無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 4・5・6月予定

2024-04-08 16:25:40 | 歴史




尚、毎週月曜日の夜18:30からの鐙谷古文書研究会は、飽海地域史研究会の内部研究会になります。
こちらは毎回150円+資料コピー代50-200円(資料の枚数によります。)で、どなたでも参加できます。
古文書を読むだけでなく、小野寺先生の脱線歴史講義が面白いです。


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飽海地域史研究会 人物編 阿部千満太 

2024-03-29 17:59:35 | 歴史

阿部千万太は、文政4年(1821)鵜渡河原(現酒田市亀ケ崎)に、庄内藩足軽阿部多助の子として生まれた。
青雲の志止み難く、江戸に上り東條一堂に入門し、経史や国学を学ぶ。



同門の高弟鳥山新三郎と深く交わり、時事を学び、吉田松陰とも交わったと言う。
嘉永・安政の頃、北辺の外国からの危機を憂いて松前に渡り、幕府に建白書を送った。
上の書物は、阿部千万太が井伊大老と幕府に送った上書草稿3通を収めたもの。
井伊大老へは単なる文章だけでなく、国学的文章(和文)も入っていると言う。


阿部千万太の研究では、この水越主基氏の研究著書が面白い。


阿部千万太の生まれた亀ヶ崎に纏わる諸処が載っている。


江戸や蝦夷地へ行ったりと活躍していた千万太だったが、庄内藩が朝敵の汚名を着せられるのが許せないと、庄内藩に戻ってくる。


そして戊辰戦争に参加する。


戊辰戦争では、新庄にて酒井玄蕃と桂太郎は、刃を交える。
このとき、桂太郎は天下国家を語る阿部千万太を面白い人間と詠んだ。


しかし、阿部千万太は秋田県大曲で、非業な死を遂げる。
桂太郎にもう少しゆとりがあったなら、この間違いのような死は迎えなかっただろう。


阿部千万太の生家だそうだ。道路に立っているのは電柱のようだが、時代背景が分からない。ずっと時を下ってからの絵画なのか。


戊辰戦争の庄内藩のルート、酒井玄蕃率いる一軍と、松森胤保の率いる松山藩の二軍とのルートの違いが見て取れる。


庄内ではそこここに戊辰戦争の跡がある。


交流のあったとされる松下村塾の吉田松蔭。
建物は本当に小さいと言う。


戊辰戦争では、庄内藩とは真逆に徹底的に痛めつけられた会津藩


酒井玄蕃と桂太郎。可愛い顔貌の桂太郎は右上の顔へと変貌する。


大曲に阿部千万太の墓がある。


酒田にある阿部千万太の菩提寺は、小さい寺で墓も小さいと言う。



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鐙屋古文書研究会

2024-03-13 13:06:27 | 歴史

長い冬休みを経て、3月4日から鐙屋古文書研究会が再開した。
宿題がある訳でもなく、予習復習もせぬので、教えて貰った筈の文字が読めない。
困ったものである。

翌週の11日に、小野寺先生が木の箱を持って現れた。
史料が入った箱ごと買ってきたらしい。
酒田市内でも、ちょっと離れた場所の某家から出たもので、殆どが明治の頃の証文だった。



これは測量図のようだ。


その証文の束に混じって、面白い物が入っていた。
謝罪文なのだが、放蕩していた息子が家族に宛てた物で、後半には記名がなされている為に、その部分を省いて撮す。
しかも原文ではなく、途中に朱字で訂正されているように、もう一度書き直すように戻された物らしい。
書いた本人も、100年以上経って他人の目に晒されるとは思ってもいなかっただろう。
史料として残ると云うのは、ある意味恐いことである。

しかし、彼はいったい何をしでかしたんだよ~~!


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飽海地域史研究会・通史講座 種田山頭火と松山藩

2024-03-04 15:37:38 | 歴史


春のような穏やかな気候に慣れてしまった私には、3月3日の大荒れにはすっかり参ってしまった。
午前中の清河八郎記念館と観音湯の種田山頭火句碑見学をバックレ、午後の部の会場設営で12時半目指して車を走らせたのだが、雪の塊で凸凹状の道路には横滑りはするし、時間はかかるしで少し苛立つ。
5分遅れで松山城址館(松山能舞台のある施設)に着くも、事前に到着していたのは1名だけだった。

事務の方にイス・テーブルの収納箇所を教えて貰い、会場に並べる。
能舞台のある部屋は、通常の長方形にはならずに、参加人数と椅子を考慮して並べて行った。



小野寺先生が到着する前に、聴講者の方々が受付を済ます。
午前の部の走行距離を考えるに、無理があったのだろうと思われる。


前半は2022年7月に観音湯の脇に建立された「俳人種田山頭火句碑」に纏わる種田山頭火と酒田について、会長の小野寺先生と酒田観光ガイド協会の豊岡紘子さんよりお話を頂いた。
種田山頭火は奥の細道の松尾芭蕉に続けとばかりに、放浪しながら句を詠んだ。



