私は酒田市内の旧町名で台町(だいまち)に生まれた。料亭が多く、日曜日には近くの見番(けんばん)から、踊りや三味線の稽古の音色が聞こえる町だった。家は坂道の途中にあり、冬ともなると子供達がこぞって竹スキーや竹じょんば、ソリで滑って遊んだ。自動車など、滅多に通らなかった時代の事である。家々はひしめき合って建っており、間口が狭く、奥行きが長い町屋の造りが多かった。何処にも子供達は溢れ、いつも集団になって遊んでいた。家と家の隙間を抜けたり、近くの寺や神社で木に登ったり、石垣を飛び降りたり、「着いてこないと仲間に入れてやんないぞ」と、かなり乱暴な遊びもしたものだった。
持地院さんの大仏を弁天さんから見る。この大仏は、私の子供の頃にはなかった。戦争の時に金属の徴収にあって、姿を消していた。小学校の時の作文で「じじいんさんでいつもあそぶ」と書いたら、酒田に詳しくない担任の先生が優しいお爺さんがいると思ったらしい。正確には持地院(じちいん)と読む。
ここは、私達の遊びのテリトリーだった。シーソーとブランコもあり、厳島神社を弁天さんと呼んで遊び回っていた。弁天さんの右に石垣があり、持地院さんに繋がっている。この崖をびょんびょん飛び降りて遊んでいた。子供の頃の原っぱは大きくて、大人になって見ると狭く感じるのが普通だが、きちんと石積みされた崖は、今見ても結構高かった。
弁天さんの小路から観音さんへの小路に抜ける。友達が住んでいた家は、空き地になっていた。
ここが観音さん。庄内何番札所の看板が見える。子供の頃の夏休みは忙しかった。家の近くに沢山ある神社やお寺では、夜会式(よいしき)と言う夏祭りが続けてあったからだ。今日はここへ明日はあっちへと、夕飯もそこそこに飛び回った。夜会式の時だけは、子供も外に出て良いからだった。
友達の中には日舞を習っている女の子も多く、夜会式には舞台も組まれ、そこで踊る友達の晴れ姿も見ることが出来た。
観音さんから抜ける小路。右が料亭香梅咲で、左が相馬楼。この小路はとても趣がある道だ。
車の通れない細い道を抜ける。猫がニャァニャァ鳴いている。
香梅咲の前に出る。その料亭の名の由来となっている梅も、綺麗に咲いていた。
この道は、下の日枝神社(山王さん)の階段に続く石畳の道である。ここも映画のロケの一部になった。この石畳の道は、見た目には綺麗だ。前市長が「料亭の多い所だから、景観を配慮した」と言ったが、実際に歩いたり車で走っても、案配は良くない。実にガタガタと音もするし、雪では滑りやすい。専門家の意見として(←誰や)石の厚みが少ないのがいけないと思う。
交差点まで行って、カメラを右に振ると旧港座の映画館が見えてくる。
これが旧港座の中劇場。映画の舞台になった。
この右側の建物が、本来の港座である。現在は内部の劇場は残っているが、建物は細かく別れて飲食店などにも使われている。子供の頃には良く映画を観に通った。ゴジラやガメラ、美空ひばり主演の時代劇も、ここで上映された。TVが一般的になるまでは、いつも満員だったと記憶している。酒田と鶴岡の中間の三川町に、大きなシネマが出来ると知って、この映画館は閉店した。
映画館の前をこのまま右に進むと、持地院に着く。楽しい夜会式の中で、持地院のはとても恐かった。地獄絵が飾られていて、閻魔大王と鏡、舌を抜かれる亡者、針の山や血の池地獄、嘘をつく子は地獄に行くぞと、脅されていた。お陰でこんなに素直な子供に育った。(←嘘つくな!)
映画館の前を左に進むと、山王くらぶの方に向かう。
山王くらぶの敷地には、車が2台ほどしか駐車出来ない。酒田市では、油長さんの敷地に、大きな駐車場を完備した。駐車場の前の立て札は市内の案内板で、観光客が集まって見ている。私はここまで歩いている途中に、何人もの観光客におくりびとのロケ地の場所を問われた。知ったかぶりの私は得意そうに・・・以下略。
右奥が日和山公園へ上る小幡の坂で、左にデンと見えるのが例のマンションである。
駐車場の隣には、造り酒屋の上喜元がある。ここの酒はうんまい!
公園へ向かう。
ここは醤油屋さんで、我が家の味噌はここの製品である。うんまいよ!
魚屋さんの鮭を眺めながら歩く。
この空き地には、喫茶店が建っていた。酒田の町を一望出来る、眺めの良い喫茶店だった。
西郷隆盛の書だと言う日枝神社の鳥居の銘
先日の松林銘の説明の立て札。