暘州通信

日本の山車

00207 尾張津島天王秋祭

2007年08月31日 | 日本の山車
00207 尾張津島天王秋祭
愛知県津島市神明町一番地
津島神社
□祭は一〇月上旬
山車十三臺を曳く

・北町車
文化六年(一八〇九)の建造と推定される。
からくり人形戯がある。
機関樋(からくりとい)に文政一一年(一八二八)の記載がある。
人形は四体。

・米之座車
からくり人形戯がある。
人形は四体、明治二〇年、五代、六代の玉屋庄兵衛の作。
高砂と神主が宝船に変わる。
明治三二年、六代目玉屋庄兵衛作。

・高屋敷車
嘉永二年(一八四九)の建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。

・小之座車
天保年間に改修が行われている。
からくり人形戯がある、
人形四体。
獅子舞をする。

・池町車
寛政年間の建造という。
からくり人形戯がある。
寛政六年(一七九四)の作
唐子がさかだちする。

・麩屋車
嘉永元年(一八四八九)の建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。
湯取巫女が湯取神事をする。

・布屋町車
文政一一年ー嘉永二年にかけて建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。
蛭子と大黒の二福神の舞我行われる。

向島の山車 神明町居森社の祭礼
・中之町車
からくり人形戯がある。
人形四体。
唐子の文字書きがある。

・馬場町車
からくり人形戯がある。
大黒の打出の小槌から唐子が出る。

・上之町車
からくり人形戯がある。
唐子が綾渡りする離れからくりがある。

今市場 大土社の祭
・小中切車 
寛政一〇年(一七九八)の建造。
からくり人形戯がある。
住吉明が社殿となりまた明神にもどる。安政四年(一八五七)五代目玉屋庄兵衛の作。

・大中切車
寛政一一年(一七九九)の建造。工匠は吉右衛門。
からくり人形戯がある。
翁と唐子遊び我行われる。

・朝日町車
建造期不詳
からくり人形戯がある。
人形三体。
湯立神子と神官。

石採祭車

・南部車
大正五年の創建。
天幕は、猩々緋に素盞鳴命の八岐大蛇退治。

・中部車
大正六年の創建。
天幕は青緑地。竹に虎。

・北部車
大正六年の創建。
天幕は白地に神武天皇と八咫烏。

・唐臼町
昭和三一年、桑名市江戸町が建造した石取り車
南濃町駒野黄金山から外堀北を経て譲り受けた。
天幕は赤地に松平氏の星梅鉢を染め抜く。

00205 千田祭

2007年08月31日 | 日本の山車
00205 千田祭
和歌山県有田市千田一六四一
須佐神社
祭神は素戔嗚尊
境内社に天照皇大神社、月讀尊社、伊太祁曽社(遥拝所)がある。
伊太祁曽社とのかかわりが深かったようである。
由緒、和銅六年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座したと伝えられる。
□祭は一〇月中旬。
太鼓臺六臺を曳く。

□汎論
鯛投神事、けんか祭の別名がある。伊太祁曽神社から氏子代表の参詣があり、伊太祁曽神社の祭にはここの須佐神社氏子が赴く。
延喜神名式には紀と出雲に共通する神社名がある。島根県の出雲氏は大阪府和泉を押さえ、次第に紀州に勢力を伸ばしたと推定する。応神天皇陵、仁徳天皇陵と伝えられる陵墓も出雲系かもしれない。

出雲意宇 熊野大社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社 とあるのは現在の 紀名草 加太神社
出雲意宇 速玉神社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野早玉神社
出雲意宇 韓国伊太神社 とあるのは現在の 紀名草 伊達神社
である。韓国伊太神社は伊太祁曽神社とのかかわりが考えられる。
岐阜県の伊太祁曽神社
岐阜県飛騨地方に伊太祁曽神社六社が祭られるのはこの神社を氏神とする氏族にかかわりがあろうと推定している。
熊野灘から木曽川を遡上し長野県安曇氏とおなじ経路をたどっている。
信州木曾は、伊太祁曽とかかわりがあるだろう。
紀伊續風土記
紀伊續風土記 巻之五十八 在田郡 保田荘 千田村から須佐神社の項に、
 境内方四町四十間 禁殺生
 祀神 素盞烏尊
 末社十社
  天照大神
  手力雄命
  伊弉諾尊        
  日本武尊社
  伊弉伊弉冉尊
  月讀尊 
   以上瑞籬の内にあり
  瀬織都理比賣社
  多紀理比賣社
  市杵島比賣社
  多紀都比賣社
  宇迦御靈神
  軻遇突知命
  大巳牟遅名社
  猿田毘古命社
   以上社地の内所々にあり

  神楽所 宿直所 與舎
  四脚門 寶蔵 御太刀寶蔵
  御装束間 御祈祷所 厩
  伊太祈曽神社遥拝所
 延喜式紀伊國在田郡須佐神社 名神大 月次新嘗
 本國神名帳在田郡従一位須佐大神

 村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす。郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年正月二十七日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり、此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂尾明恵上人傳記建仁元年の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり是古より今の社地に鎭座の明證といふへし社家の傳に和銅六年十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり、寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり 詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃まては毎年九月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり。
天正七年、豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚しこれに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし其後神殿を造營し今の姿となる社領没収の後も祭祀古の姿を模して九月十四日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ元和年中、新に社領五石を寄附し給ひ享保年中、大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり。
とある。