無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

酒田市住宅リフォーム支援事業

2024-04-24 11:23:39 | 建築・都市・港

















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クラッピン サガエ

2024-04-22 12:42:34 | 建築・都市・港


朝7時酒田出発で、寒河江市へ向かった。
JIAの羽田設計さん経由で内覧会の案内が届いていた。





















































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地震と風力発電

2024-04-15 13:05:03 | 建築・都市・港








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飽海地域史研究会 酒田捕虜収容所

2024-04-14 19:59:35 | 酒田


貴方は「戦場にかける橋」と言う映画をご存知だろうか
1957年公開の英・米合作映画、第30回アカデミー賞作品賞受賞作品で、映画を観たことがなくても、このクワイ河マーチの曲は聴いたことがあるだろう。

1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったが、その1時間前に英領マレー半島のコタバレに日本陸軍は奇襲攻撃をかけた。
これらの緒戦で約35万人の連合軍捕虜達が、3年8ヶ月過酷な捕虜収容所生活を強いられる事になった。
中でも陸軍は、物資輸送に供すべく、1942年2月にタイとビルマを繋ぐ「泰緬鉄道・たいめんてつどう」416kmの建設を、連合軍捕虜達を使って進めている。
ジャングルと巨石を重機もない手作業での過酷な作業で、多くの死者も出した。

鉄道完成後は、「地獄船」と呼ばれる船に乗せられ捕虜たちは日本に向かう。
途中連合軍の魚雷攻撃にあって沈没する船もあり、多数が犠牲になった。
辛うじて生き延びた捕虜たちは旧満州や日本の捕虜収容所に送られた。
1944年10月3日、その内280余名は、門司港から東京を経て酒田駅に着いた。

 

戦場にかける橋 予告編:日本の隊長をあの早川雪洲が演じている。あのハンサムが・・・以下略



その当時、日本には130箇所の捕虜収容所があったが、山形県では唯一酒田のみ存在した。
酒田駅に着いた捕虜たちは、数日間駅前にあった酒田裁縫女学校(天真学園高等学校)の校舎に滞在し、酒田貨物駅や鉄興社、酒田市屠殺場などで労働させられた。
その後、10月18日には、染屋小路(現本町)の日本通運の倉庫に移動した。
(その場所は、後に日帰り温泉施設となったが、解体され現在はマンションが建っている。)



酒田駅に着いた捕虜たちは312人(英人248人、豪人26人、米人15人、蘭人5人)だった。
終戦までは18人の死者を出しているが、死因は病死が主だった。
捕虜たちの中で、英国と豪州の関係は微妙だった。豪州は英国の流刑地だった歴史が、彼らの立場をそうさせている。



日本の捕虜収容所の運営は、大抵が公営だったが、ここ酒田では日本通運が行っていた。
他所の捕虜の扱いとは違い、酒田では虐待もなく緩やかだったらしく、戦後のB級C級戦犯もここでは出ていない。
取り分け、捕虜たちは収容所勤務をしていた松本勇三氏と高橋忠吉氏の優しさには、恩を感じているそうだ。

初代所長の渡辺サトル少尉、2代目は終戦までの2ヶ月間の森兵司中尉。総務は小野寺軍曹と柴野軍曹、通訳は伊藤上等兵。
そして忘れてならないのが訪問医であった工藤八郎医師の存在だった。
工藤医師は「捕虜とは言えど自国の軍人と同じ待遇をしなければならない。」とした国際法ジュネーブ条約に基づいて彼らを扱った。


捕虜の一人、豪州人のドクターリチャード氏は、日本人にあれだけ苦しめられ、憎しみの塊だった筈が、
酒田の子供たちや市民も同じように貧困に苦しめられているのをわかったこと。
泰緬鉄道建設の苦しみとは別のレベルで、酒田の冬は辛かったこと。
労働に対する監視役や職員も厳しかったことなど、諸々の想いを持っていた。


