暘州通信

日本の山車

◇28814 神統譜と皇統譜は一致しない

2009年07月25日 | 日本の山車
◇28814 神統譜と皇統譜は一致しない
 日本全国どこに行っても神社があり、祭が行われる。祭は神職により歳旦祭にはじまり、年間を通じて月
次祭(つきなみさい)、あるいは多くの神社固有の齊事などが行われ、一般人が知るよりもはるかに多彩である。例祭は、なかでも最も親しまれる神事である。 古代において「ムラ」の神社に祀られる祭神とは、一族の祖神であり、産土神、あるいは鎮守として篤く尊崇してきた。ムラは、コホリ(コオリ)にまとまり、コホリは幾つか集まって「クニ」を形成した。クニに集約された神社は惣社であり、もっとも高位のものは「一宮」といえよう。古代においては集団生活の中心をなす存在であったと推定される。全国の神社と祭神を皇室に祀られる神は、一致しない。
 ジングウコウゴウ(神功皇后)の出自は賀茂氏とされ、滋賀県湖北の息長氏の息女とされるが、一方には「実在しない皇后」という説まである。
 仲哀天皇は、神功皇后と九州征伐にでかけたが、仲哀天皇が瀬戸内の航路をとったのに対し神功皇后は、越前敦賀を出向して、長府(山口県)で合流、行在所に落ち着いたあと。九州北部の香椎の宮(福岡県)に移っている。しかし、ここで仲哀天皇は死去される。 そのあと、神功皇后は身重の体で朝鮮に渡海し、三韓征伐をしたというのが、一般に流布している通説である。
 仲哀天皇が征伐に行った相手とはだれか? 
 それは、皇室の祖神たる「海神族・安曇氏」だったと考えられる。さらに考えをめぐらせば、大和地方で次第に擡頭した天孫族は、その威信をしめすに皇統譜をあきらかにし知らしめるため、祖神を海神氏までさかのぼって明らかにする必要にせまられた。その目的が九州行幸であったと考えられる。
 そのかみ、アマテルカミとスサノオノミコトの不和により海神氏から離反した天孫族は、ひとたびは大和に収まったが、海神氏との交渉は難航し、神功皇后は朝鮮の縁者を頼って、和解の道を模索したが、ついに円満に解決することはなく、強く求めた宗像三女神の引渡しを果たしえず、別に上筒男、中筒男、底筒男の三神をたて、「ツミエノカミ」として、住吉大社を祀ることとなったのであろう。
 天孫族はさらに勢力を拡大していったが、大和における存在はきわめて不安定で、神をはなれ、仏教とむすぶ方向変換が行われた。これには、大化の改新とこれをとりまく一族のあいだに大きな犠牲がはらわれた。
 難波に四天王寺、大和に法隆寺が建立され、仏教の興隆には朝鮮百済系氏族が関わり勢力を強めた。この過程で蘇我氏が滅亡し、物部氏が次第に疎外された。また、アマテラスオオミカミも皇室をでることとなった。
 このあと皇居も遷都をかさね、一時は近江、信楽と変遷し、平城京が営まれ、聖武天皇により全国に国分寺が建立された。仲哀天皇と神功皇后のあいだに生まれたのちの應神天皇は、はじめて仏式をとりいれた天皇として知られるが、惣国分寺たる東大寺の別当手向山八幡宮には、僧体の「僧形八幡神像」までつくられている。
 十一世紀になって桓武天皇は平安遷都をおこない、比叡山に延暦寺を開基。その後、京都は長く都として平安の地位を得ることになった。
 その背後には賀茂氏と、秦氏の前面支援があったことは否定できない。
 天皇家は上賀茂神社、下加茂神社の祭にはに勅使を送って奉齊する。
 七世紀から十一世紀は、寺院の建立が盛んであったが、平安遷都以来。仏教と並行して神社への信仰が復活した。
 延喜式が編纂され、神名帳が完成しれたのはこの時期にあたる。
 このおよそ四〇〇年の空白期において、皇室の神と主として出雲系神の間がおおきく乖離することになった。
 その後は、神仏が褶合し、権現という褶合神も出現し定着していったが、明治維新により徳川政権が終わり。明治政府になると「神仏分離令」が発布されて、こんどは寺院が冷遇されることとなった。
 昭和二〇年八月の敗戦により、神社への意識は国民から遠のいた。

□外部リンク 
◇日本武尊の子孫、仲哀天皇と神功皇后等を祭祀する神社
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... 鞍手周辺は日本武尊を祭祀する神社が殆んどの中、ここは日本武尊(ヤマトタケル)の子供とされる仲哀天皇と、お后で歴史上有名な神功皇后を祭祀する神社です。  また神功皇后が朝鮮から戻ってきてから福岡県の地で生まれたとされています応神天皇が祀ら ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yamato2863/38599554.html

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... 祇園八坂神社の鳥居だった。 そのまま南へ、氷室神社に着く。氷室神社の枝垂れ桜は青々とした葉を伸ばしていた… 写真1-聖武天皇陵、 写真2-聖武天皇陵、 写真3-光明皇后陵 写真4-若草中学校(多聞城跡) 写真5-玉鐵稲荷神社:創建嘉吉2年(1442 ...
  http://blogs.yahoo.co.jp/ikoma21jp/21067535.html

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