遊佐町でPaypayで20%バックを行っているので、ガソリンを入れに吹浦まで走る。国道7号線を走っていると、遊佐比子IC付近から日沿道の工事が最終段階になっているのが目に見えて分かった。
舗装も標識の取り付けも終わっていて、あと何が残っているんだろうと思うほどだった。
遊佐比子ICから遊佐鳥海ICまでの開通日は、3月23日である。
遊佐町長の時田さんに見せたかったな。どんなに喜んだろう。
さて、令和8年度(2026年)までは、秋田県との県境は繋がるが、ずっと後から計画されていた山形中央道路の金山以北は、令和7年度に横堀道路と新庄金山道路は開通する。
つまりは追い越されたって訳なのである。
国交省による令和6年能登半島地震 専門調査結果(中間報告)が発表された。
新耐震(阪神淡路大震災以後に改訂された)で設計された橋梁などには、大きな被害はなかったが、それ以前の設計の物では被害が大きい。
建物の被害では、地域的な特徴の屋根瓦の古い民家の破損と、海岸部の津波が影響したと思う。
ただ、いくら建物を堅固にしても、地面が亀裂や隆起しては自立することは不可能だ。
ただ、いくら建物を堅固にしても、地面が亀裂や隆起しては自立することは不可能だ。
技術の進歩も、歴史を学ばねばどうにもならない。
元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道を旅した。酒田から秋田の象潟へ行った頃は、その名のごとく東の松島と比較される九十九島が潟に浮かんでいた。
文化元年6月4日(1804年7月10日)の象潟地震によって数メートルの隆起で、島々が地面に浮き上がった。
現在は田んぼの中に、松の木の生えた島々が点在している。
元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道を旅した。酒田から秋田の象潟へ行った頃は、その名のごとく東の松島と比較される九十九島が潟に浮かんでいた。
文化元年6月4日(1804年7月10日)の象潟地震によって数メートルの隆起で、島々が地面に浮き上がった。
現在は田んぼの中に、松の木の生えた島々が点在している。
日本列島は生きていて、その時々に姿を変える。
その上に、我々日本人は住まわせて貰っているのだと言うことを再認識せねばならない。
山形市の文翔館で展示されていた県内高等学校建築設計デザインコンクールの片付けと理事会に出かけた。
片付ける前に、作品を撮影する。
文翔館での展示は終わったが、3月1日から12日まで県議会議事堂ギャラリーで、引き続き展示される事になった。
年々作品の技力は増して「本当に高校生?」と思えるほどの完成形しかも粒ぞろいな事に、嬉しい悲鳴を上げている。
ここ数年、新庄神室産業高校が群を抜いて成果を上げていたが、素晴らしい作品を見比べることによって一部では「打倒!神室」の声も聞こえるとか。
とても良い傾向だなと大人たちはほくそ笑む。
この県内高等学校建築設計デザインコンクールは、山形県建築士会が71年間に渡り続けている事業である。
まずは模型部門から
優勝:由布市ツーリストインフォメーションセンター
山形県立新庄神室産業高等高校
準優勝:彫刻の森「ネットの森」
山形県立山形工業高等高校
優秀賞:日本平夢テラス
山形県立山形工業高等高校
優秀賞:新・鶴岡工業高校校舎模型
山形県立鶴岡工業高等高校
優秀賞:清水寺 外観模型
山形県立鶴岡工業高等高校
優秀賞:落水荘 外観模型
山形県立鶴岡工業高等高校
優秀賞:浄土寺浄土堂
学校法人山形電波学園 創学館高等学校
入選:さくら保育園
山形県立山形工業高等学校
入選:清水寺
学校法人山形電波学園 創学館高等学校
入選:モダンハウス
学校法人山形電波学園 創学館高等学校
●次に設計部門
優勝:いさこい~ただいま。おかえり。私が帰る家。~
山形県立鶴岡工業高等高校
準優勝:冒険の旅 ~酒田市保育園留学計画~
山形県立鶴岡工業高等高校
優秀賞:雪を利用した施設
山形県立山形工業高等高校
優秀賞:自然と一体になる美術館 ~「地域交流のかなめ」となる新しい美術館のかたち~
山形県立山形工業高等高校
優秀賞:「CONNECTION」(「旅」の発信拠点としての米沢駅)~アジアのアルカディア(桃源郷)を世界へ~
山形県立米沢工業高等高校
入選:団地再生計画
山形県立山形工業高等高校
入選:いつでも元気な商店街を ~銀座通り活性化計画~
山形県立鶴岡工業高等高校
入選:在宅ワークのための住宅
学校法人山形電波学園 創学館高等学校
↑クリックすると結果やプレゼン動画が見られる。
令和5年11月10日、全国75校131点から集まった作品が、一次審査で11校に絞られる。
令和5年12月8日、1次審査を通過した11校のプレゼン動画による最終審査が行われた。
山形県立新庄神室産業高等高校は、「まちなか農家 農業でつながる地域コミュニティ」の作品で、女性委員長特別賞を受賞した。
山形県内予選での作品から
「万緑一紅」~福田農場改革計画~ 山形県立鶴岡工業高等高校