それでも、特に2代目所長は、本来禁止されているが、捕虜たちを初孫(酒蔵)の工場につれていき酒を振る舞ったり、
当時貴重であった砂糖なども渡したりしたと伝えられている。
収容所の近所の市民も優しかった。敵味方無く接してくれた市民を忘れることはなかった。


ドクターリチャード氏(医学部を卒業しそのまま兵役に着いた)は、帰国以来何度か酒田を訪れている。

映画「戦場にかける橋」は1957年に制作されているが、日本で公開されたのは少し遅い。
宮野浦のAさんによると、酒田の映画館グリーンハウス(酒田大火で消失)でこの映画が上映された時、
泰緬鉄道の建設にあたった捕虜の方々数十人が酒田を訪れ、グリーンハウスで映画を鑑賞した。
彼らが酒田駅から帰国しようとした時、多くの酒田市民が見送りに駆けつけたそうだ。
今では捕虜達も収容所の職員も、もう鬼籍に入ってしまったが、次世代の人達との交流は続いているそうだ。


戦後生まれの酒田市民は、酒田に捕虜収容所があったことを知らない。
収容所跡地に、案内板や石碑の一つも掲げられていない。
自分たちの地域の歴史を大切にしない酒田人は恥ずかしく、悲しくないのだろうか。知らないことと済まされるのだろうか。


今回はそれを詳しく教えて下さった「POW研究会」会員の村田則子さんに感謝を伝えたい。
3年半をかけて編集された冊子も、驚くほど詳しくて、当時を知る市民の証言も載っている。
冊子は定価1000円(税込)で、本屋で扱っているかはわからないが、必要であれば上記に問い合わせをお願いしたい。



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日和山公園と日枝神社

2024-04-13 00:13:52 | 酒田


光丘神社と枝垂れ桜


水仙



日枝神社の桜



日枝神社と白梅


梅林と小さな神社。梅はもう散っていた。


随神門を裏側から観る。


午後の日差しは強くて陰影が濃すぎる。


酒田本港と六角灯台と桜


桜のトンネル



江戸時代から使われていた常夜灯は灯台の原型
基礎石には酒田三十六人衆の名が刻まれている。


港の見える日和山公園


木造の六角灯台は、酒田市宮野浦から高砂へそして日和山公園に移された。






北前船の日吉丸の縮小版
人が乗ることも出来る。





























我が家の前のソメイヨシノ


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夜の酒田

2024-04-12 23:10:42 | 酒田
昨年のと或る時から、左足の膝上の筋肉が痛んで階段の上り下りに支障を感じた。
同じ痛みでも軟骨成分が不足する膝関節の痛みではない。
それでも、痛い部分を庇って歩くと、みるみる内に左足の筋肉が衰えてきた。
人間、筋肉を普段使いしないと、このような結果になるのだなと反省もした。
考えてみると、コロナ禍で外に出歩かなくなってから、特に足腰は弱ってきたと思う。
毎朝散歩を欠かさない人達からしたら、「自業自得っじゃ!」なのであるが。



久しぶりに夜の街に出た。歩いて行ける自信はなかったが、無理をせずにと一歩を歩みだした。

この空き地は、元々清水屋デパートが建っていた所で、清水屋が中町に移ってからはパイレーツビルとして、夜の飲食店の数々が入っていた。



ビルの老朽化もあり、売買契約も終わり、別の建築物が建つまでこのままらしい。
この空き地もそうだが、夜の町を歩くと、そこここに空き地が出来ていた。
あれ?何の建物が建っていたっけと、記憶を辿ることも難しくなった。


