暘州通信

日本の山車

◆18401 高良大社

2011年01月18日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18401 高良大社
論攷 延喜式神名帳
□旧社名 高良玉垂命神社
□現社名 高良大社
□所在地 福岡県久留米市御井町
□旧国名 筑後國
□祭神
コウラタマタレノミコト 高良玉垂命
配祀 
ハチマンオオカミ 八幡大神
スミヨシオオカミ 住吉大神 
合祀 
トヨヒオオカミ 豐比大神
□汎論
 高良大社は、延喜式神名帳筑後國三井郡に記載される、筑後三社のうちの一坐で、名神大社と記載される。筑後國の一宮である。
 神社はひときわ高い高良山に祀られる。創祀は社伝に拠れば仁徳天皇期(三六七))または(三九〇)とあり、社殿の創建は履中天皇期(四〇〇)とある。
 高良山内には神籠石が三個所ある。その一は水神社で高良大社の奥宮とされる。その二は神籠石。その三は味水御井神社で、朝妻の泉と呼ばれる。
 祭神のコウラタマタレノミコト(高良玉垂命)は『古事記』、『日本書紀』ともに記載が無い神で古来論議の対象となってきた。一説には、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)はタケノウチノスクネ(竹内宿禰)としている。
 コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)の「玉」は、ジングウコウゴウゆかりの乾珠・満珠のことだという。下関市(山口県)には、ジングウコウゴウ(神功皇后)の抛げた二珠は、干珠・満珠の二島になったとの伝説がある。また、豊玉媛から賜った玉のことだとも言うが、いずれも確証がない。
 久留米の地元には不思議な伝承があり、高良山にはもとタカミムスビノカミ(高木神、高御産巣日神、高牟礼神)があったが、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)が一夜の宿を借りたいと申し出たため、高木神が聞き入れ一夜の宿を貸したところ、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)はそのまま居座って結界を張り、ついにこの地にそのまま鎮ってしまったというものである。旧来の高木神は麓にくだり、高樹神社として祀られている。示唆に富んだ話である。
 筑紫國はおおむね海神族(綿津美氏)の支配する國であった、これが筑後川を境に南北に分割され筑前國と筑後國に分割された経緯を考えると、当時『魏志倭人伝』に記載される
倭國大乱による海神族(綿津美氏)の疲弊、あるいはなんらかの譲歩があったと推定される。
 高良には、高麗に通じる語韻がある。高麗(高句麗)は六九八年に唐と新羅により滅ぼされており、大磯(神奈川県)の高来神社。日高市(埼玉県)の高麗神社(高句麗神社)はそのときの高麗からの渡来人たちにより祀られたといわれる。
 大磯の高来神社の祭神は、
   カミムスビノミコト 神皇産霊尊
   アマツヒコホニニギノミコト 天津彦穂邇々伎尊
   オウジンテンノウ 応神天皇
   ジングウコウゴウ 神功皇后
 日高市(埼玉県)の高麗神社(高句麗神社)の祭神は、
   コマノコシキノジャッコウ 高麗王若光
   サルダヒコノミコト 猿田彦命
   タケノウチノスクネ 武内宿禰命
である。 高良大社の祭神である、しかし、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)の名は無い。
 肥前國(長崎県)から筑後國にかけて高良神社ガ点在する。このことは朝鮮半島からの渡来人らが海神族(綿津美氏)と衝突するのを避け、長崎半島、島原半島を迂回し、有明海から筑後川に沿って遡上(東進)下のではないかと想像される。
 サルダヒコノミコト(猿田彦命)、タケノウチノスクネ(武内宿禰命)はいずれも朝鮮半島からの渡来人とされている。

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