◆谷口與鹿命名の由来 更新
このごろではかなり簡略化されているが、正月が来ると各家の戸口には、七五三縄がかけられ、門松が立てられる。門松は【歳徳神】をお迎えする【招代】であって、【歳神・としがみ】とよばれる福神をお迎えするために立てられるものである。山車の原初の姿をとどめている。
これとあわせてと戸口である玄関先には注連縄(しめなわ)が貼られるが、その形態は各地に様々なものがある。たとえば。信州(東信)では。【牛蒡締・ごぼうしめ】とよばれる七〇-八〇センチメートルくらいの一本締めを綯いはじめを上に末広の末(綯おわり)を下にしたものがかけられている。
飛騨地方(岐阜県北部)では。綯った標縄を三重に巻いたものが用いられる。これを【輪締め】と呼んでいる。これは各戸によって違いはあるものの、戸口のみならず、昔は井戸や、竃門(かまど)にもかけられた。近年は初詣の自動車にもかけられているものを見かける。
注連縄(しめなわ)は俗と清浄の結界に貼られることが多いが、その思想には災厄を締め出し招かない願いが込められている。
高山の屋臺には、上町(かみちょう)、樂臺彫刻をはじめの、唐子遊戯圖とよばれる麒麟臺下段彫刻、手長・足長とよばれる惠比壽臺彫刻、琴高臺(きんこうたい)の彫刻、下町(しもちょう)大新町、鳳凰臺の下段彫刻、そのほか名品を彫刻した谷口與鹿(たにぐち・よろく)は、若い時は中川吉兵衛に可愛がられ弟子として修行したが、この與鹿がまだ一〇歳前後の頃の話である。
子供の頃は手の付けられないいたずら小僧だった。正月をまじかに控えた中川吉兵衛宅では新藁を打って、輪締めをつくり、與鹿に手伝わせて各所にかけたが、一本余ったのだった。
その輪締め行方はしばらくすると奇妙な噂となって伝わってきた。
飛騨一ノ宮水無神社の「神馬のしっぽに輪締めがかけられている……」、この話を聞いた吉兵衛は、まさか? とは思ったが、やはり與鹿のしわざとわかって絶句した。
正月早々のお説教である。吉兵衛は神妙にうなだれる與鹿に向かって諭す。
「……碌でもないことばかりしおって、まったくしようのないやっちゃ、ことしからは少しはましになるように、おまえに、[六]をやろう。左甚五郎先生よりももう一段えらい人になれ
」。
のちに、與鹿はこれを号として用いることとなった。ときに【与六】と書いたものを見かける。
このごろではかなり簡略化されているが、正月が来ると各家の戸口には、七五三縄がかけられ、門松が立てられる。門松は【歳徳神】をお迎えする【招代】であって、【歳神・としがみ】とよばれる福神をお迎えするために立てられるものである。山車の原初の姿をとどめている。
これとあわせてと戸口である玄関先には注連縄(しめなわ)が貼られるが、その形態は各地に様々なものがある。たとえば。信州(東信)では。【牛蒡締・ごぼうしめ】とよばれる七〇-八〇センチメートルくらいの一本締めを綯いはじめを上に末広の末(綯おわり)を下にしたものがかけられている。
飛騨地方(岐阜県北部)では。綯った標縄を三重に巻いたものが用いられる。これを【輪締め】と呼んでいる。これは各戸によって違いはあるものの、戸口のみならず、昔は井戸や、竃門(かまど)にもかけられた。近年は初詣の自動車にもかけられているものを見かける。
注連縄(しめなわ)は俗と清浄の結界に貼られることが多いが、その思想には災厄を締め出し招かない願いが込められている。
高山の屋臺には、上町(かみちょう)、樂臺彫刻をはじめの、唐子遊戯圖とよばれる麒麟臺下段彫刻、手長・足長とよばれる惠比壽臺彫刻、琴高臺(きんこうたい)の彫刻、下町(しもちょう)大新町、鳳凰臺の下段彫刻、そのほか名品を彫刻した谷口與鹿(たにぐち・よろく)は、若い時は中川吉兵衛に可愛がられ弟子として修行したが、この與鹿がまだ一〇歳前後の頃の話である。
子供の頃は手の付けられないいたずら小僧だった。正月をまじかに控えた中川吉兵衛宅では新藁を打って、輪締めをつくり、與鹿に手伝わせて各所にかけたが、一本余ったのだった。
その輪締め行方はしばらくすると奇妙な噂となって伝わってきた。
飛騨一ノ宮水無神社の「神馬のしっぽに輪締めがかけられている……」、この話を聞いた吉兵衛は、まさか? とは思ったが、やはり與鹿のしわざとわかって絶句した。
正月早々のお説教である。吉兵衛は神妙にうなだれる與鹿に向かって諭す。
「……碌でもないことばかりしおって、まったくしようのないやっちゃ、ことしからは少しはましになるように、おまえに、[六]をやろう。左甚五郎先生よりももう一段えらい人になれ
」。
のちに、與鹿はこれを号として用いることとなった。ときに【与六】と書いたものを見かける。
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