「愛情」~刺し子で繋がる未来~ 山形県立鶴岡工業高等高校
文翔館から眺めた県民会館跡地は、綺麗に更地になっていた。
「もう閉店しているかも。」と諦め半分で向かった村山市の「昆布巻きの東園亭」は、辛うじて間に合った。
X(旧Twitter)で見かけた若旦那のコメントが面白くて、内陸に行ったら寄ってみようと思っていた。
昆布巻とニシンと昆布煮を買い求めた。「初めてなんでしょ、これもあれも・・」と色々試食を出してくれる。オマケまで貰った。
昆布煮は美味である。
2月11日、酒田市総合文化センターで開催された武田邦彦市民講座「教えて武田先生!!洋上風力で庄内浜はどう変わる?~鳥海山沖洋上風力発電の未来~」を聴講に行く。
武田先生の講義は撮影可だった。
ネットで武田先生のSNSはかなり観ていたので、約半分は聴いていた物だったが、流石に武田先生の独壇場は小気味良かった。
何度聴いても面白い。
70周年記念短編ドキュメンタリー映画『THREE ARCHITECTS』
秋田テルサで建築基準法と省エネ法の実務講習会が行われた。
山形県はビックウィングで、秋田県は秋田市のテルサが会場なのだが、酒田からは山形に行くよりは秋田市の方が近い。
それと山越えをしないで済むので、冬分は有り難い。
山形県はビックウィングで、秋田県は秋田市のテルサが会場なのだが、酒田からは山形に行くよりは秋田市の方が近い。
それと山越えをしないで済むので、冬分は有り難い。
そんな気持ちが通じてか、当日の天気予報は雪だった。😢
象潟ICから高速に乗るとて、近道を走ると道路の端に雪が見えた。
高速に乗っても、雪が止む気配はない。
しかも、本庄市のIC出口付近で、「本庄と大内JCTの間で交通事故が発生し、全面通行止め」との表示で、出口に誘導された。
高速に乗っても、雪が止む気配はない。
しかも、本庄市のIC出口付近で、「本庄と大内JCTの間で交通事故が発生し、全面通行止め」との表示で、出口に誘導された。
仕方がないので、本庄市内を横切って国道7号線に向かったが、道路に詳しい人達は、105号線を通って大内JCT近くのICに向かったようだ。
なにせ雪道(凍って滑る)し渋滞だし、と知っている道を走ることにした。
なにせ雪道(凍って滑る)し渋滞だし、と知っている道を走ることにした。
7号線をチンタラ走り、松ヶ崎亀田ICから高速に戻った。
「亀田はあの亀田ですよ。松本清張の砂の器に出てくるあの亀田ですよ」と、ちょっと嬉しくなった。
「亀田はあの亀田ですよ。松本清張の砂の器に出てくるあの亀田ですよ」と、ちょっと嬉しくなった。
秋田テルサは御所野のイオンモールの道路を隔てて横にある。
昼食はイオンの中に入っている中華料理屋で、エビワンタンメンにした。
おおっ、みどり食堂の量の半分だ。(鶴岡市のみどり食堂は、TV番組オモウマい店に出てきた大盛りの店)
昼食はイオンの中に入っている中華料理屋で、エビワンタンメンにした。
おおっ、みどり食堂の量の半分だ。(鶴岡市のみどり食堂は、TV番組オモウマい店に出てきた大盛りの店)
駐車場を移し、テルサに入る。時間に余裕を持って出てきて良かった。
受付を済ませて会場に入る。随分と沢山の受講者だ。
机の上の厚い資料を見ながら、国交省から来た若い官僚の人が講師を努めてくれたのだが、
時間内に終わらせるには、めっちゃ早口でまるでシン・ゴジラを見ているようだった。
時間内に終わらせるには、めっちゃ早口でまるでシン・ゴジラを見ているようだった。
講義の内容は、う~~ん益々新築が難しくなる。嫌な世の中になったものだ。
先のフライヤーでお知らせがあった山形市の旧吉池医院に行ってきた。
住所としては十日町になるのだが、山形市で一番賑やかな七日町通りの郵便局の向かいと言った方が分かりやすい。
大正元年の建物だそうだ。
内部では、山形県が生んだ建築家3名の建築展も同時開催されている。
内部も大正ロマンを感じさせる素敵な雰囲気なのだが、撮影は可でもSNSにUPする事は禁止とする内容だった。
建築展以外でも、公表は不可らしい。
特に居住空間だった2階部分は、廊下から部屋を観るのみで、室内に入ることさえ叶わなかった。
空が低く、山形は霞に覆われていた。
長谷堂の辺りでも霧と霞に覆われて「霞城」に相応しい情景だった。
長谷堂の辺りでも霧と霞に覆われて「霞城」に相応しい情景だった。
最上川挟も紅葉が霞んでいた。
この建物は道を歩いている時に見かけて「ふぉぉ!」と呟いた事がある。
JIA関連からも回ってきた。山形市は今まで、古い建物はあまり保存して来なかった地域である。
周りに沢山残っていることが、良いことなんだけど足を引っ張ったのだろう。
文化財級なのを、平気で更地にしていた。今回保存がうまく行ったのだなと思う。
JIA関連からも回ってきた。山形市は今まで、古い建物はあまり保存して来なかった地域である。
周りに沢山残っていることが、良いことなんだけど足を引っ張ったのだろう。
文化財級なのを、平気で更地にしていた。今回保存がうまく行ったのだなと思う。