暘州通信

日本の山車

◇25578 志賀海神社

2009年08月09日 | 日本の山車
◇25578 志賀海神社
福岡県福岡市東区志賀島
志賀海神社
□祭神
ウワツワタツミノカミ 表津綿津見神
ナカツワタツミノカミ 仲津綿津見神
ソコツワタツミノカミ 底津綿津見神
配祀
ジングウコウゴウ 神功皇后
タマヨリヒメノミコト 玉依姫命
オウジンテンノウ 応神天皇
□汎論
 志賀海神社は「漢委奴國王」の金印でよく知られる志賀島に祀られる。延喜式神名帳に大社として記載される古社。三祭神ウワツワタツミノカミ(表津綿津見神)、ナカツワタツミノカミ(仲津綿津見神)ソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)が祀られる。
 龍の都とも言い、イザナギノミコト(伊弉諾命)の禊祓により生まれた神とされ、全国の綿津見神社の総本宮であり、海神の総本社で、阿曇氏が祭祀を司ってきた。
 筆者按ずるに、チュウアイテンノウ(仲哀天皇)とジングウコウゴウ(神功皇后)の九州征伐とは、皇統と大和政権を確立する上で海神の総本社に祀られる海神三神の引渡しを求める必要があり、チュウアイテンノウは妃も子もいたが、媒に有力な賀茂氏の一族である息長帯氏の援助を請い、ジングウコウゴウが使わされたと見る。
 スサノオノミコトとアマテラスオオミカミのあいだに不和が生じ、天孫族は海神氏(綿津見氏)からはなれ高天原に天下った。一方スサノオノミコトは朝鮮の曽尸茂梨(そしもり)に天下った。いわば両成敗のかたちで、敢えていえば阿曇氏から放逐されたと考えられる。スサノオノミコトはいわば天皇記である古事記、日本書紀ではかなり悪しざまに扱われているが、素盞鳴命の側からみれば、天照大神(アマテルカミ)はかなりわがままな女神(女性)だったようである。
 天孫族はのちに大和において強大な勢力を持つにいたり、数世紀を経て祖神の引渡しをもとめてきても阿曇氏おいそれとは応じなかった。ジングウコウゴウが三韓征伐に赴いたというのは安曇氏に発言力のある一族の説得を求めるためであろう。
 しかし、結果ははかばかしくなく、ウワツワタツミノカミ(表津綿津見神)に対してウワツツオノミコト(上筒男命)。ナカツワタツミノカミ(仲津綿津見神)に対してナカツツオノミコト(中筒男命神)。ソコツワタツミノカミ(表津綿津見神)に対してソコツツオノミコト(底筒男命)の三神を新しく立て、これをツミエノカミ(住吉神)として祀ることになったと推定される。住吉神社の創祀は神功皇后の九州征伐以降の成立である。
 静岡県袋井市に、延喜式に記載される古社、赤尾渋垂郡辺神社 (あかおしぶたれこうりべじんじゃ)があるが、祭神は、ウワツワタツミノミコト(表津綿津見神)、ナカツワタツミノミコト(中津綿津見神)、ソコツワタツミノミコト(底津綿津見神)と海神三神を祀りつつ併せてウワツツオノミコト(表筒男命)、ナカツツオノミコト(中筒男命)、ソコツツオノミコト(底筒男命)が祀られているのは興味深い。


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