無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

初めての昆布巻

2023-12-31 13:03:36 | 食べ物


初めての昆布巻きに挑戦する。
材料は磨きニシン、昆布、干瓢



身欠きにしんを米の研ぎ汁に一晩浸ける。


翌日、研ぎ汁の色が変わった。


干瓢は塩もみで洗って水に浸す。


ちょっとふっくらしてきた。


昆布も水に浸す。



昆布の長さは1m、結構長い。
鍋に入らないのではと心配したが、一枚ずつ剥がして入れたらすんなりと入った。


増えるワカメくらいに量が増えた。


ニシンを切って昆布に巻く。
ただし1mは長いので4等分にして2枚重ねにして巻いた。
昆布の出し汁は鍋に入れ、醤油、酒、みりん、砂糖、鰹だしを加えた。


そうして煮た訳だが、美味しい昆布巻の匂いがするかと思ったのに、臭い。
昆布臭い+ニシン臭い。
煮てても臭い。こんなんで良いのか!!
と言いながら、がっつり煮込んで昆布巻きが出来た。

反省点。材料費と時間を考えても、出来合いを買った方が間違いはないかなと思った。
味は良かったんだけどね。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暮れの風物詩

2023-12-28 12:59:04 | 社会


羽黒山の松の勧進



法螺貝の音と共にやってくる。
今回は二人同行


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飽海地域史研究会 院内銀山

2023-12-27 17:21:18 | 歴史


12月8日、飽海地域史研究会の人物講座で「シルバーラッシュに挑む酒田人」~院内銀山奉行日記から~が行われた。
院内銀山奉行は、秋田藩佐竹義宜の家老「梅津政景」で、生まれは宇都宮。
佐竹家が秋田(久保田城)に移動と同時にやってきた。
彼の日誌は実に詳しい。


江戸時代、日本は黄金の国ジパングと呼ばれ、世界中の国から憧れを持たれていた。



院内銀山は秋田県の南部で、山形県金山町との県境近くにある。



銀山が発見されたのは、1607年で採掘された銀の一部を、1614年に上納銀として988kg納めている。
丁度志村伊豆守が酒田を治めていた時代である。


地震国である日本は災害も多いが、金や銀も多く産出される国だ。


黄金は奥州平泉の黄金堂に代表されるように、東北でも採れている。
1817年、秋田藩直営となり、天保期(1830年~)には日本一の銀産出量となった。


石見銀山は世界遺産ともなり、世界的には有名で、一時は世界の銀の1/3を産出していた。
室町から江戸期に多く産出していたが、現在では取れなくなっている。



院内銀山には、全国から15000人も人がやってきた。
彼の日誌には、銀山の採掘に集まった全国各地からの人々、それに混じって何名かの酒田人の名前も、事細かに載っている。






彼らは炭窯(銀脈が見つかり掘ることが出来る権利)を持ち、数名の堀子を働かせ、銀を掘った。







院内銀山には、銀を掘る男達の為に町が築かれ、町人商人が集まった。


鍛冶屋、桶屋、番匠、檜物師、湯屋、酒屋、石叩き、板取、傾城屋(遊女)、神官、僧侶、切蕎麦屋、商人がいた。






さながら心霊スポットかと思われる程の雰囲気があり、一人では行けない土地のようだ。


右の門屋の銘のある墓は、ここに留まって怪我人達の治療に応った医者のものである。



見事銀を掘り当て故郷に錦を飾ろうと、頑張った男達や女達、しかしそれも叶わずに院内銀山で生涯を閉じた人々は、
墓地に葬られたが、その数がまた半端ない広さと数である。。

飽海地域史研究会では、初夏の頃にもツアーを組んで院内銀山に行きたいねと話し合っている。


銀は採掘する際に不純物が含まれている。
それを順々に精錬し、純度を高める。




古銭




日本の貨幣で小判と言えば金貨だが、実は銀も多く使われた。
特に酒田は銀使い(大阪などの上方も同様である。)
また、中国も銀使いで、室町幕府は銀を輸出した。








秋田藩には家蔵文書が残っており、秋田藩以外の事も詳しく知ることが出来る。
戦国時代を知るには、必要な古文書がきっちりと保存されている。


梅津政景日記も、秋田県立図書館の脇に公文書館があり、そこに保存されている。
羨ましい限りだ。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰だ、誰だ、だれだァ~♪

2023-12-27 09:59:52 | 音楽・芸術・文学





トキワ荘に集まった面々。

 

岡田斗司夫ゼミ『漫画家・田中圭一対談とベイマックス観たから感想を語るよ』



 

【漫画家・田中圭一対談】#1 巨匠マンガのパロディは99%の愛と1%の悪意?



