暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 10

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 10

龍臺
 龍臺は、文化一三年(一八一六)谷口與兵衛紹芳が主任工匠となり改造をおこなった。明治一三年、谷口與三郎宗之により修理された。中臺欄間波間の飛龍彫刻の下絵は現存する。彫刻も宗之である。宗之は谷口與鹿の兄延儔の子で、叔父と甥の関係である。明治一九年に大改修が行われた。
初期の龍神臺は、屋臺を舞臺として藝能を演じる藝屋臺で、おなじような歴史を持つ青龍臺や、飛騨市・古川祭の白虎臺と共通する屋台だったと考えられる。
長濱祭では屋臺のうえで歌舞伎などの藝が演じられるが、この影響は裏日本、丹後一帯、舞鶴市(現在はなし)、小松市小松こども歌舞伎、小矢部市石動(現在はなし)、礪波市出町子供歌舞伎、入善町(現在はなし)、宇奈月(現在はなし)などにひろく伝播していた。
江戸時代の高山は上方からは「北陸」とみられており、北陸文化の影響を強く受けた。
本町の琴高臺は越中八尾の同名屋臺の影響を受け、赤田臥牛が命名して建造されたものである。文化年間までは舞臺藝として「龍神」が舞われたが、改修時に下一之町から猩々の人形を譲り受けてこれを祭神にまつり、やがて人形が所作をおこなう「龍神」が完成した。竹生島と比定されるが、「猩々」である。
見送りは二幅あって、試楽には玉泉の龍、本祭は久邇宮朝彦親王の書をかける。
今の屋台の屋根は神明造であるが、旧龍神臺の屋根は唐破風だった。
道行の屋臺囃子は龍神臺は蘭陵王を崩した編曲がつ演奏される。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料



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