暘州通信

日本の山車

00201 渋川祇園会

2007年08月25日 | 日本の山車
00201渋川祇園会
群馬県渋川市
八坂神社
祭は八月下旬(隔年)。
山車一九臺を曳く。

□山車
・裏宿
本坐人形は日本武尊、もと埼玉県鴻巣の山車の人形だったと言う。
大正三年、東京神田より山車の躯体(骨格のみ)を譲り受け組内の手で改修した、
先の山車も江戸より譲り受けたと言い、北牧の川原に譲渡したといわれる。

・川原町
本坐人形は神武天皇。
大正三年、東京神田より譲り受けた。
昭和二〇年、加藤虎三が彫刻を補作した。
先の山車は北牧に譲渡された。

・上ノ町
本坐人形は弁財功徳天。
明治二八年に埼玉県鴻巣町北嶋の吉見屋藤吉を介して譲り受けた。
もと北嶋氏が明治一八年頃に浅草で建造した山車だという。
先に、義経千本桜の佐藤忠信が乗る山車があったが譲渡された。

・中之町
本坐人形は龍神
大正三年に、高崎市田町が曳いていた山車を譲り受けた。

・下之町
本坐人形は素盞鳴尊。
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受ける

・新町
本坐人形は、神功皇后
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受けた。
明治三四年頃建造。

・寄居町
本坐人形は仁徳天皇。
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受ける。

・坂下町
本坐人形は猿田彦命。
明治三三年の九月建造。
高崎市赤城町が建造した山車。
工匠は、高崎市柳川町の町田又平。
大正二年に譲り受ける。

・長塚町
本坐人形は菅原道真。
大正六年、高崎市鞘町より譲り受ける。

・並木町
本坐人形は日本武尊。
昭和二八年の建造。
昭和三二年に譲り受ける。
工匠は荒川政平。
彫刻は加藤虎三。

・南町
本坐人形は、八幡太郎義家。
昭和三三年の建造。
昭和四五年に譲り受ける
彫刻は加藤虎三。
明治の中ごろ回転式の山車を譲り受けたが、明治四二年に沼田町上之町に譲渡した。

・辰巳町
本坐人形は素盞鳴尊。
埼玉県本庄市の米福人形店の作。
昭和四六年の建造。
工匠は埼玉県寄居町の荒川和夫。
彫刻は行田市の高橋幹冶。

・熊野町
本坐人形は熊野皇太神。
昭和四九年東京新宿区花園町より譲り受ける
市内の南町の萩原工務店が改修。

・下郷町
本坐人形は大国主命。
昭和五五年の創建。
工匠は町内の渡辺司。
渋川市で唯一のからくり人形戯がある。

・東町
本坐人形は菅原道真。
昭和六三年の建造。
工匠は子持村の入内島秀男。

・入沢
本坐人形は北条時頼。
昭和六一年の建造。
工匠は杉田大吉。

・上郷
本坐人形は源九郎判官義経。
昭和五一年の建造。
昭和五十三年に改修。

・金井南町
屋臺を曳く。

□問い合わせ
渋川市商工観光課
電話0279-22-2111

00200 栃木秋祭

2007年08月25日 | 日本の山車
00200 栃木秋祭
栃木県栃木市
神明宮
護国神社
太平山神社
□祭は十一月中旬(五年毎)
山車九臺を曳く。

□山車
・万町一丁目
本坐人形は天照大神。
明治二十六年、万町の有志者が東京日本橋本石町の人形師、三代目法橋原舟月により作られた
屋臺の下臺を飾る大幕は金襴幕四張
中臺は金糸による刺繍
人形の衣装は綾蘿錦繍(りょうらきんしゅう)
緞帳も金糸銀糸の刺繍が施される
人形の衣装と持物
天叢雲剣、八たの鏡、八勾曲玉
三味線胴の彫刻
四神
中段の木瓜
半割枠の極彩色十二支
額縁
波に亀
この山車は、天照大神の人形の前に劉備玄徳を飾っていた
このため岩座の四神は名残となっている
上段大幕は黄帝が反乱を鎮めるため力を借りた飛龍が刺繍されている
十二支に見立てる

・万町二丁目
本坐人形は三國志の関羽雲長
明治二十六年東京日本橋の人形師、
三代目法橋原舟月に依頼して製作
屋臺の上臺大幕は金襴幕四張
中臺の幕は緋毛氈に刺繍される
衣服は綾蘿錦繍
三味線胴の龍の箔押し
下臺二重臺の唐獅子に瑞雲の彫刻
台輪の波の深彫
意は二と同義?

・万町三丁目
本坐人形は素盞鳴尊
明治二十六年東京日本橋本石町の法橋原舟月の作
中臺は四神を刺繍している
正面は朱雀
右は白虎
左は青龍
裏面は玄武
上臺はせりあげ式(繰上式)
彫刻は
青海波
牡丹に唐獅子
など
三味線胴の箔押し、龍の彫刻
二重臺の唐獅子の彫刻
柱隠しの菊の透かし彫
臺袴の波の深彫
囃子臺欄間の鳳凰
衣服は綾蘿錦繍

・倭町一丁目
雌雄の獅子頭を舁く舁山で、
右に雄
左が雌
江戸時代、日光東照宮の造営に当たった工人が、当地に足をとどめ
作ったという言い伝えがある
何度か火災に見舞われたが、災難を逃れ夫婦健在であることから
夫婦和合、鎮火の霊験があるといわれている。

・倭二丁目
本坐人形は神武天皇
明治二十六年、東京日本橋本石町の人形師、三代目、法橋原舟月の作
三味線胴のなかに彫られた牡丹に唐獅子
欄間は鳳凰
臺袴の極彩色牡丹、孔雀、錦鶏
中段の大幕は羅紗地に八方睨みの龍
地元、渡辺喜平治や一門の手になる