ここは北前横丁。伊庭屋薬局があった場所が屋台村に代って暫く経つ。


ショーウィンドーの中は、本間家で蝦夷地へ行くとて造船された「日吉丸」の模型である。
北前船の史料は、酒田は本当に少ない。


待ち合わせの場所は、このずっと奥だ。


ご自由にお取りくださいと書いてはいるが、一体何を取れば良いのかな。


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羽黒山の五重塔の改修が終わったらしい。

2024-04-09 15:04:41 | 建築・都市・港




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さくら

2024-04-09 14:55:33 | 動物・自然


ソメイヨシノの開花宣言は、酒田は秋田県の能代に追い越された。
酒田市の標準木は日和山公園の中にある。
S氏の話だと、その標準木よりも、茶屋店に囲まれている桜の方が、ずっと早く咲き始めていたらしく、すっかり桜まつりの準備も出来た公園には、老若男女が集まっていた。

我が家の前の桜の木は、標準木ならぬ唐変木で、誰に似たのか知らないが、今日になっても蕾が膨らんでいるだけだ。
それに、今は冷たい雨が降っている。尚の事開花は遅れるのだろう。



酒田市の中で最も開花が早いと言われている酒田市総合文化センター前の桜は、昨晩で満開だった。
月曜日の夜は、飽海地域史研究会の鐙屋文書研究会が行われており、教室に入る前に桜の下で満開の様子を撮してきた。



とうとう春がやって来たんだね。


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寄り道

2024-04-08 16:51:37 | 動物・自然
土曜日に鶴岡市で県の建築士会女性委員会の役員会が行われたので、その帰りに松ヶ岡まで足を延ばしてミズバショウの育ち具合を見に行く事にした。
ローカルニュースで、山形市野草園のミズバショウとザゼンソウの様子が流れていたからである。



歩道も階段も、杉の枝で覆われていて、立入禁止のロープが張られていた。
まだまだ準備段階のようである。
ミズバショウも葉が伸びているだけで、花は小さい。
ザゼンソウは姿も見えなかった。
今年の春の花は、難しい。



以前に比べて、ミズバショウの数も随分と少ないようだ。
水辺で観てたと言う記憶があるのだが、水は張られていない。
もしかすると、田植えの時期がベターなのかもしれない。


道路の路肩には、ヨモギの若芽がびっしりだった。
草餅に入れるのに最適の大きさだと思う。



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飽海地域史研究会 4・5・6月予定

2024-04-08 16:25:40 | 歴史




尚、毎週月曜日の夜18:30からの鐙谷古文書研究会は、飽海地域史研究会の内部研究会になります。
こちらは毎回150円+資料コピー代50-200円(資料の枚数によります。)で、どなたでも参加できます。
古文書を読むだけでなく、小野寺先生の脱線歴史講義が面白いです。


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鳥海山と花たち

2024-04-04 15:23:13 | 動物・自然

安定の鳥海山



田んぼの畦道にはオオイヌノフグリが咲いていた。
こちらの花の色は青いのに


ちょいと離れた所のは、紫色だった。ほぉ


おっと、これは最上川にかかる出羽大橋から観た月山。


これから咲くであろう福寿草。


咲いたよ福寿草。
太陽の光が大好きな黄色をしている。


出羽大橋の下り線から観た鳥海山


香り漂う水仙


今年は重い雪の下にならずに育ってくれた。


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アニメ映画 沈黙の艦隊

2024-04-03 07:17:59 | 建築・都市・港
アニメ映画 沈黙の艦隊

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アカゲラ

2024-04-02 15:02:05 | 動物・自然


何年ぶりかでアカゲラが現れた。
普段アオゲラばかり見ていたので、アカゲラの小ささに「こんなに小さかったっけ!」と驚く。





桜の幹に開けられた穴の生々しいこと。






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【西田昌司】安倍さんは“正体”に気付いてしまった… 生きていれば間違いなく… 魂の国会質疑 参議院 財政金融委員会 日本語字幕入り!

2024-04-02 05:51:21 | 社会
【西田昌司】安倍さんは“正体”に気付いてしまった… 生きていれば間違いなく… 魂の国会質疑 参議院 財政金融委員会 日本語字幕入り!


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光る君へ

2024-04-01 21:15:22 | 動物・自然


御簾の中の貴公子



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