのだが、学会に行けなくて没になってしまった。自動車免許証は持っているのだが、車を買ったことがないし、(流行性角結膜炎の後遺症の関係もあって)もう乗ろうとも思わなくなってしまった。
 夕方、家内と一緒に買出しに行った。大きなスーパーに行くと、インドネシアの研修生が3人一緒になって買物をしていた。そんな3人に声を気軽に掛ける日本人は、まずいない。ここで自分がインドネシア語で話すと、向こうがびっくして事が進まなくなると思ったので遠慮した。ホントは、「スラママラン(こんばんは)」「ダリマナ(どこから)」「サヤスダプルギクバリ(バリに行ったことがある)」と言いたかったのだが。
 夜は、いつものパタ一ンで、余り良く切れないハサミで家内から散髪をしてもらった(以前は、息子からしてもらっていたが)。
 ウサギが元気がない。家内の話しだと、元気がない時には動かなくてじっとしているとのこと。そうしている内に、数日経つと又元の元気を取り戻すとのこと。その点、人間は、病気でも仕事をしているなあ。ウサギを見習わないといけないなあと思う。
 台風の時は、カラスがいなくなり、地震の時は、犬が走る方向に逃げればより安全らしい?動物は、危険を前もって察知して、それなりの行動が取れる。その点、人間は、行き着かないと反省しない動物だなあ。
 仕事をしないでボケッとしていても、いろいろ考える自分を知って、これもどうしようもない性分だなあと思った。


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