田村寛三さんの『酒田ききあるき』によれば「昭和11年7月1日午前10時頃、酒田駅に山頭火が降り立った。
坊主頭白髪・髭交じりの55歳。背は高くロイド眼鏡だが生気はなく、駅を出て左折、かつての東急イン前を通り上日枝神社境内に入った。
30分も休むと天王寺町の方へ歩く。やまぐち屋という酒屋に入り、60歳位の店主にコップ酒を頼んだ。
山頭火は一気に飲み干し、今朝鳴子から来た禅僧で全国行脚をしていると話した。さらに一文無しで酒代のかわりに俳句を2・3障子紙に書いた。
「きみだるる旅もをはりの足を洗う」と。そして死にきれないので放浪の旅を終え永平寺に行こうと思うと述べた。」
やまぐち屋さんの山頭火の書いた句は、酒田大火の折に燃えてしまい、書としては残っていない。
残っていれば、1枚ウン十万円で取引されたろう等と、巷の雀たちはさえずっている。


酒田観光ガイド協会の豊岡紘子氏に種田山頭火の句碑について伺った。
 
観音湯の句碑は、「何故せっかく酒田に来たのに、酒田では山頭火の句碑を建てないのか。」と天童市に住む永岡昭氏は建立の為に奔走する。
永岡氏と豊岡氏は、顔見知りでもなかったのに、何故か手伝うことになる。句碑に描く2句の書も豊岡氏の手によるものだそうだ。
今回、本来なら永岡氏からお話を伺う予定だった永岡氏の体調がすぐれない為に代理となった。



後半は、会場が松山城址なので、松山藩の歴史を学ぶ。
松山には縄文遺跡も多々出ている。山際なので酒田よりも歴史は古い。
松山の總光寺は1384年に建立された。1604年頃に最上義光・志村伊豆守によって最上街道が作られ、最上川の位置とも重なり砂越同様に旅の要所となる。

正保4年(1647)酒井忠勝の遺領14万石から2万国を3男忠恒へ分知し松山藩となる。余目廻館や大江町左沢も松山藩の領地となる。


寛永8年(1631)に左沢領主直次が死去、寛永9年加藤忠広(加藤清正の庶子)が改易され、左沢領が松山藩のものとなる。
上の書状は左沢と松山藩とのやり取りのもの。
また、左沢では青苧が名産で、米に限らず青苧も最上川舟運の需要な荷物であった。


松山城の絵地図。


南面の拡大図だが、堀の内側には城代の御屋敷の他、家老であった松森胤保の居宅もある。


これは大阪城で、ここには藩主はおらず徳川幕府から派遣された城代が務めていた。
松山藩は延宝6年(1678)から嘉永2年(1849)まで、都合18回に渡り大阪加番(城代の支配を助ける警備普請掃除など)を申し付けられている。

 

移動から普請や人件費に至るまで費用は嵩んだが、持ち出し部分は幕府よりの合力米18000俵(6200両値)と差し引きすると黒字だったらしい。
かたや江戸詰めの庄内藩酒井家では、幕府名代を仰せ付けられることもあり、赤字の火の車だったのだが。


最後に酒田船箪笥の加藤涉氏より「酒田船箪笥を次世代に伝える」と題してお話いただいた。
マスコミを含めての動画は上のアドレスを参考に見てもらいたい。



加藤木工の加藤歩氏より、北前船に載せた金庫の役目をした酒田船箪笥についてお話を伺った。
河村瑞賢が西廻り航路を進める以前は、酒田から若狭湾、陸路から琵琶湖を通って大阪へ、大阪から再度船に乗り江戸へと1年3ヶ月の時間を要した。
西廻り航路では2ヶ月の輸送期間で済むことになった。

 

酒田船箪笥は製作の工程に、指物・金具・漆塗りがある。
この金具を作る職人が酒田では途絶え、製作中の金具は県外からの調達だった。
酒田船箪笥と言っても正真正銘のメイドイン酒田にはならないジレンマを抱えていた。
そんな折、加藤氏の苦労を知った県立酒田光陵高校の3年生達が課題研究にと、加藤氏との共同制作が実現した。
飾り金具だけではなく、錠前などの難しい部分も作り、完成させた作品を見せて頂いた。

 
実に頼もしいではないか。
次世代に期待をし、加藤氏の夢である「酒田を発展させたい」を実現させよう。



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飽海地域史研究会 人物講座 石川治兵衛 

2024-02-15 15:54:25 | 歴史


開始時間が15分早まったのかと急いで会場へ行くと、いつもは5~6人程度の聴講者なのに十数人が席に並んでいた。
農業に関する人物講座だったので、遠方からの参加者が多い。新庄市から3名、水戸市からの参加者もいた。
私は知らなかったのだが、山形県内の農業に関する取り組みは、全国的にはメジャーなのだそうだ。




