山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

死刑容認高まる世論に宗教者の警告

2010年02月16日 00時17分54秒 | Weblog
 『毎日新聞』10・2・15付けの、法然院貫主の梶田真章さんの「死刑容認の『世論』に僧侶の責任を考える」という論考が目を引いた。
 死刑容認が85%と過去最高に達した。廃止論は5・7%だ。被害感情を考慮した厳罰論が高まっている。国連の死刑廃止条約にも日本は背をむけている。
 学校で死刑問題をあつかい、生徒に意見を書いてもらったその分布よりも世間の意見のほうが厳罰に傾いている。高校生ももちろん厳罰論が多数だ。だが廃止論は新聞調査よりはずっと多く、意見分布はバランスがとれている。廃止論の論拠は思慮深いものだった。
 梶田さんの文章には目を開かされた。引用しよう。「日本には平安時代、空海を援護した嵯峨天皇が818年に出した死刑廃止の宣言により『保元の乱』に至る約350年もの間、死刑が執行されなかったという近代以前の世界に例のない事実と、戦の勝利者は敵味方の亡霊を平等に弔ったという歴史がある。仏教は特定の対象に対する『愛』こそが、迷いや苦しみの原因(例えば、オリンピックでは喜びの種である愛国心が戦争の原因となる)であるとし、『同悲』の感情を通して、生きとし生けるものの上に拡がりゆく慈しみ」(増谷文雄)という『慈悲』の実践をとく宗教である。敵も味方も仏の慈悲によりすべて救われるという仏教の『怨親平等』の思想は、日本人が、自身の未来の成仏のために修行や信心に励む仏教徒であった室町時代前半までは浸透していた」「仏教では死者を安らぎの境地へ導くのは仏さまの慈悲心であり、加害者が死刑にならないと被害者が浮かばれないわけではない。」
 この基本に立って、僧侶の責任を論じておられる。これまでの死刑論議にはなかった、日本の国民的宗教である仏教の立場からの、死刑に対する問題提起であり、われわれにも理解できる内容である。死刑論議が深まる契機になればと思う。
コメント (1)
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