漫画やアニメは日本が一番の知的財産だと思っていた。
その内部にじんわりと某国が忍び寄っている。
食事中のテーブル上の緑色の小瓶、車の右側通行、怒った時の顔付きなどなど。
若い人達は当たり前のこととして、受け入れているのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城輪柵の発見から史跡指定へ

2023-12-22 17:09:43 | 歴史


11月3日の飽海地域史研究会「城輪柵の発見から史跡指定へ」と題された講義の模様である。
講師は東根市の石井洗幸氏、小野寺先生の後輩で長らく小学校の教師をされていた。
教え子達の集まる同級会では、算数や国語より歴史を語る先生のイキイキ度が凄かったと言われている。



庄内には幕府領が3箇所あった。(鶴岡の四百年祭の冊子赤本が詳しい)
古い史料を見ていたら、昭和6年に城輪柵の発掘が始まったと記されている。
7~11世紀、大和朝廷が蝦夷との戦いの為に柵を設けている。
図は、色別になっているが、年代ごとの勢力図である。
7世紀では山形県の南を掠めているだけだが、8世紀では秋田の男鹿半島付近まで伸びている。
9世紀では白神山地まで、このような区割りになったのは、陸の道路を移動するよりも、海を船で渡った方が早くて便利だった。


この発掘に最も貢献したのは、松嶺町生まれの阿部正己氏である。
彼は東北の古代史の草分け的存在で、特に飽海史では有名である。
彼はここで埋もれた大木の発掘をした。
これは国分寺跡ではないかと考え、文部省の史跡調査官の上田三平氏に連絡を取る。



丁度その頃、上田氏は秋県払田柵の調査にあたっていた。


阿部正己は昭和6年、上京し文部省の上田三平に会い、彼の調査した資料を渡し、出羽国分寺跡ではないかと告げる。
上田三平は後日秋田より庄内に訪れる。


阿部正己は出羽国分寺跡として疑わなかったが、上田の考えは違った。


阿部正己は冊子を作って出羽国府跡と公表する。



昭和7年に山形県議会での講演が冊子になる。


埋もれた木材の発掘。


掘っ建ての跡。


柵の埋もれた細かい木材から、大きな建物の柱ではないかとされる丸太跡も見つかる。


均等に並んだ柱発掘跡。


続々と発掘される。


庄内では城輪柵以外にも、数箇所柵跡が残っている。
大山でも電車の線路工事の際に、昨跡が発見されている。
国分寺ではないかとされていた八幡の柵は有力だが、国分寺は何度が移転を繰り返している。
調査官であった上田氏は、城輪柵は秋田の払田と同様、柵であって国分寺ではないと結論を出した。
学閥の大物学者達も、出羽柵は時期尚早であると意見している。


オバタケでは、柱や瓦も出土している。
瓦の模様は奈良のその時代のものに似ている。


城輪柵付近の航空写真


各地に国分と呼ばれる地名があるが、それは必ずしも国分寺跡ではない。


蝦夷との戦いには、下野国辺りから、東山道を通って鎮兵がやってきていた。
出羽の柵を作っただけでなく、派兵もされていたのである。
それを示す木簡が発見されている。


昭和6年、阿部正己、喜他貞吉、上田三平、本館村の人々の熱意は凄まじく、昭和7年国指定の史跡となる。
まれに見るスピードで進められた。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飽海地域史研究会・志村伊豆守

2023-12-21 23:49:01 | 歴史
この秋から冬にかけて、沢山の講座が開催されていたが、一つ書き逃すと後が続かない事がわかった。書くのが辛くなるのである。
ネットに自分の資料として残すのは勿論だが、せっかく時間を割いて準備し講師をして頂くのに勿体ないなとも思った。

その中の1講座の資料が紛失した。写真は残っているが、メモも一緒だったから、纏めることが出来ない。
探しても見つからない。私の周りにはブラックホールがあるのだ。

それなら時系列を無視して、書いておこう。


と、今回は12月3日、酒田市亀ヶ崎の青原寺で行われた「志村伊豆守・亀ヶ崎城主」の講義を記してみようと思う。


青原寺は、志村伊豆守の菩提寺である。彼の甲冑や直筆の書状などの遺物が保存されている。
それを公表して「青原寺志村伊豆守光安文庫」を作ろうと、11月に檀家を中心に協力会が開催された。
そんな詳細も知らずに、伊豆守の話が聞けるらしいと参加して、これは大変な所に来てしまったと慌てる。