前回の「後藤善治の日記より」で農業関連の講義、今回は遊佐町豊岡の石川治兵衛氏の「田植え型考案・篤農家と農業技術」の講義である。

嘉永5年(1852年)飽海郡富岡村に生まれた石川治兵衛は、農業改革として乾田馬耕の方式を取り入れ、青壮年10名で富岡改農社という農事改良グループを結成した。
それまでの田植えは縄張植えまたは型なしで見当植えをしており、除草機も使えずに苦労していた。
明治27年のある日、治兵衛は囲炉裏の灰の上で糸巻き機を転がすと、灰の上に跡が着いた。
これは使えると、改農社の面々で知恵を絞って、田植え型を考案改良を加えた。
写真左がそうである。


それ以前の田植えは、後ろ向きに植えていった。
縄を張って植える事もあったが、結構な重労働である。


田んぼをすくにも、人力から馬などの家畜を使う農機具に。


写真ではなく、池田亀太郎が描いた絵で残っている。
池田亀太郎と言えば遊佐町の青山邸で、青山夫妻を描いた絵も彼の作品である。
池田亀太郎は、鮭の絵で有名な高橋与一の弟子である。



明治26年、阿部亀治は冷害に強い「惣兵衛早生」種の一株内に、3本の変わった稲穂を発見、抜穂し4年かけて病気や害虫に強い固定種「亀の尾」を生み出した。
明治30年の冷害でも豊作で、明治38年の太平洋側の大凶作時に、多量の種子を宮城県庁へ持ち込んだ。
現在亀の尾は酒米として流通している。



その稲穂を見つけたのは、立谷沢村の熊谷神社に参詣した折の話である。
現在でも、その亀の尾と阿部亀治を参りする為、熊谷神社の人が多いと言われている。


農林水産省のHPでは、庄内平野物語として農業に関する話題が載っている。
石川治兵衛達の考案した田植え型は、明治の時代に一気に全国へ広がった。
その形は様々であるが、自動の田植え機など機械化が起こる前には、どの地域でも使われていた。

今回の講義でも、実際に農業を行ってきた方々の話も聞くことが出来た。


おまけ:新庄からのお誘い。


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芭蕉と種田山頭火・清河八郎

2024-01-30 10:56:25 | 歴史

と、その前に




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飽海地域史研究会 日和山公園

2024-01-24 17:50:13 | 歴史


令和5年、12月17日、飽海地域史研究会開催、事務局長が開始の挨拶


会長が挨拶と飽海地域史研究会の概要を説明。



今回の講師:(公立大法人)静岡文化芸術大学 名誉教授 阿蘇 裕矢氏だ。
彼は庄内の狩川生まれで、高校は酒田東に通うが、高校生デートのメッカである日和山公園には来たことがない。
大学は造園学科で、卒業して務めたのが建築設計事務所で、次はシンクタンクへ、そこから浜松市の大学の教授になった。


シンクタンク時代に、各地の公園作りに参加する。
地域で事を起こすには、その地域の歴史と遺伝子が必要。
同じものを造っても、馴染まない。


明治以前の行楽地には、何らかの花が咲いており、美味しいものを食べさせる茶店がある。


太政官公園は150年前から布告されている。
明治時代には、政府は欧米の都市の公園と言う施設を導入しようと寺や神社を指定した。
明治6年、最初に出来たのは東京の5箇所で、明治30年迄に82箇所が出来ている。


山形県内には、6箇所の太政官公園が指定されている。


日和山は300年前に景勝地として認められていた。


ただ、日和山公園には黒松はあるものの、花の記述がない。
近くに桜小路と言う町名(?)があり、公園には桜はなかったのかと思う。


政府は内務省や農政省を通して、各地の地目を把握しようとした。
勿論、税金を徴収する為である。あまりに新政府の税金の取り立てや役人の横暴が酷いことで、第1次酒田県(三島通庸)の時にワッパ騒動が起きている


日和山とは、全国各地に同じ名称の場所がある。
殆どは湊町で、船の運行や天気を見るために設けられた高台である。


酒田の日和山は国有地とされている。
米沢は何処から何処までが公園なのかわからない。


酒田は度重なる大火で、古文書が残っていない。
確たる年代がはっきりしないが年輪年代学で調べると、日和山には81箇所あるようだ。



昔の古い絵図や写真を見ても、常夜灯の周りにも木はない。


日和山は通称「あっけず山」と呼ばれている。
あっけずは酒田の方言でゴミのこと、しかし江戸時代の質素な生活を見ても、山になるほどのゴミが出るとは思えない。
大火時の残土やゴミなどを捨てて土を被せのではないか。


