長浜の影響を強く受けた山車3臺を曳き、子供歌舞伎が演じられる。
垂井町
岐阜県の南西部に位置する。1954年10月に垂井、宮代、表佐、府中、岩手の五村および河村の一部が合併して町制を布いた。東海道線に沿い、古くは美濃の国府が置かれた所で、中仙道と美濃路の分岐点にかたる駅として発達した。
曵山の始まり
文和2年(1353)6月、南北朝期、南朝軍がは一時京都を制したが、このとき北朝後光厳天皇は垂井に難を避けられた。このとき京都の祇園社僧の顕詮と宰相律師顕深は綸旨を奉じて午頭天王を勧請し、垂井の行在所である黒木御所に分祀した。
やがて、京都は戦乱がおさまり、足利尊氏は帝を京都に迎えるため垂井に出向き、9月25日帝は京都に還御された。
里の人々は、これを祝し、花山三臺を作って曳き始めたのが現在の曵山の始まりという。祀られた午頭天王を垂井の総産土神として創祀することになり後光厳帝により午頭天王社と命名された。
江戸時代にいたり、天文元年、長屋城主は神地、神殿を寄進し現在の地に遷座した。
神社名は明治の神仏分離令により、従来の名称から八重垣神社に改められた。
五月一日は足揃え、
二日は試楽、
三日は本楽、
四日は後宴。
と祭りは四日におよぶ
・西町攀鱗閣
文化五年(一八〇八)の作
・中町紫雲閣
明治三年(
長浜の藤岡和泉により大改造
・東町鳳凰山
寛政一〇年(一七九八)の作
三つの山倉前で初日の芸を披露する
試楽
午後〇時より山を曳き各町内で芸を披露する午後六時になると各町の山はその年の順序により、上り山といい青年たちによって曳行され八重垣神社に整列する。
一番山が芸を奉納し試楽宵山の儀式が終了すると、下り山の囃子にのって三臺の山は各町内に帰る。
本楽
午前一〇時八重垣神社で祭礼が行われ、正午には「古式練り込み行事」が行われる。
各町内でその年の稚児歌舞伎に出演する男子の小学生が衣装をつけて練りこむ。山名人の道中着を着た二人の露払いが鉄杖を曳きながら先頭に立つ。つづいて大太鼓を二人で前後に担ぎ、一人の打ち方がつく。次に榊と幣を持つ、二人の烏帽子姿の子供神幟二本、茶箱をかついだ供、歌舞伎役者の芸児、これに紋付き、羽織、袴に白足袋、紅白の扇子を持った青年が日傘を差して付き添う。
神社に着くと一番山から順に歌舞伎を奉納し、芸を終えた山から「下り山」の囃子に乗ってさがる。これを客山という。
後宴
町内で午後に奉芸を行う。
夜十一時頃、氏神社の方に山を向け、千秋楽の芸能を奉納する。これを名残りという。
花車は安永年間に舞台づくりの構造になり、子供による能狂言が行われてきたが、文政年間にさらに改造され、稚児歌舞伎を奉納するようになった。
各山はいずれも精巧優雅な作で、漆塗りに蒔絵を施し、金具、絵画、彫刻は繊細華麗で岐阜県の重要文化財に指定されている。
垂井町
岐阜県の南西部に位置する。1954年10月に垂井、宮代、表佐、府中、岩手の五村および河村の一部が合併して町制を布いた。東海道線に沿い、古くは美濃の国府が置かれた所で、中仙道と美濃路の分岐点にかたる駅として発達した。
曵山の始まり
文和2年(1353)6月、南北朝期、南朝軍がは一時京都を制したが、このとき北朝後光厳天皇は垂井に難を避けられた。このとき京都の祇園社僧の顕詮と宰相律師顕深は綸旨を奉じて午頭天王を勧請し、垂井の行在所である黒木御所に分祀した。
やがて、京都は戦乱がおさまり、足利尊氏は帝を京都に迎えるため垂井に出向き、9月25日帝は京都に還御された。
里の人々は、これを祝し、花山三臺を作って曳き始めたのが現在の曵山の始まりという。祀られた午頭天王を垂井の総産土神として創祀することになり後光厳帝により午頭天王社と命名された。
江戸時代にいたり、天文元年、長屋城主は神地、神殿を寄進し現在の地に遷座した。
神社名は明治の神仏分離令により、従来の名称から八重垣神社に改められた。
五月一日は足揃え、
二日は試楽、
三日は本楽、
四日は後宴。
と祭りは四日におよぶ
・西町攀鱗閣
文化五年(一八〇八)の作
・中町紫雲閣
明治三年(
長浜の藤岡和泉により大改造
・東町鳳凰山
寛政一〇年(一七九八)の作
三つの山倉前で初日の芸を披露する
試楽
午後〇時より山を曳き各町内で芸を披露する午後六時になると各町の山はその年の順序により、上り山といい青年たちによって曳行され八重垣神社に整列する。
一番山が芸を奉納し試楽宵山の儀式が終了すると、下り山の囃子にのって三臺の山は各町内に帰る。
本楽
午前一〇時八重垣神社で祭礼が行われ、正午には「古式練り込み行事」が行われる。
各町内でその年の稚児歌舞伎に出演する男子の小学生が衣装をつけて練りこむ。山名人の道中着を着た二人の露払いが鉄杖を曳きながら先頭に立つ。つづいて大太鼓を二人で前後に担ぎ、一人の打ち方がつく。次に榊と幣を持つ、二人の烏帽子姿の子供神幟二本、茶箱をかついだ供、歌舞伎役者の芸児、これに紋付き、羽織、袴に白足袋、紅白の扇子を持った青年が日傘を差して付き添う。
神社に着くと一番山から順に歌舞伎を奉納し、芸を終えた山から「下り山」の囃子に乗ってさがる。これを客山という。
後宴
町内で午後に奉芸を行う。
夜十一時頃、氏神社の方に山を向け、千秋楽の芸能を奉納する。これを名残りという。
花車は安永年間に舞台づくりの構造になり、子供による能狂言が行われてきたが、文政年間にさらに改造され、稚児歌舞伎を奉納するようになった。
各山はいずれも精巧優雅な作で、漆塗りに蒔絵を施し、金具、絵画、彫刻は繊細華麗で岐阜県の重要文化財に指定されている。
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