暘州通信

日本の山車

01148 上山三社合同祭

2008年06月10日 | 日本の山車
01148 上山三社秋祭
山形県上山市
宮脇 宮脇八幡神社
二日町 八幡神社
元城内 月岡神社
□祭は九月中旬
山車(囃子屋臺)二臺を曳く。

□山車(囃子屋臺)
・上山若連
宝暦二年(一七五二)に担ぎ山がでたとの伝承がある。
・いろは組
昭和八年の建造。

□汎論
宮脇八幡神社は上山市の南東、三吉山の麓、宮脇の高野坂にある。寛治七年(一〇九三)に、源義家が戦勝祈願のため創祀、正平十一年(一三五六)に、斯波兼頼が本殿を再建したとの言い伝えがあるが、詳細は不明である。境内には欅の巨樹があり、古社の風格を伝えている。
月岡神社は、元禄十年(一六九七)に、藤井松平家七代の信通が備中庭瀬から上山へと転封になったとき、信通は城本丸に東照宮を創建した。松平利長、信一を併祀する。
次のような話がある。
豊臣秀吉の外戚で、剛勇を持って知られる加藤清正は肥後熊本に封じられたが、城主だった忠弘の子、光正は当時江戸にいたが、恒例になっている武具の虫干しの際、「一汗かこう」といって、供二十騎程を引きつれ表に出たところ、たまたま加藤家の家老と出くわし、「なにごとでございます」と驚く家老に、「合戦じゃ」とひとこと言い置いて江戸の町を闊歩して帰ってきたところ、数百名の武士が合戦姿の装束で待ちかまえていた。家老が江戸城に注進したのである。
事態はすぐ知れ合戦というのは戯言であるのは判明したが、これが穏便にすまなかった。あいだに人を立てて懇願しても、聞き入れられなかった。冗談では済まされなかったのである。急遽熊本から江戸に呼び出された忠弘に、肥後熊本城取り上げが告げられ加藤家はお取りつぶしと成った。
かくて、忠弘は、出羽上山に移され閉門。光正は飛騨高山の金森藩にお預け。それぞれの地に移された。
上山にあって、忠弘は幽閉されたまま屋敷で死去。光正は高山で半年後に死去した。十七歳だったといわれる。
加藤家は法華宗であるが、高山には法華宗寺院がないので越中富山はんより、一院を招き菩提を弔うことになった。その墓は飛騨地方では一番大きな五輪塔である。
元禄四年、高山で六代続いた金森氏は改易となった。そのさきが上山藩である。
金森氏が上山にあったのはわずか数年で、美濃の郡上八幡に再改易となったが、これも宝暦年間におきた郡上一揆で、金森氏はその責を問われてお取りつぶしとなった。
 名高い郡上八幡の盆踊り民謡、「かわさき」に、

 郡上のなあ 八幡 出て行くときは 雨の降らぬに袖絞る

 とあるのは、金森氏をはじめ各地に散っていった人たちの惜別のうたなのである。
出羽上山と飛騨高山には浅からぬ因縁がある。
庄内の清河八郎は死去後、最上川沿いの清河神社に祀られているが、車号は、山岡鉄舟の揮毫である。




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