明治9年、明治天皇の御巡行では、両県とも道路事情が悪く、なかなかお出でになられない。
その間、公園を綺麗にせよと申し出に、急いで整理したこともあったようだ。


近代国家を目指す明治政府は、社会資本として公園を再開発し整備した。


次に公園としての危うい点、問題点を述べられた。
酒田市には142箇所の公園がある。その使われ方はどうだろう。
人を寄せるためと金儲けに走ると失敗する。
鶴岡と山形の例を話された。御殿堰は成功例。


文化とは、生活暮らし、風景、景観、緑に空気。
金沢市は町名を古い町名に戻す運動を起こす。
都市再開発で市街地と市街化調整地域を造って枠にはめようとしたが、人々は増えない。
逆に都市では屋上に農園や庭園を造っている。人の生き方が変わった。


隈研吾設計の豊島区区役所では、区役所の敷地を公園化して花、鳥、蝶を招き入れた。
日和山も行政に任せるのではなく、市民の考えも取り入れて、様々なアイディアを出す必要がある。
その為には、その町(酒田)の歴史をもう一度紐解く必要がある。
常夜灯、方角石、湊町・・・。日本で最古の物が残っている。


久しぶりに大学の講義を聞いたような満足感だった。
阿蘇先生のお話は歯切れが良く、良いことも悪いこともビシバシ伝わってくる。



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飽海地域史研究会 通史講座 酒田が生んだ人々

2024-01-22 17:05:48 | 歴史


時を遡ること令和5年10月9日、「酒田が生んだ人々・小倉金之助・土門拳・須階ときを」と題して、鶴岡市在住の阿部博行氏から講義を受けた。


ゆざ酒田歴史日めくりカレンダーより



庄内日報社 庄内の先人・先覚33小倉金之助より

庄内の有名な3名の話が聴けると喜んで参加した。
小倉金之助も土門拳も身近な人物なのである。


私の曽祖父、佐藤泰太郎は小倉金之助と従兄弟同士だと、以前から聞いていた。
阿部博行先生の講義が終わった後に、実は・・・と内情を話すと喜んでくれて、東京にいる金之助の孫の方と交流があるから連絡してくれる。とのことだった。

数日後に、そのお孫さんから電話を頂く。
ご母堂の法事で酒田へ行くので、会えないかと仰る。お互い身の上話などしていると、ご本人は早稲田大学の名誉教授だと仰る。
ええ~っ、高卒の私がお付き合い出来る人ではないと、泰太郎直系の本家に電話し内容を説明する。
小倉金之助の母方の親戚とは交流がなく、初めて知って喜んでおられる由を告げて、私とバトンタッチして欲しい旨を伝える。
「えっえ~~!」私と同様の驚きの声と共に、見事に断られた。

酒田に父方の従兄弟がいるとして、東京都との連絡はその方にお願いすることにした。
その間、1-2回は連絡が着いたのだが、その後のやりとりがなかなか着かない。
酒田プランの冊子が手に入ったので、細々と手紙を書こうと努力するも、私の無教養が災いして進まない。
ようやく纏めて速達で送ったが、その頃には東京の方は急逝されていた。
「連絡が着かないのが、悪い方向に行ってしまった。」と従兄弟の方は嘆いておられた。
お葬式は年が明けてから、もしかすると酒田で行われるかも知れない。
生前、お電話でのやり取りに、「自分も歳だから、いつまでも生きている訳ではないし。」の言葉が最後となった。
会えなかった私が悪いのだけど。


さて、話は変わって「土門拳」は、幼い頃同じ町内の台町に住んでいた。
私の祖父は彼のことをよく知っていた。なかなかの悪ガキだったそうだ。
ある日、「土門拳が俺と今野屋靴屋さんの写真を撮した。」と祖父が言うことがあった。
「ま~たまた、冗談だろう。」と家族は信じなかった。


後日、写真集に載っていた。



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松森胤保・ギャラリートーク

2024-01-21 23:03:24 | 歴史


1月20日、酒田市松山文化伝承館で、松森胤保のギャラリートークが開催された。
講師は松森胤保の子孫で、鶴岡市で写真館を営んでいる松森昌安氏である。
通常知られている胤泰のこと以外に、身内ならではのことも話された。


今回の講演のタイトルだが、ここに面白い物が載っている。


写真に映っているのは月山である
。空中に凧のような物が浮かんでいるが、これは松森胤保が考案した飛行機なのだそうだ。
彼は2年間、山形県の県議会議員だった。松山から山形に通うのに、道路を使うのは遠くて大変。
月山をひと跨ぎする飛行機を作ろうと考えた。
彼は日本のレオナルド・ダ・ビンチだった。


