昨日、十三の第七芸術劇場で「オッペンハイマー」を見た。東京では3月末から上映していたようだが、大阪では第七で8月からだったようだ。
3時間もの長編で疲れた。はげしいセリフのやり取りの連続で画面から目が離せない緊張の映画だった。
理論物理学者オッペンハイマーは、いわずと知れた「原爆の父」と呼ばれた人物だ。極秘「マンハッタン計画」によるロスアラモス研究所長に抜擢されたのは1942年10月。ナチスドイツが最初に原爆開発をするのではないかとの懸念が開発を急がせた。
映画では、オッペンハイマーと何シーンか登場するアインシュタイン以外は
役回りが十分わからず、はげしいセリフにほんろうされるばかりだった。1時間半を過ぎたころからアラモゴードでの原爆実験へと展開した。長崎に投下されたのと同型のプルトニウム原爆が完成し実験される。1945年7月16日明け方だ。車の中で実験を見守る職員もいるが、多くは分厚いサングラスをかけ、紫外線対策だといって顔にグリースを塗りたくるシーンにはおもわず「あほか」といいたくなった。問題は紫外線ではなく放射能なのに。体は痛くないのに、数時間から数日で死ぬ人が次々出たこともさらりと描かれている。しかし、このことはまったく深められないままでそんなシーンがあったこともわからいままだ。原爆の殺害能力は、熱線、爆風、放射能だ。30メートルくらいの鉄塔での爆発なので、爆風はそれほどではないというセリフがあった。距離は何キロもとっていたので見物人が熱線にやられた様子はなかった。実験原爆はTNT火薬3キロトンの威力だといっていた。
すでにドイツは降伏していたので、当初の目的には使えず、日本向けに使うことに。すでに戦闘能力をなくしていた日本をなかなか降伏しないといって、原爆によってアメリカ兵の命を救ったという言説が当初はアリバイ風に、戦後は大々的な国際法違反の無差別殺害を覆い隠すために使うようになった。今に至るも使っているので思考停止に陥っている。
広島、長崎に原爆が投下された。原爆実験に至る過程と実験の様子はその爆発のものすごさも含めて詳細に描いたが、実際の原爆投下の様子、投下後の悲惨な実態は1枚の写真も、1秒の映像も使っていない。この映画は一体何なのだと強く思った。過去の映像を借りることに躊躇があるのなら、同じ米軍が記録をとっていたのだから、その情報を映画に取り入れ、結果について議論するという映画作りは当たり前のことではないか。
でないとオッペンハイマーの戦後の苦悩と反省がどの程度のものか、十分伝わらない。オッペンハイマーは1960年9月日本を訪れた。記者会見で原爆開発の責任について、「苦悶の感覚は訪日しても変わらない」が、訪日は「この事業の技術的成功に対する私の責任を全面的に遺憾とするものでもない」と述べた。彼は訪日したが、広島も長崎も訪れなかった(坂口明「映画『オッペンハイマー』と原爆投下の実相」「前衛」2024年8月号194P)
オッペンハイマーは、1945年10月、ロスアラモス研究所長を辞任し、水爆開発には核軍拡競争を招くとして反対した。1949年彼を委員長とする米原子力委員会・一般諮問委員会は、水爆開発には反対しつつも戦術核兵器の強化を勧告した(坂口193P)。ここに彼の立場がよくあらわれている。
そのオッペンハイマーがヒステリックな赤狩りの対象になった。彼の恋人の精神科医の女性がかつて共産党員であったことから、彼もやり玉に挙げられた。ソ連のスパイだとまでいわれた。聴聞会の場面が長く続く。
原爆の惨害をどの程度直視したか不明だが、衝撃を受けたことは事実のようだ。しかし原爆開発は肯定し、核政策は推進する。広島には足を向けない。悲惨ではあるが必要なものだという認識だ。
問題は映画の描き方だ。被爆の実相はまったく触れない。原爆実験で顔にグリスを塗りたくって見物する、ロスアラモスの関係者でさえこんな認識だったことを象徴的に描く。戦後70数年の現在の認識からオッペンハイマーが抱いた苦悩を映像化すべきだったのではないか。だが、そういう姿勢がまったくなかった。