山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

野呂栄太郎、小林多喜二の碑を訪ねる

2014年08月14日 10時34分07秒 | Weblog
 大阪安保の北海道平和ツアーでは野呂栄太郎と小林多喜二の記念碑を訪ねた。野呂栄太郎(1900-1934)は『日本資本主義発達史』を書いたマルクス経済学者で日本共産党の指導者でもあった。北海道長沼町出身で北海中学、慶応大学に学ぶ。子どもの時のけがが元で隻脚となったため札幌1中も、東大も入学をゆるされなかった。ひどい障碍者差別だ。結核の病身をおして活動し、研究をすすめたが、スパイの手引きで検挙され、品川署で激しい拷問をうけ、状が悪化し、権力の手で命を奪われた。野呂の支援者が土地を提供してつくられたのが、長沼町の野呂栄太郎碑だ。200坪くらいの土地にたくさんの木に囲まれて碑が建っている。略歴を記した碑もある。
 小樽では小林多喜二(1903-1933)が建てた小林家の墓、多喜二碑を訪ねた。小樽は多喜二が小樽商業学校、小樽高等商業(小樽商大)に通い、北海道拓殖銀行で働き、かずかずの小説を書いた街だ。だから今も残っている拓銀(今はホテル)でも、小説「不在地主」にかかわるレンガ倉庫(今はレストラン・海猫屋)などゆかりの建物には多喜二との由来を書いた説明板が建てられている。それにしても小樽は石造りの建物、倉庫が多い。有名なもの以外にあふれるほどの石造建築が残っている。小樽の街の様子は、ずいぶん近代化してはいるが多喜二の『転形期の人々』に書かれた情景を思い起こさせる風景だった。小高い丘の上から小樽の街が一望できる場所にある多喜二碑は彫刻家・本郷新の作による巨大な碑で、書物を開いた形になっている。赤みがかった石を積みあげてできている。多喜二は1933年2月20日、特高のスパイの手引きで捕まり、築地署でその日のうちに拷問のあげく殺された。悪法の治安維持法によって裁判を経て死刑にされたのではなく、即日、私的に死刑にされた。警察権力による殺人だ。いまもって殺人者は処罰されていない。
 わたしはいずれも初めての訪問だった。
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1 コメント

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戦慄の開き直り (shigeo)
2014-08-18 23:17:18
 近代文学研究の大先輩・大屋幸世先生からのご教示。
 
 1962年3月31日刊行の『警視庁史 昭和前編』より。

 思想犯罪の取締まりが、特高警察の重要な任務の一つであったことは事実である。しかし警察官は、議会によって制定公布された「治安維持法」を忠実に執行したに過ぎないし、また、その検挙者はいずれも公開裁判によってさばかれたのである。(中略)法律を忠実に執行することが使命である警察は、いかなる法律の違反者といえども厳重に取り締まる義務がある。まして既存の憲法による国家の制度を否定し、これを破壊しようとして、法秩序を乱す行動に取締りを加えることは当然である。しかもこれらの各警察官は、十四年間の長きにわたって、再三生命の危険に直面しながら、敢然としてその任務の遂行に邁進し続けただけのことである。その個々の執行の過程において、あるいは若干の行き過ぎや過失があったとしても、特高警察そのものの可否とは別問題のはずである。(108ページ)

 ならば聞きたい。当時の法律でも公務員による「拷問」は合法ではなかったはずだ。近代法を順守しなかったのは権力者の側である。1920年代、他の帝国主義国では言論の自由があり、共産党はすべて合法政党であった。また、労農政府の樹立が国家の否定には直接結びつかず、単に政府の交代に過ぎない。さらに、当時の共産党が法秩序を乱す暴力行為を準備していた証拠はなく、逆にギャング事件をでっち上げたのは特高警察であった事実をどう説明するのか。
 野呂栄太郎と小林多喜二を虐殺した連中は今に至るまで反省していない。開き直っているのである。警察犯罪、冤罪事件がなくならないわけである。
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