松森胤保の41才で最初に写された写真である。

文武両道で戊辰戦争の切っ掛け、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした2年前に撮された物。
後の学者風体の写真とはあまりに違う。凛々しいイケメンなのである。

彼は子供の頃から動植物、石、石鏃(石で出来た矢じりなどの武器)を集めるのが好きで、牧野富太郎よりも先に植物採集し絵に認めていた。
元々鶴岡の金峰山近くの長坂家に長男として生まれ、鶴岡の致道館で教育を受ける。
剣術、槍、鉄砲術にも長けている。
松山城で家老になる。家老の権限は鉄砲を自由に使えること、ほぼ毎日のように鉄砲撃ちにでかけた。
撃った獲物(鳥)は、精密画にして残す。彩色してあり見事な出来である。

戊辰戦争では連戦連勝で、横手・角館など数々の城を落とす。
久保田(秋田城)に迫ったが、城主から帰国の命を受け戻っている。
松山城の城主から松山を守ったとして、松守の名字を授けられるも、恐れ多いと辞退しつつ、後に松守を松森に変え名字とした。 

政治の世界を終えると、自分の好きな分野(多才すぎるのだが)工学から建築、自転車、自動舟、飛行機、織り機(これはアイデアを売ったらしい)天文学、地動説、もう汎ゆることに興味を示し、本に認めてある。



松森胤保の展示室を抜けると、彼に関するクイズ15問があって、満点だと何か貰えるらしい。
外れた場合もカードを選んで貰えるらしい。で、挑戦する。
見事にカードだった。41歳の松森胤保の写真をゲットする。


松山城の門の上に、お月さまが見えた。



何の実だろう。





会場の駐車場から、鳥海山の端っこが見えた。
こんなに綺麗なら、撮さねばと追いかける。




もう少し時間が経つと、夕日を浴びた赤い鳥海山になるのかなと思う。


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飽海地域史研究会 人物編 後藤善治の日記より

2024-01-21 22:20:10 | 歴史

1月19日金曜日の夜、総合文化センターは混んでいた。
普通の教室には入れず、和室での講義で、襖で仕切られた二間続きの和室は、隣も賑やかだった。



この回は飽海の人々と新庄からの3名も加わっていた。
暫く飽海地域史研究会の説明が続く。


1年半の飽海地域史研究会の歴史(?)が説明される。


そうか、こんなに勉強したのかって、私がサボった回もある。


庄内、飽海に住んでいて、地域の著名な人を知らない。
左から、清河八郎、本間郡兵衛、松森胤保。


今回は、農業社会学に貢献した豊原村の「後藤善治」についてだった。
残念ながら、まったくもって彼のことは知らなかった。
農業社会学の観点からすると、全国的に後藤善治は有名なのだそうだ。

善治は明治11年、伊藤巳之助・芳の次男として誕生する。その頃の農家の次男三男は若勢として別の村の農家へ雇用される。
元禄の頃から給米として若勢やめらし(女性)に、払うようになっていた。
農家の長男は通常、農家の田畑を継ぐ。次男三男は外に出る。
しかし、牧曽根村を始めとする庄内は、男子にではなく女子に跡を継がせ婿を取る。
若勢はめらしと一緒になることも多かったが、善治は優秀で後藤丹蔵家の芳江(幼名鉄代)と夫婦になる。


後藤善治は明治26年から晩年の昭和11年まで、事細かに書いた善治日記が、貴重な農業の日誌として全国的に知られるようになった。
日々の暮らしの他、天気もしかり、非常に重要な史料となっている。





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飽海地域史研究会 飽海人物講座から

2024-01-17 15:32:31 | 歴史
11月24日の人物講座では、携帯を忘れて講座の様子を写すことが出来ず、
12月22日の人物講座では私の不得意な女史の写真がデデンと資料に載っていたのでスキャン出来ず。なんとも不運。
しかし、2つの講座の関わりが深かったので、一緒に書き上げることにした。


酒田奉行所は4つの建物があり、長屋門、中元、座敷(公的場所)、奥(住宅)に別れている。
座敷では、吟味、町奉行所、代屋(村役人)、町役人の居る場所があった。
(この他にも仮の牢屋があった筈だが)(御白州は冬でも外だろうか。)

11月24日は、「酒田町奉行と足軽目付御用帳の女性」だ。
現在は奉行所跡地しか酒田には残っていないが、史料として奉行所の平面図が残されている。

また、酒田町奉行が置かれた元和8年から、幕末の慶応まで歴代の奉行の名もきちんと残されている。
有名な改革をした奉行も、途中で罷免された人物もいて、給料の石高も様々である。

