山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

山書散策(その2) 

2015年07月05日 | 山の本紹介

 田部重治の「日本アルプスと秩父巡礼」は、復刻本が我が家にあったので引っ張り出して読む。山書の著者の推すのは、「新編・山と渓谷 1933年 岩波文庫」だが、中身的にはほぼ同じようなものだろう。ただ、この田部重治の「山と渓谷」は、我々が今も毎月書店で目にするあの「山と渓谷」、いわゆるヤマケイの雑誌名となったという経緯はあるが。

 この本は、田部重治の山行記録だが、当時の様子(明治の終わり頃から大正にかけて)がよくわかるし、文章も読みやすくて大変におもしろい。装備や食料など、今の我々のそれと比べようもないが、米やミソを担ぎ、食事は水を汲くみ薪を集めて火をおこし飯を炊く。これを朝、昼、晩と日に3度繰り返す。こんなスタイルが、当時の山行の一般的だったようである。

 この本の中に、「槍ヶ岳から日本海まで」というのがあるのでそのたどったコースと所要時間などわかる範囲でざっと紹介する。彼(ら)のたどったコースは、現在でも歩かれているが、きちんとした登山道が整備されているはずもない当時としては大変な難行だったことだろう。

 当時の大きな山行・難しそうな山行には、大体ガイドに雇っている。長治郎とか源治郎とかの名前が出て来るのはそのためで、彼らに案内をさせ、必要に応じて荷物や食料を準備させたり、運搬させたりしている。雇った金額のことは出てこないが、相応の支払いはしたことだと思う。まあ、当時の山登りは、暇と金がなければ出来ないことで、大学の学生か由緒ある良家のご子息でなければ出来るはずもない行為だ。

 ただ、この山行は、極力ガイドには頼らず、自分たちだけでやろうとしていたのでそれなりの苦労があったようだ。そのため、荷物の重量を3貫目くらいに押さえないといけないとか、軽いテントを注文しなければいけないとか事前準備にだいぶ苦労したよう様子がうかがえる。しかし、3貫目とは、11,25㎏ほどだから意外に軽い。米は、一人3升(8日分)。1升が1,5㎏だからこれだけで4,5㎏となる。

 水や燃料は現地調達となる。他に食料として、ミソ、削りカツオ、ワカメ、奈良漬、氷砂糖、それにウイスキーを一瓶。「食物はこれだけときめた」と書いている。どうも、食事と云えば、ご飯に味噌汁。昼食にはおかずに奈良漬をたべていたようだ。途中で、「ダケワラビ」を採って食料にしているが、どんな植物だろう。

  松本から島々まで、馬車で行き、島々で1泊してからいよいよ歩き始めることになる。

               

大正2年8月2日 

 朝7時頃島々を出発して徳本峠を越え、夕刻火を灯す頃に上高地温泉に着く。この頃の上高地は、牧場だったらしい。前日の夜、焼岳が爆発したらしい。(梓川がせき止められた大爆発は、大正4年6月6日。それまで、小さな爆発があったらしい。)

 上高地で、画家の茨木猪之吉に出会っているから、上の絵は彼の作品だろう。後が木檜理太郎か?

  8月3日

 この日の計画が凄い。上高地を早朝に発ち、槍を越えて西鎌尾根の途中で泊まる予定なのだが・・・。彼も後で反省しているが、結局槍ヶ岳に登った後、槍の肩に荷物を置いて殺生ノ小屋に泊まっている。田部は、足を痛めていたらしくだいぶ苦しかったようだ。

 8月4日

 6時頃出発。西鎌尾根を双六の池まで。双六の池周辺は、当時では夢のような場所だったらしい。私は、双六へは何度か行ったがいつも残雪期なので雪に埋もれているらしいこの池には出会ったことがない。この日は時間的な余裕があっ。火をたき、ワカメの味噌汁で夕食。夜は少し寒かったらしく、ウイスキーをチビリチビリ。

8月5日

 この日も6時頃出発。双六岳から三俣蓮華を越えて黒部五郎まで行ったのはいいが、ここで霧にまかれ難渋する。やっとルートを見つけ、テントを張ったのは午後6時頃。この辺りは私も、思いで深い場所だ。立山からスキーを引っ張って歩くいわゆる日本オートルートの道筋にあたる。吹雪にあって遭難しそうになったことがある。ワンダリングの末くたびれ果ててしまい、やっと風陰の斜面に穴を掘り、テントをかぶって風が治まるのを待った。夕刻風も止み、ほうほうの体で太郎の小屋まで引き返した。今でも鮮明に覚えている。山でのイヤな体験の一つとなっている。

 8月6日

 この日のスタート地点がはっきりしないが、どうも中俣乗越あたりらしい。そして、赤木岳、北ノ俣岳を越えて太郎兵衛平を過ぎて薬師岳に登り、北薬師岳を越えた辺りにテントを張っている。

 8月7日

 夏とはいえ朝は寒い。昨日流れていた水も凍り飯を炊く水を集めるのに苦労している。「焚火をしながら、流れ跡の溜まり水を星明かりに探して飯の支度を終える」と記している。スゴ乗越しを過ぎ、越中沢岳に立てば五色ヶ原が見える。此処で、中村君と落ち合う。五色ヶ原に着いたのは2時前。荷物を置いてから辺りを散歩する。五色ヶ原はゆったりとした広がりを持つ高原の様な所だ。中村君は、人夫を雇い此処にテントを張って絵を描いていたらしい。田部一行は、このテントに泊まり、ダケ蕨の味噌汁を吸っている。ワカメがなくてもダケ蕨があればそれで代用できるとしているが、ダケ蕨とはどんな植物だろう。

 8月8日

 8時半頃にスタート。立山温泉まで。立山温泉とは、ザラ峠から下りて行くのだがその当時此処が登山の基地でもあったらしい。今はもうなくなっていると思うが・・・。彼らは、此処で宿泊まりで、剣岳への案内役に長治郎と春蔵というガイドを雇っている。食料などの荷物も担がせているだろう。

 8月9日~11日

 立山温泉を立ち、松尾峠に登って室堂に降りる。室堂は多くの人でいっぱいで、特に便所の設備が悪く、すさまじい風景が展開していたようだ。「周囲の汚らしさは言語に絶する」と嘆いて、テント場を別山の麓(今の雷鳥沢辺りか)に求めている。此処に3泊して、立山や浄土ヶ山などに遊び、最後の仕上げに剣岳に登る。剣岳へはあの長治郎雪渓からではなく、現在誰もが利用する嶺づたいのルートを登っている。岩登りの技術もかなり進み、色々な情報を知っていたようだが、彼らは長治郎に引きづリ上げられた様な格好だ。天気は下り坂。

 8月12日  

  雨の中、室堂乗越より早月川を下り馬場島へ。この日、命からがらで馬場島へたどり着く。よほど苦しかったことが伺える。残雪期、スキーで下れば何と言うことはない所なのだが・・・。馬場島から伊織村まで歩き有志宅で泊。

 8月13日

 雨は止んだようで、この日は滑川まで歩く。此処で解散となるが同行した長治郎と春蔵は上市へ、木暮君と中村君は東京へ、そして自分(田部重治)は富山行きの汽車に乗る。

 

                      1915年大正4年)6月6日 - 大爆発を起こし泥流が梓川をせき止め堰止湖である大正池を形成した[12