暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (四七七)

2013年08月01日 | 日本の山車
玉依姫 様 (四七七)
 ……これは仮説です。
 千葉県【大多喜町】は、中世以後城下町として発展してきた土地ですが、長南の武田氏、万木の土岐氏、小浜の槍田氏、安房の里見氏ら戦国諸氏が割拠し、たびたび武力衝突がありました。天正十八年(一五九〇)に、【徳川四天王】のひとり【本多忠勝】が一〇万石をもって封じられたのは、当地が穀倉地帯として徳川幕府が如何に重要視していたかを物語るものでしょう。
 江戸時代の【御蔵米(官米)】は、農民が年貢となる米を、藩が指定した【郷蔵】に納めましたが、藩内では生産にかかわらない非生産者のために御蔵米を放出し、商家などではこのお米を買い入れて生活していました。
 江戸時代の米価は、難波・大坂の堂島で米相場がたてられここできまった米価が標準となりました。
 このことは、関西以西の米の生産地は、年貢となる米を直接江戸に送ることなく、【為替制度】が発展し、関西以西の生産地では、年貢に相当する米を江戸で調達(買い受け)ておさめるという特殊な米・貨幣経済制度がありました。

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