今回はそんな話と青原寺のことを、座禅も一緒に住職の渡部さんが進めてくれた。



その日は悪天候で、雨の中でFさんは駐車する車の誘導をしてくれていた。
私は受付だったが、25部ほど準備して貰っていた資料が、あっと言う間に無くなった。
追加で10部、さらに10部を青原寺さんからコピーして貰う。




鈴木さんの発表は、戦国時代以降の庄内での各藩の位置と最上義明との関係だ。
慶長5年(1600年)は関ケ原合戦が行われた年だが、同じく慶長出羽合戦も行われた。


最上義光が山形藩領に組み込まれ、酒田の町は最上氏の放火によって中心部が焼失し、酒田城(後の亀ヶ崎城)は開城された。
酒田町民の抵抗も厳しかったと言われる。
最上氏は庄内の酒田に志村伊豆守光安(やすあき)を派遣する。
志村伊豆守光安は、焼失した酒田の町の都市計画を行う。


伊豆守は慶長17年(1611年)に病死し、酒田市亀ヶ崎の青原寺の菩提寺に埋葬される。
青原寺には、夫婦の墓が残されていると言われているが・・・。

志村光安の死後、跡を継いだ長男の志村光惟が最上騒動に巻き込まれ暗殺される。次男は行方不明、残った長女は母を連れて山形や東根に逃げる。
東根の嫁ぎ先横尾家は、横尾酒造を営んでいた。
山形に帰った母の話と、青原寺の墓には矛盾が生じている。


また、遊佐町の永泉寺(ようせんじ)には、最上義明の墓と言われる九重層塔がある。
しかし、同塔が山形県の文化財になった時には、志村伊豆守の供養塔と登録されている。


その頃、狩川城には北館(楯)利長がいた。
北楯は立谷川の水を引く大堰を作った。


北館大堰は、平成30年に世界かんがい施設遺産に登録され、現在も庄内平野を潤し、米作りに使用されている。


志村伊豆守の仕事として、羽黒山の五重塔の修理がある。


五重塔の内部には、その時の史料が残っている。


次に小野寺先生の「亀ヶ崎城・酒田町づくりと志村伊豆守の役割」について話された。
志村伊豆守光安の生まれた場所も時も分かっていない。
最上義光の家臣で、長谷堂の戦いでも功績があり、酒田(亀ヶ崎)城を任された。



長谷堂城の城主だった時代に、菩提寺であった清原寺(山形市長谷堂)から峰岩呑鷲和尚を招き、酒田に移し建立した。
酒田の青原寺は、清原寺の名だと水害が起こるとして、青原寺と変えたようだ。


県立酒田東高校は、酒田の亀ヶ崎城跡に建てられた。遺跡としては、土塁しか残っていない。
ただし、校舎建設時に遺跡調査をした所、数々の遺物が発見され、重要な物として保管されている。
一般公開すれば、大した史料になるのだがとは先生の意見である。


土塁と一緒に、伐採されなかった樹木は、年代を経て残っている。


石碑もあり、説明の立て札も立っている。



亀ヶ崎城の本丸と二の丸跡。


さて、時は天下統一の豊臣秀吉と上杉景勝の時代に、秀吉は庄内3郡を景勝に与えた。
その直前に、鶴岡の大宝寺城の武藤義勝を、川中島へ移す。
太閤検地の厳しさに庄内では土豪一揆も行われる。朝日山城や北沢などでは、農地が2倍に査定されたと云う。
上杉進駐軍は、酒田城を須田相模、観音寺城を寺尾伝左衛門、遊佐の菅野城を市川対馬、観音寺城の来次氏秀を越後に追いやった。

酒田東禅寺城の甘粕備後守の時に、鷹尾山三千坊を焼き払う。
上杉は直江兼続を庄内支配させたが、酒田は湊で繁盛を見て、湊町商人の年貢を半減させ、商業を奨励した。1590年頃のことである。


