暘州通信

日本の山車

23114 王義之

2007年06月03日 | 日本の山車
23114 王義之
書聖として著名な王羲之(おうぎし)の生没は、通説として三〇三-三六一をとるが異論や異説がある。王羲之の書には、
蘭亭序、楽毅論
快雪時晴帖
十七帖
黄庭経
喪乱帖
孔侍中帖
初月帖
集王聖教序
興福寺断碑
などがあるが、唐の太宗・李世民は王羲之の書に心酔してこれを集め、崩御のとき、遺言により蘭亭序を含むすべてをすべて墓に収めたと言いい、王羲之の真筆は存在しないのでは? と言われている。
現在、王羲之の書とされているものも、唐代に太宗の命令で複写したもの及び、太宗が作らせた拓本のみであると言われ、現世に伝わるものがない。
真筆に近いとされる王羲之の書としては、
『快雪時晴帖』
が現存し、台北の故宮博物院で展示されている。かっては、唯一の真筆と考えられており、清の乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「神」と記したという伝承があるが、現在はこの真筆説も疑問視されているようである。
史書等によると、中国東晋の政治家、書道家。字は逸少。右軍将軍であったことから王右軍とも呼ばれている。琅邪王氏の王導や王敦らの一族とされる。
家族は、曾祖父の王覧(王祥の弟)
祖父の王正
父の王曠
その子には、
王玄之・長男
王凝之・次男
王徽之・三男
王操之・四男
王献之・七男
七男一女があったという。
孫には、
王之(徽之の子)
王静之(献之の同母兄の子)
らがいる。
もと琅邪郡の臨沂(現在は山東省)、後に山陰(現在の浙江省紹興市付近の古地名)に遷居し、右軍将軍、会稽内史、揚州刺史などを歴任し、三五一に官を辞したという。
王羲之は、末子の王献之とともに二王ともいう。
王義之故居
近年(1一九九〇)に、王義之を讃えその故居とされる臨沂市中心の洗硯池路に建設された。「洗硯池公園」とも呼ばれている。
王義之の書は、日本書道の源流とも言いわれる、奈良、平安期の能書家、小野道風、藤原佐理、藤原行成等は王義之の書法を学び、日本独自の書風と和様漢字が完成し、また仮名書道も出来た。
また、王義之と並ぶ書家に顔真卿(がんしんけい)(七〇九-七八六)がいる。前者を伝統派、または旧派とよび、後者を革新派または新派と呼んでいる。

□王義之にちなむ山車
・王義之車 名古屋市古出来町、須佐之男神社
・王義之車 清須市(旧西枇杷島町)橋詰町
・紅塵車 清須市(旧西枇杷島町)西六軒
王義之人形が乗る山車で文字書きのからくりがあったというが、文政二年(一八二八)に関羽人形に変えられた。


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