・倭三丁目
本坐人形は静御前
もと東京日本橋の伊勢、小田原、瀬戸物の三町共有の山車であった
もの、明治七年に譲られた
太刀を背に扇を持って舞う姿
作者は松雲齋徳山で、嘉永元年(一八四七)の作と伝える
鶴ヶ岡八幡で舞う静の姿
三つ巴の神紋が向拝幕や刎勾欄の金具に見られる
清和源氏の流れを汲む花菱紋
が三味線胴の隅金具
特に
上段大幕の鶴と瑞雲
下段大幕の若松
は見事というほかない
静御前山は、かって江戸の室町ほかの共有で、加茂の能人形、本石町の所有、乗妙一來法師、などとならぶ山王祭では五指にはいるといわれる名臺だったが、幕末の元治元年に曳かれたまま曳かれることはなかった。
江戸の山王権現社も明治以降は日枝神社と改名され、吉野静は舟に積んで隅田川を上り巴波川(うずまがわ)を経て栃木に着いたという。

・室町
本坐人形は桃太郎
山車は三段式
総欅造
中段大幕正面には御祭禮の文字が金糸で刺繍されている
明治二十八年
佐野の大沢銀之丞の作
正面六尺
奧行九尺高さ十八尺
その上に七尺五寸の人形を飾る
囃子臺欄間の波に千鳥の彫刻
正面に昇龍
側面は遊泳する鯉

・泉町
本坐は諫鼓鳥
もと宇都宮にあったものを明治七年に譲り受けた、幕末頃の作といわれる。
作者は不明
中国の故事に、尭帝のころ朝廷の門前に太鼓を置き、政道の誤りある時は
人民にこれを打たせて民意を聞こうとしたが太鼓は一度も鳴ることはなく、諫鼓苔深くして、鳥驚かずという状態だった。このことから、国がよく治まる天下太平の象徴となった江戸の山王祭には、大伝馬町の諫鼓鳥が曳かれている。

・大町
本坐人形は武蔵坊弁慶
ときに変更される
正面の柱には昇龍、降龍の彫刻
欄間の正面は花鳥の彫刻
裏格子(側面?)は葡萄に木鼠
豊作祈願
松に鶴
千年の寿齢を賀す。
脇は波に亀
前垂れは鶯宿梅
これらの彫刻は嘉永年間、富田宿の二代目、自在甚五郎をなのる通称、儀兵衛、磯部蟻義の作と
いわれる白木透かし彫。

□問い合わせ
栃木市商工観光課
電話0282-22-3535

□山車文献資料
・栃木市史 民俗編、史料編、近現代編1-2、通史編
・栃木の江戸型山車 平成六年十二月三日発行 編著者太田義男
・江戸型山車の行方 千代田区教育委員会 千代田区
・東京年中行事 1-2、若月紫蘭
・易と日本の祭祀 吉野裕子
・神々の誕生 吉野裕子
・暦と占いの科学 永田久
・年中行事を科学する 永田久
・十二支物語 諸橋轍次
・日本のかたちアジアのかたち 杉浦康平
・韓国紋様辞典 河出書房新社
・武江年表、1-2 斉藤月岑著、金子光晴校注
・絵本江戸風俗往来 菊池貴一郎
・江戸建築叢書 大熊喜邦
・面とペルソナ 和辻哲郎


00200 粉河祭

2007年08月25日 | 日本の山車
00200 粉河祭
和歌山県紀の川市(旧粉河町)粉河
産土神社
祭は七月下旬。
燈明臺を曳く。

□山車(燈明臺)
・本町
・中町
・東町
・北町
・葵町
・根来町
・天福町
・這上り町
・鍛冶町
・石町
・蔵之町
・松ヶ枝町

□汎論
粉河街道
泉佐野市から和泉山脈の灯明岳、三峰山を越え、紀の川谷に通じる街道は、粉河寺への参拝街道として古くからにぎわった。
粉河町
紀の川の北岸に粉河寺の門前町として発達し、伊勢と淡路街道の分岐点で、高野大門にいたる西高野街道にいたる河港だった。
粉河寺
風猛山粉河寺といい、七七〇年(宝亀一)の創建と伝えられ、天台宗の西国三十三所霊場第三番の札所である。鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北共四キロ余りの広大な境内地があったといい、寺領四万余石を有していたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の兵乱にあい焼き払われた。このとき多くの寺宝を焼失したが、再建され、江戸時代は紀州徳川家の保護や信徒の寄進によつて徳川時代中期に現在の諸堂が完成した。那賀郡第一の大郷といわれる町となった。古来釣鐘の鋳造がおこなわれ、粉河鍛冶町ともいわれた。粉河寺の多宝塔は国宝の指定を受け、八暢神社、大日堂などがある。
有名な粉河寺縁起絵巻、絵巻物の一巻が伝わる。粉河寺縁起絵巻は鎌倉時代初期、十二世紀後半に絵巻に描かれたという。絵巻は粉河寺の縁起と本尊千手観音の霊験説話を描く。もとは二巻だったが、いまは一巻にまとめられている。火災で巻頭部を失った。第一の説話は、宝亀元年(七七〇)に大伴孔子古が千手観音を祭り、粉河寺を開いた由来、第二の説話は河内国の長者の娘が観音の加護をえて難病から救われたという霊験絵物語である。粉河町では、燈明台と呼ぶ丈の高い独特の山車(燈明臺・だんじり)を曳く。

□問い合わせ
紀の川市商工観光課
電話0736-73-3311