無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 酒田捕虜収容所

2024-04-14 19:59:35 | 酒田


貴方は「戦場にかける橋」と言う映画をご存知だろうか
1957年公開の英・米合作映画、第30回アカデミー賞作品賞受賞作品で、映画を観たことがなくても、このクワイ河マーチの曲は聴いたことがあるだろう。

1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったが、その1時間前に英領マレー半島のコタバレに日本陸軍は奇襲攻撃をかけた。
これらの緒戦で約35万人の連合軍捕虜達が、3年8ヶ月過酷な捕虜収容所生活を強いられる事になった。
中でも陸軍は、物資輸送に供すべく、1942年2月にタイとビルマを繋ぐ「泰緬鉄道・たいめんてつどう」416kmの建設を、連合軍捕虜達を使って進めている。
ジャングルと巨石を重機もない手作業での過酷な作業で、多くの死者も出した。

鉄道完成後は、「地獄船」と呼ばれる船に乗せられ捕虜たちは日本に向かう。
途中連合軍の魚雷攻撃にあって沈没する船もあり、多数が犠牲になった。
辛うじて生き延びた捕虜たちは旧満州や日本の捕虜収容所に送られた。
1944年10月3日、その内280余名は、門司港から東京を経て酒田駅に着いた。

 

戦場にかける橋 予告編:日本の隊長をあの早川雪洲が演じている。あのハンサムが・・・以下略



その当時、日本には130箇所の捕虜収容所があったが、山形県では唯一酒田のみ存在した。
酒田駅に着いた捕虜たちは、数日間駅前にあった酒田裁縫女学校(天真学園高等学校)の校舎に滞在し、酒田貨物駅や鉄興社、酒田市屠殺場などで労働させられた。
その後、10月18日には、染屋小路(現本町)の日本通運の倉庫に移動した。
(その場所は、後に日帰り温泉施設となったが、解体され現在はマンションが建っている。)



酒田駅に着いた捕虜たちは312人(英人248人、豪人26人、米人15人、蘭人5人)だった。
終戦までは18人の死者を出しているが、死因は病死が主だった。
捕虜たちの中で、英国と豪州の関係は微妙だった。豪州は英国の流刑地だった歴史が、彼らの立場をそうさせている。



日本の捕虜収容所の運営は、大抵が公営だったが、ここ酒田では日本通運が行っていた。
他所の捕虜の扱いとは違い、酒田では虐待もなく緩やかだったらしく、戦後のB級C級戦犯もここでは出ていない。
取り分け、捕虜たちは収容所勤務をしていた松本勇三氏と高橋忠吉氏の優しさには、恩を感じているそうだ。

初代所長の渡辺サトル少尉、2代目は終戦までの2ヶ月間の森兵司中尉。総務は小野寺軍曹と柴野軍曹、通訳は伊藤上等兵。
そして忘れてならないのが訪問医であった工藤八郎医師の存在だった。
工藤医師は「捕虜とは言えど自国の軍人と同じ待遇をしなければならない。」とした国際法ジュネーブ条約に基づいて彼らを扱った。


捕虜の一人、豪州人のドクターリチャード氏は、日本人にあれだけ苦しめられ、憎しみの塊だった筈が、
酒田の子供たちや市民も同じように貧困に苦しめられているのをわかったこと。
泰緬鉄道建設の苦しみとは別のレベルで、酒田の冬は辛かったこと。
労働に対する監視役や職員も厳しかったことなど、諸々の想いを持っていた。


それでも、特に2代目所長は、本来禁止されているが、捕虜たちを初孫(酒蔵)の工場につれていき酒を振る舞ったり、
当時貴重であった砂糖なども渡したりしたと伝えられている。
収容所の近所の市民も優しかった。敵味方無く接してくれた市民を忘れることはなかった。


ドクターリチャード氏(医学部を卒業しそのまま兵役に着いた)は、帰国以来何度か酒田を訪れている。

映画「戦場にかける橋」は1957年に制作されているが、日本で公開されたのは少し遅い。
宮野浦のAさんによると、酒田の映画館グリーンハウス(酒田大火で消失)でこの映画が上映された時、
泰緬鉄道の建設にあたった捕虜の方々数十人が酒田を訪れ、グリーンハウスで映画を鑑賞した。
彼らが酒田駅から帰国しようとした時、多くの酒田市民が見送りに駆けつけたそうだ。
今では捕虜達も収容所の職員も、もう鬼籍に入ってしまったが、次世代の人達との交流は続いているそうだ。


戦後生まれの酒田市民は、酒田に捕虜収容所があったことを知らない。
収容所跡地に、案内板や石碑の一つも掲げられていない。
自分たちの地域の歴史を大切にしない酒田人は恥ずかしく、悲しくないのだろうか。知らないことと済まされるのだろうか。


今回はそれを詳しく教えて下さった「POW研究会」会員の村田則子さんに感謝を伝えたい。
3年半をかけて編集された冊子も、驚くほど詳しくて、当時を知る市民の証言も載っている。
冊子は定価1000円(税込)で、本屋で扱っているかはわからないが、必要であれば上記に問い合わせをお願いしたい。



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