酒田町奉行の中では有名な掘季勝を例にあげてみよう。
彼は宝暦3年小姓でデビュー、宝暦6年近習、宝暦9年書院目付、明和3年郡奉行(農政)、安永3年鶴岡町奉行、安永4年酒田町奉行となる。
天明6年江戸留守居となるも急逝する。(享年53才)
酒田町奉行の間、町民にも教育や読書が必要と、酒田の上野屋三郎右衛門に貸本屋を開かせる。
自らの著書も多い。
この中で足軽目付御用帳の足軽だが、身分は武士である。
庄内藩には100石の家中から7石の給人まで武士がいた。
この給人のうち徒士(かち)は土地を貰う、米を貰う足軽や若党。
その下に中元や小者と呼ばれる者がいた。

奉行の下には数名の同心(庄内には与力はいない)がおり、その下に目明かしがいたが、この目明かしは武士ではなく町民である。
ちなみに、酒田町奉行はエリートなのである。

また町中には、現在の交番に繋がる辻番所があり、自身番は町の予算で運営されていた。
天明7年、浜温海村生まれの女性Aは、親兄弟も亡くなり独身(親の名も知らず)番所の壁に釘を打ち自死した。その取調べ書が残っている。
若い頃から奉公先を転々と変えられ、苦労に苦労を重ねたようである。


出版されている「足軽目付犯科帳(高橋義夫著)」は、酒田に残る史料(天明7年から明治2年まで)を読み解き、著書にした。
中に載っている犯罪では、盗難が最も多いが殺人は少なく、詐欺、汚職、喧嘩、見世物興行まで書かれている。
盗難では、現在なら金目の物や現金などが主流であるが、この江戸時代はまさかこんな物までと思える物が盗まれている。
食べ物(米や大根)、鍋や釜、布団や着物と言った生活必需品だ。
厳罰に処す事もあるだろうが、通常は所払いである。
ただ悲しいかな、何年かすると、そっと戻ってくる者も多い。


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さて、次は12月22日の「飽海の孝女達」である。
これに関しては、庄内の孝心者「きらめき」と題した杉原先生の著書でも内容を知っている。
幕府が中心となって、世の中の孝心者を調べさせ、その孝行に従い褒美を取らせている。
「きらめき」では、あまり悪い部分はぼかして纏めてあったが、小野寺先生が見つけてきた史料の「台町・清右衛門妻みや」では、あまりの酷さに驚いた。
借金をした兄の後を追って清右衛門も松前(北海道)に出稼ぎに行く。
その前に自分の家の女中であったみやと婚姻するも、病気の両親の介護や妹の世話諸々をみやに預けて行く。
みやは両親を看取り葬式も出す。幼い妹も娘に成長させ自分の着物を与えて嫁入りさす。
清右衛門との間に生まれた娘を育てながら、手間取の仕事をし、家族を養う。
婚家が火事に見舞われるも、一生懸命働いて借金を返す。その間一度も風呂屋に行ったことがなかったと言う。
風呂賃をも貯め、行水で忍んでいた。食事も我慢して家族を養っていた。
松前の清右衛門は家に仕送りすることもなく、逆にみやが品物など送っていた。
清右衛門の兄はどうしようもなかったが、清右衛門自身も松前で入婿に入り子まで作っていた。
16年後、清右衛門は酒田に戻って来る。みやは孝心者としてご褒美を貰うのだが・・・・。
なんだよ、これはよ~!!



女性の地位が低かったと言いたいのだが、この低くなったのは戦国時代から江戸時代にかけてである。



平安時代は、女性の本名を名乗ることは、結婚を承諾した意味にもなり、男性の名の下に妹やら娘などと表現することが多かった。
それでも、日本の女性は生き生きと暮らしていた。結婚も現在の制度とは違う通い婚であった。


近世になって身分制度や家長制度と共に男尊女卑が定着する。
女性は一歩弱いものとしての扱いであった。


それでも、自立する女性たちはいた。自ら商売をし、町中に出た。
近世遊郭では好事的、芸能史的に語られている。


洛中洛外屏風には、様々な職業の人々が映っている。


歌舞伎の創始者は出雲の小国(女性)である。


葛飾北斎の娘、葛飾応為の「吉原格子先之図」
応為は北斎の三女で、本名はお栄。北斎は娘を呼ぶのに「お~い!」と呼び、雅号が応為(おうい)となった。
絵師として北斎も認める腕前で、北斎の画業をも手伝って最期を見守った。
一度嫁ぐも、思ったことをすぐに口にする性格が災いして、三行半を突きつけられ生家に戻る。


江戸末期ともなると、学問の上においても、男性も舌を巻く女性が現れる。



小野寺先生はジェンダーを取り上げたが、現在は悪法であるLGBTの時代である。
その上、メリークリスマスを言っては行けないだの、父や母と言ってはいけない世の中になりつつある。
結婚をしない若者が増え、男女の区別どころか、男でも女でもない人が増えた。
USAでは、それを小学校のうちから量産しようとしている。

人間生活に欠かせない、最も小さな集団の家族が消えようとしている。
その転換期を、我々は体験しているのだ。


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飽海地域史研究会人物講座5 本間光美の日記を読む

2024-01-12 17:14:08 | 歴史

本間光美は本間家の第6代当主で、彼の日記から幕末激動期の本間家と酒田県、明治政府の動向 が判る。




本間家系図は酒田市史5に載っている。
しかしこれをSNSに載せた所、本間家分家本間新四郎の系図が間違っていると指摘される。
過去にも史資料編纂室(?・もしかして酒田市役所)の方にも指摘したが、訂正はされていないと言う。

本間光美は天保7年(1836)に、5代光輝の次男として生まれている。
天保と言えば連想されるのが天保の大飢饉だ。気象異常冷夏と洪水などで、1833年から1839年頃まで続き、特に東北では飢餓で村が消えた。
天保8年、大阪では大塩平八郎の乱が起きる。
庄内藩では備蓄米や本間家の蔵からの放出米で、餓死者は出なかったと言われている。
天保11年には三方領地替で庄内が揺れた。それを阻止した領民の力の記憶は、その後の事件でも役に立つ。
慶応3年、江戸市中取締を命じられた庄内藩は、悪さを繰り返していた薩摩藩邸を焼き討ちする。
戊辰戦争が始まり、奥州列藩同盟が崩れていく中、明治元年に降伏する。

明治元年9月、明治政府は酒田城に軍務官・民政局を置く。
最上川を挟んで川北は羽後となり、秋田県の一部も含めた酒田県となった。

さて、昨年の9月9日に遊佐町で行われた庄内・由利古文書研修交流会で配布された「建白書」なるものが面白い。





上の4枚は解読文だが、小野寺先生の弁によると、誰が何時書いて何処で保存していたのかが解らないのは、史料として不適当とのことだった。

せっかく酒田県が出来たのに、そこにやって来た役人達のあまりの傍若無人ぶりに、領民が政府に役人達を罷免して欲しいと申し出た。
賄賂要求に強請り集り、遊女狂い、酒田市中の飼い犬を殺して食料にしたとも書いてある。(八頁)
東京には領民4人が出向き、直訴する。



明治2年、東京から呼び出しを受けた本間光美は、東京に向かう。
その模様が日記に詳しく書かれている。
政府会計局は、政府不足米126万5310石あり、外国の応接が急務で金を奉献せよと言う。
本間家では江戸市中取締でも大枚がかかったのでと断るが、「あなたはいつも庄内藩のことのみ申し、金も出さない。」と言われる。
光美は「4~5万両なら出せる。」と6月9日に5万両献金を命じられる。

この時、庄内藩を会津若松か岩城平へ転封、本間家も同様と脅される。
10万両払えばとか見込み30万両、ついには50万両を出せと言われる。
光美は大隈重信と面会し、転封は献金で阻止できると聞かされる。

酒田に本間家がなかったら、大変なことになっていたのだなと思う。
過去に田村寛三さんからお聞きした本間家と山形県令の話を思い出した。




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飽海地域史研究会 令和6年1~3月の講座

2024-01-11 15:04:45 | 歴史


飽海地域史研究会の一般講座は、当期間はお休みし3月から再開される。



鐙屋文書研究会も同様だが、新たに始まった「飽海人物講座」は、隔週金曜日の夜に行われている。
予約なし、ただし参加料200円(資料と室料)が必要だ。






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飽海地域史研究会 院内銀山

2023-12-27 17:21:18 | 歴史


12月8日、飽海地域史研究会の人物講座で「シルバーラッシュに挑む酒田人」~院内銀山奉行日記から~が行われた。
院内銀山奉行は、秋田藩佐竹義宜の家老「梅津政景」で、生まれは宇都宮。
佐竹家が秋田(久保田城)に移動と同時にやってきた。
彼の日誌は実に詳しい。


江戸時代、日本は黄金の国ジパングと呼ばれ、世界中の国から憧れを持たれていた。



院内銀山は秋田県の南部で、山形県金山町との県境近くにある。



銀山が発見されたのは、1607年で採掘された銀の一部を、1614年に上納銀として988kg納めている。
丁度志村伊豆守が酒田を治めていた時代である。


地震国である日本は災害も多いが、金や銀も多く産出される国だ。


黄金は奥州平泉の黄金堂に代表されるように、東北でも採れている。
1817年、秋田藩直営となり、天保期(1830年~)には日本一の銀産出量となった。


石見銀山は世界遺産ともなり、世界的には有名で、一時は世界の銀の1/3を産出していた。
室町から江戸期に多く産出していたが、現在では取れなくなっている。



院内銀山には、全国から15000人も人がやってきた。
彼の日誌には、銀山の採掘に集まった全国各地からの人々、それに混じって何名かの酒田人の名前も、事細かに載っている。






