山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

戦後69年の8・15を新聞はどう迎えたか

2014年08月16日 21時38分17秒 | Weblog
 今年の8月15日ほど、どういう姿勢で迎えるかが問われた年はないだろう。いわずと知れた7月1日の安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定をふまえて、8月15日を位置付けることが欠かせないからだ。
 14、15と墓参のために石川県の田舎へかえった。15日朝、地元の新聞『北國(ほっこく)新聞』が8・15をどう迎えたかを知ろうと新聞を手に取ってびっくりした。1面トップが「命ある限り戦友 共に生還、金沢で余生」という見出しの記事だ。南方の激戦地から生還した90台の二人の元兵士が平和の尊さをかみしめ、命ある限り戦友の思いを胸に刻んでいるというものだ。
 2面の社説が大変な代物だ。「終戦記念日 確かな平和外交のために」という題のわずか760字の短文のものだ。ちなみに『朝日』は1800字、『毎日』は2080字だった。新聞がこの日をどう迎えるかは、社説の構え方にあらわれる。『北國新聞』の社説はあまりにちんまりして、まったく意気込みが感じられない。
 問題は内容だ。枕詞として「平和の尊さをかみしめ」という語はある。「戦火に散った300万人以上もの人たちの霊を弔い」アジアの国々に犠牲を与えたことを反省しと書いている。だが深まりはない。北海道新聞が8・15をめぐって掘り下げたキャンペーンをしているのとの落差は大きい。知性の差というべきか。ジャーナリズム精神の有り無しか。
 「霊を弔い」というのは特定の宗教的立場であって、新聞が社説で主張すべき言葉ではない。全国戦没者追悼式でも、天皇は「追悼の意を表し」と無宗教的立場で式辞をのべている。ところが安倍首相は、御霊、御霊と連呼している。あきらかに特定の宗教的表現だ。ちなみに浄土真宗は、霊の存在を認めないし、したがって慰霊行為はしない。
 『北國新聞』社説は、まえがき部分を除いた本論をすべて集団的自衛権行使容認にあてている。「閣議決定を行った安倍政権に対して、中韓両国側から軍国主義の復活とか右傾化といった批判がなされ、国内でもそれに同調する向きがある。それは正しい批判であろうか。」という。集団的自衛権行使容認を批判する国内世論を中国韓国に同調する動きとしてとらえる思考方法は、かつて米ソ対立の時代の右派ジャーナリズムのそれと同じで、前時代の遺物だ。中国韓国の顔色をうかがって発言する流れがあれば教えてほしいものだ。中韓両国がものをいうずっと前から、国内世論が沸騰していた事実ひとつとっても、まったく成り立たない妄言だ。
 「社説」は国際環境変化として、「力で国境を変える新帝国主義の到来という表現が誤りとはいえない事態が中国やロシアによってもたらされている。」と指摘する。『北國新聞』が帝国主義という用語をつかうことに新鮮なおどろきを覚えた。帝国主義は、19世紀末以降の、領土や資源を求めて他国を侵略する政策とその国家をさす。かつてのソ連は社会帝国主義というべきもので、そのあとを引き継ぐロシアが帝国主義的様相を示しているのは事実だ。『北國新聞』がロシアと中国を新帝国主義という新しい規定をしたのは注目すべきことだ。では、21世紀においても現役の帝国主義として君臨してイラクに侵略し(国連憲章違反)、他国の政権を倒し(国連憲章違反)、民間人を大量殺害した(戦時における文民の保護に関するジュネーブ条約違反)アメリカのことをアメリカ帝国主義と指弾しているのか。「社説」は「イスラム過激派の動きも形を変えた帝国主義の一種といえるかもしれない」と国家と政治運動との区別もしない混乱ぶりを示している。社会科学的にはまったくの音痴だ。
 「社説」は、「力を振りかざす大国から、小国はいかに身を守るか。その手立てとして国連憲章で認められているのが集団的自衛権であることをまず知っておきたい。」とのたまう。個別的自衛権は正当防衛的なものだが、集団的自衛権は自国は攻撃されていないのに、他国を助けるとして戦争を行うものだ。これは国連憲章をつくる過程で原案にないものをアメリカが押し込んでつくった。
 歴史的に集団的自衛権行使として行われた軍事行動はいくつあるか。国立国会図書館『レファレンス』(№696、2009年1月)の松葉直美氏の論文によれば、以下の通りだ。
 1)ソ連/ハンガリー(1956年)、2)アメリカ/レバノン(1958年)、3)イギリス/ヨルダン(1958年)、4)アメリカ/ベトナム(1965~75年)、5)ソ連/チェコスロバキア(1968年)、6)ソ連/アフガニスタン(1979年)、7)アメリカ/ニカラグア(1981年)、8)リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)、9)アメリカ・ヨーロッパ諸国・アラブ諸国/クウェート、10)ロシア/タジキスタン(1993年)、11)アメリカ/アフガニスタン(2001年)
 その多くはソ連のハンガリー侵攻、チェコスロバキア侵攻、アフガニスタン侵略、アメリカのベトナム侵略、ニカラグア侵攻に見られるように侵略戦争を糊塗するために集団的自衛権の名が利用されていることを我々は知らなければならない。
 戦争を放棄している日本が、他国に武力をもって介入する、戦争に助っ人として参加することが許されないのは、もとより明らかだ。
 「社説」が、「政府与党が限定容認する集団的自衛権の本質は、防衛のための抑止力強化にあり、戦争をするためのものではない。軍国主義の復活であるはずはなく、右傾化批判も的外れであろう。」とまでいう。集団的自衛権行使容認を秘密保護法、教育への国家的しめつけと重ね合わせると、安倍内閣が軍国主義復活を着実に進めているのは事実ではないか。またこれを右傾化といわずしてなんというか。安倍首相自身が右傾化批判を何が悪いと開き直っているではないか。
 これまで憲法制定以来ずっと集団的自衛権は行使できないという立場をとってきたのを180度転換したのは、戦争ができる国へ方向転換した以外の何物でもない。安倍首相は戦争はしないといっている。当たり前だ。真正面から戦争をするというはずがないではないか。これまでの近代の歴史の中で、侵略するといって戦争した国はひとつもない。みな自衛のためだという。アジア太平洋戦争の時も日本は自存自衛すなわち自衛のための戦争だといった。だが近代以降、日本の戦争はすべて他国の領土へ攻め込んで戦争をした。すなわち侵略戦争だ。
 戦争をしない、戦争をするためのものでないなら、そもそも集団的自衛権行使を認めるべきでない。
 歴史的転換点となった今年の8月15日を、深く思考することなく、安倍政権になりかわって憲法破壊を弁解、擁護することばを並べるのは、新聞のあり方としてなさけない。知性が感じられない。
 『北國新聞』は、7月1日の閣議決定に賛意を示した数少ない地方新聞だ。『福島民友』『北國新聞』『富山新聞』の三つだけだ。あとはすべこれを批判した。三つというが実際は二つだ。『富山新聞』は金沢にある『北國新聞』が製作・印刷・発行し、配達集金だけ富山でやっている「地元」新聞だ。部数は少ない。
 金沢はいい街だが、『北國新聞』の存在の分だけその文化的価値が下がっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする