酒田市役所の職員の方々と現地待ち合わせで、名取市斎場と仙台市斎場を見学する。私達は朝5時半に出発したが、彼らは前日に仙台入りし、針生作品の宮城スタジアムを見学したらしい。
名取市斎場は名取川河口の広浦の傍にあり、津波で被害を受けた。建設当時、この玉砂利の部分は池があった。復旧後「水が恐い。」と言う市民の多い中、池は玉砂利に変えられた。
あの日は友引の土曜日で、動物の火葬が1件あり、終った後職員は待機していた。そこに地震と津波が襲った。敷地にある築山で海を見ていた3人の職員は、津波が襲ってくるのを見て、築山から伸びていたコンクリートの列柱の塀によじ登り、梁の上を伝って屋根に逃れ、事なきを得た。
この建物を計画中に、洪水のような事があったらしく、浸水した状態をみた針生先生は急遽、炉の電源を2階に変更した。その為、震災後2週間で火葬場は再稼働出来たのである。名取市でも5000人近い人々が亡くなられ、今でも行方不明の方々がおられるそうだが、遺体を土葬にせずに済んだのは、この2週間と言う再建の速さだろう。今回はその2階の機械室をも見せて頂いた。
この石のモニュメントは、津波で向かいの大きな硝子のFixを突き破り、ホールを抜けて玄関から駐車場へと流されていたそうだ。RC造の躯体は残ったが、開口部や硝子は跡形も無いほど破れ、丸太や信じられない程の大きな漂流物が建物内に刺さっていたそうだ。
斎場と駐車場の間に3-4本のタブノキが植えられていた。随分と傷だらけな木だなと思いながら茶色の甲虫を追いかけていたが、この木は津波から勝ち残った木だったのだ。
この建物を見た職員の方々の感想は、斎場と言うよりも美術館のようだ。日中は照明を付けなくても充分に明るいのに驚いたそうだ。
午後には、仙台市斎場に向かう。炉の数が20基で、友引のこの日も稼働し、多くの人がいた。仙台市の風習では火葬した後に葬式を行うのが普通だそうだ。
葛岡にある仙台市斎場は2階建で、名取市斎場とは比較にならないほど大きい。敷地も山全体が他用途の建物の建設は行えないそうで、丸々斎場の敷地に当てられている。火葬は受付から全て自動で行われ、告別式から収骨まで、館内放送で呼ばれるまま番号で仕分けされていた。随分とクールである。待合室は2階にあり、レストランまで併設されていた。建物が大きい分、中廊下など採光が取れないようで照明器具がふんだんに着いていた。我々は電気料を心配したが、近くにあるゴミ焼却場の熱源で発電された電気が使える為、斎場での支払いはないそうだ。ちなみに、運営は法人資格の指定管理者が行っている。
仙台市斎場は直接には震災の被害は受けなかったが、燃料であるガスの供給がストップし、灯油に変更するべく動いたが、思った通りの稼働は難しかったらしい。
帰りは、高速道路の東北道から山形道、中央道と走り東根で降りた。積雪の心配がある時には、このルートは比較的安全である。東根ICからは山形空港を迂回して国道13号線に合流する。その路はやっぱり果樹園で囲まれている。東根はサクランボの佐藤錦の発祥地である。
国道47号線の最上川岸を走る頃には、空気がガスがかってきた。残雪はあるものの、新緑の美しい季節である。