彼らは炭窯(銀脈が見つかり掘ることが出来る権利)を持ち、数名の堀子を働かせ、銀を掘った。







院内銀山には、銀を掘る男達の為に町が築かれ、町人商人が集まった。


鍛冶屋、桶屋、番匠、檜物師、湯屋、酒屋、石叩き、板取、傾城屋(遊女)、神官、僧侶、切蕎麦屋、商人がいた。






さながら心霊スポットかと思われる程の雰囲気があり、一人では行けない土地のようだ。


右の門屋の銘のある墓は、ここに留まって怪我人達の治療に応った医者のものである。



見事銀を掘り当て故郷に錦を飾ろうと、頑張った男達や女達、しかしそれも叶わずに院内銀山で生涯を閉じた人々は、
墓地に葬られたが、その数がまた半端ない広さと数である。。

飽海地域史研究会では、初夏の頃にもツアーを組んで院内銀山に行きたいねと話し合っている。


銀は採掘する際に不純物が含まれている。
それを順々に精錬し、純度を高める。




古銭




日本の貨幣で小判と言えば金貨だが、実は銀も多く使われた。
特に酒田は銀使い(大阪などの上方も同様である。)
また、中国も銀使いで、室町幕府は銀を輸出した。








秋田藩には家蔵文書が残っており、秋田藩以外の事も詳しく知ることが出来る。
戦国時代を知るには、必要な古文書がきっちりと保存されている。


梅津政景日記も、秋田県立図書館の脇に公文書館があり、そこに保存されている。
羨ましい限りだ。




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城輪柵の発見から史跡指定へ

2023-12-22 17:09:43 | 歴史


11月3日の飽海地域史研究会「城輪柵の発見から史跡指定へ」と題された講義の模様である。
講師は東根市の石井洗幸氏、小野寺先生の後輩で長らく小学校の教師をされていた。
教え子達の集まる同級会では、算数や国語より歴史を語る先生のイキイキ度が凄かったと言われている。



庄内には幕府領が3箇所あった。(鶴岡の四百年祭の冊子赤本が詳しい)
古い史料を見ていたら、昭和6年に城輪柵の発掘が始まったと記されている。
7~11世紀、大和朝廷が蝦夷との戦いの為に柵を設けている。
図は、色別になっているが、年代ごとの勢力図である。
7世紀では山形県の南を掠めているだけだが、8世紀では秋田の男鹿半島付近まで伸びている。
9世紀では白神山地まで、このような区割りになったのは、陸の道路を移動するよりも、海を船で渡った方が早くて便利だった。


この発掘に最も貢献したのは、松嶺町生まれの阿部正己氏である。
彼は東北の古代史の草分け的存在で、特に飽海史では有名である。
彼はここで埋もれた大木の発掘をした。
これは国分寺跡ではないかと考え、文部省の史跡調査官の上田三平氏に連絡を取る。



丁度その頃、上田氏は秋県払田柵の調査にあたっていた。


阿部正己は昭和6年、上京し文部省の上田三平に会い、彼の調査した資料を渡し、出羽国分寺跡ではないかと告げる。
上田三平は後日秋田より庄内に訪れる。


阿部正己は出羽国分寺跡として疑わなかったが、上田の考えは違った。


阿部正己は冊子を作って出羽国府跡と公表する。



昭和7年に山形県議会での講演が冊子になる。


埋もれた木材の発掘。


掘っ建ての跡。


柵の埋もれた細かい木材から、大きな建物の柱ではないかとされる丸太跡も見つかる。


均等に並んだ柱発掘跡。


続々と発掘される。


庄内では城輪柵以外にも、数箇所柵跡が残っている。
大山でも電車の線路工事の際に、昨跡が発見されている。
国分寺ではないかとされていた八幡の柵は有力だが、国分寺は何度が移転を繰り返している。
調査官であった上田氏は、城輪柵は秋田の払田と同様、柵であって国分寺ではないと結論を出した。
学閥の大物学者達も、出羽柵は時期尚早であると意見している。


オバタケでは、柱や瓦も出土している。
瓦の模様は奈良のその時代のものに似ている。


城輪柵付近の航空写真


各地に国分と呼ばれる地名があるが、それは必ずしも国分寺跡ではない。


蝦夷との戦いには、下野国辺りから、東山道を通って鎮兵がやってきていた。
出羽の柵を作っただけでなく、派兵もされていたのである。
それを示す木簡が発見されている。


昭和6年、阿部正己、喜他貞吉、上田三平、本館村の人々の熱意は凄まじく、昭和7年国指定の史跡となる。
まれに見るスピードで進められた。




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