暘州通信

日本の山車

論攷 斐太ノ工 六五

2011年04月03日 | 日本の山車
論攷 斐太ノ工 六五
 巷説に、【飛騨は古来下下の下の国といわれる貧しい国で、律令が定められたときには、貢租三項目、つまり、「租、庸、丁」のうち租、庸の二項目を免じ、「丁」のみ適用され人足が徴用された。これらの人足は都に集められ、その造営に関わった。これが斐太の工のはじまりである」とあり、いろいろな文献芋引用されている。
 しかし、この説には誤りがある。
 斐太の工は日氏を構成する氏族で、大和朝廷成立以前、すでにに海神族(綿津美氏)、出雲氏らとともに前世紀から各地に進出し、スサノオノミコト、オオナムチノミコトなどの祖神を祀る神社の造営に関わっている。これらの普請が無い平時は農耕に従事していた。これらの伝統は近年まで続いている。日本を代表するような建設会社の系譜の中には斐太の工を祖先とする会社がいくつもあり、その代表を務めるような人物も、若いときは飛騨で修行していて、田植えから稲刈りまで従事するのは普通のことであった。
 都を遠く離れた鄙びた土地を、「いなか(田舎)」というが、これは、もともと斐太の工の一氏族である「イナ(伊奈)氏」の住む土地のことである。飛騨地方には「稲」の姓がつく旧家があるが、それらぼなかには斐太の工の末裔である家計である例がしばしば見られる。
 つまり、飛騨は誇り高い田舎なのである。

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