1600年、天下分け目の関が原合戦が行われた。東北でも北の関が原と呼ばれる合戦がある。
天下を取った家康が、秀吉軍だった上杉景勝の上洛を求めたが、そこに返事をしたのが直江兼続で、俗に言う「直江状」である。
家康は激怒し、会津(上杉景勝)を征服せよと、最上義光に命ずる。


その戦いの場となったのが、長谷堂である。
直江は長谷堂城の志村伊豆守を鉄砲で攻撃、谷地城、寒河江城、白岩城を落とす。
最上義光は伊達政宗に援軍を頼み、直江は撤退する。
こうして上杉氏の庄内支配は終わり、最上氏の統治で志村伊豆守が酒田に入る。
酒田の町並みを整理し、酒田鎮守の為に近江国坂本から日枝神社を勧請した。
1609年より酒田山王祭礼を行うようになった。


志村伊豆守は1611年に病死し、菩提寺の青原寺に葬られる。
青原寺では、志村伊豆守の甲冑、遺物、直筆の史料が残されている。

今回の話で、酒田と上杉氏、最上氏の関係がよくわかった。
志村伊豆守の詳細はこちらの最上義光歴史館
志村伊豆守と直江兼続は敵対していたのに、今ではやまがた愛の武将隊の一員になっているのが面白い。


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米粒写経 談話室 2023.12.21

2023-12-21 20:49:16 | 音楽・芸術・文学
 


米粒写経 談話室 2023.12.21

 



米粒写経×松崎健夫 映画談話室2023.12.21 ~ナポレオン/首~
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飽海地域史研究会からのお知らせ

2023-12-12 12:21:59 | 酒田
飽海地域史研究会からの通史講座のお知らせです。

河村瑞賢時代の酒田日和山から江戸時代そして明治時代以降の「公園」の位置づけを国家や地方の行政の施策から捉え、現代の視点とします。
全国の公園史をふまえ、酒田日和山の特色を専門的な研究から照射します。

日時  12月17日(日曜日)13:30~
会場  酒田市総合文化センター (TEL:0234-24-2991)
テーマ 太政官布告公園・日和山が”公園”になるまで
講師  阿蘇裕矢氏 (静岡文化芸術大学・名誉教授)
会費  会員300円、非会員500円

阿蘇裕矢教授は、「環境問題と文化施策」や「まちづくりと地域振興」などの著者でもあり、歴史や民俗学にも詳しく、ラウンドスケープなどの造園学なども手がけていらっしゃいます。
当日は悪天候の予報も出ていますが、熱く語る阿蘇先生のお話を是非ともお聴き下さい。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田は雪だった。

2023-12-01 13:25:14 | 建築・都市・港
秋田テルサで建築基準法と省エネ法の実務講習会が行われた。
山形県はビックウィングで、秋田県は秋田市のテルサが会場なのだが、酒田からは山形に行くよりは秋田市の方が近い。
それと山越えをしないで済むので、冬分は有り難い。



そんな気持ちが通じてか、当日の天気予報は雪だった。😢 


象潟ICから高速に乗るとて、近道を走ると道路の端に雪が見えた。
高速に乗っても、雪が止む気配はない。
しかも、本庄市のIC出口付近で、「本庄と大内JCTの間で交通事故が発生し、全面通行止め」との表示で、出口に誘導された。



仕方がないので、本庄市内を横切って国道7号線に向かったが、道路に詳しい人達は、105号線を通って大内JCT近くのICに向かったようだ。
なにせ雪道(凍って滑る)し渋滞だし、と知っている道を走ることにした。

7号線をチンタラ走り、松ヶ崎亀田ICから高速に戻った。
「亀田はあの亀田ですよ。松本清張の砂の器に出てくるあの亀田ですよ」と、ちょっと嬉しくなった。


秋田テルサは御所野のイオンモールの道路を隔てて横にある。
昼食はイオンの中に入っている中華料理屋で、エビワンタンメンにした。
おおっ、みどり食堂の量の半分だ。(鶴岡市のみどり食堂は、TV番組オモウマい店に出てきた大盛りの店)



駐車場を移し、テルサに入る。時間に余裕を持って出てきて良かった。


受付を済ませて会場に入る。随分と沢山の受講者だ。
机の上の厚い資料を見ながら、国交省から来た若い官僚の人が講師を努めてくれたのだが、
時間内に終わらせるには、めっちゃ早口でまるでシン・ゴジラを見ているようだった。

講義の内容は、う~~ん益々新築が難しくなる。嫌な世の中になったものだ。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする