暘州通信

日本の山車

◆35447 能楽 蘆刈

2012年07月04日 | 日本の山車
◆35447 能楽 蘆刈

 ところ変われば品変わるのたとえがある。【難波の芦(蘆)は伊勢の濱荻】もそれで、難波(大阪)では「あし」
であるが、伊勢では「はまおぎ」とよんだらしい。蘆は芦とも書かれるが「あし」のことで、「あしは悪し」に通じることから「蘆・よし」ともいわれる。難波の木村蒹葭堂は、難波の裕福な醸造家で、現在の大阪市西区区民センターのあたりが旧宅跡である。井戸を掘ったとき葭の根が出てきたのでこれを雅号にしたといわれる。特筆すべき該博な博物学者で多くの知識人らと交わった。谷文晁の描いた肖像画が伝わる。晩年過醸を咎められ、財産のすべてを失い勢州(三重県)河藝に隠遁した。
 琵琶湖の沿岸には水辺に蘆が生い茂り、独特の水郷風景を呈し、晩秋から冬季はその枯れた姿には、たとえようのない詩情が漂う。京から難波にを流れる淀川にはまだ蘆が多く生育していて、京阪電車の社窓からは、秋ともなると銀色の穂が風になびくさまが見られる。
 大阪と奈良のさかいにある生駒山西中腹に石切神社があり、日下(くさか)はその近くにある。いつのこととは知れないがここに日下左衛門とその妻が暮らしていた。つたわるところ、日下左衛門は世にも無我な人で、粗食も弊衣もいっこう気にせず、その日その日をいちにちいちにちありがたく暮らしていたが、世話をする人があって嫁を迎えたが、くらしがそんな有様だから、たちまち困窮することになってしまった。考えるに、「こどもでもできたらこんなことでは暮らしが立ち行かなくなる……」。やむなく妻女を離別して元の一人暮らしになったが、生活は苦しくなるばかりであった。
 夫のもとを去った妻女は才覚のある賢夫人だったが、お暇が出てからは京にのぼり、下積み生活を経てしだいに頭角を現し、さる高家の乳母となり、たくわえもで生活も落ち着いたのであるが、さてそうなると思い出されるのは貧しい夫のこと。貧しいのが欠点だったがいたって好人物だったやさしかったもと夫のことを思い浮かべると居ても立ってもいられなくなった。
 ついに意を決し、東難波の日下にもとの夫を訪ねるのであるが旧居にはすでに日下左衛門の姿はなく、尋ねてもその行方を知る人はなかった。
 妻を離別した日下左衛門はますます困窮し、零落のはては茅渟の海(大阪湾)にちかい淀川の河口あたり(現在の西淀川区のあたりだろうか)、ここで今様などを口ずさんで、貧しさを嘆くでもなく,天を恨むでもなく、飄々と蘆を刈り細々とした暮らしを続けていた。
その日も、いつもと変わらず戯れながら、面白おかしく囃して蘆を売り歩いていたが、あるひとに呼びとめられて、御津の浜の由来を語り、請われるままに【笠尽しの舞】を舞うのだが、蘆を渡す段になってふと見るとそこには別れた妻の姿があった。
 これにはさすがの左衛門もはずかしくなって苦笑いし、身を隠そうとするが、妻は夫に近づき、やさしく夫に声をかける。そのあといまの思いをお互いに歌に託して伝えるが、いまも相思相愛の情が確かめられると、もともと不仲ではなかったもと夫婦はいちどに心もうちとけ、左衛門は妻が用意した衣装にあらためて、めでたく祝儀の舞をまい、夫婦は揃って京へもどる。

 能楽 蘆刈 笠ノ段

  あれ御覧ぜよ 御津の浜に 網子ととのうる網船の えいやえいやと寄せ来たるぞや 
  名にしおう難波津の 名にしおう難波津の 歌にも大宮の 内まで聞こゆ網引きすと
  網子ととのうる 海士の呼び声と詠みおける。
  古歌をも引く網の 目の前に見えたるありさま あれ御覧ぜよや人人
  おもしろや心あらん おもしろや心あらん 人に見せばや津の國の 
  難波わたりの春の景色 おぼろ舟こがれ来る 沖のかもめ磯千鳥 
  連れだちて友呼ぶや 海士の小舟なるらん……

 能楽の蘆刈は、世阿弥が古い能を改作したと伝えられる。不遇をなげくことなく、あたえられた日々に感謝し、仕事にはげみ、妻を愛し。妻はひたすら夫に仕える。夫婦愛和する情愛の深さ、人間の知恵の及ばない縁しの不思議が思われる。
 飛騨高山(岐阜県高山市)にはこの能楽をからくりで演じる山車(屋臺)があった。
 京都祗園祭には【蘆刈山(芦刈山)】が曳かれる。

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